中編
前世では、引きこもりになった私を、親は持て余し、田舎にあるおばあちゃんの家に引っ越すことになった。おばあちゃんの家に引っ越した後は、たまに畑仕事や家事を手伝うくらいで、ゲーム三昧だった。近所の人が私のことを後ろ指指していたのに、おばあちゃんは気付いていたけれど、特に気にした素振りもなく笑っていた。
「生きているだけで、儲けもんだよ」
――私のおじいちゃんは戦争に行って、おばあちゃんのお姉さんは病気で死んだらしい。
縁側にゴロンと転がりながら、ゲームに耽る前世の私を見て、おばあちゃんが聞いた。
「楽しい?」
「まあまあ。……でも、このゲームの世界では、私がいないと、キャラクターたちは幸せになれないし」
暗に『現実は違う』という私の考えを読んだらしいおばあちゃんは、穏やかな表情で言った。
「おばあちゃんは、あんたがいて幸せだよ」
私は、学校にも親にも必要とされなかった。そんな私が、何て言っていいのか分からなくて、無言でゲームの世界だけを見続けた。おばあちゃんは、私をしばらく見た後、ぽつりと言った。
「いつか、あんたにもそんな相手ができるといいね」
これが、私の前世の自分の最後の記憶。前世の自分のその後の人生も覚えていない。なのに、おばあちゃんが何気なく言った言葉は、今も何度も思い出す。
◇◇◇◇◇
さて、卒業式の後、家出してきた先は、乙女ゲームの舞台であるエトワール王国とこの国の隣のトタバルス皇国の国境近くだった。王立学園の園芸部の部長のお父様であるリンドバーグ伯爵が治める土地だ。
リンドバーグ伯爵家の領地の北側は、この国と皇国の国境になっている山地であり、領土自体は潤沢な水量を誇る川の下流沿いにあり、この国としては高温多湿。麹を醸すのに良く、なんと、米も作っている!
部長は、小麦が育てにくく、また、たまに川が氾濫する自領で、より収益の高い作物を作れないかと考えて、園芸部に入っていたらしく、大豆作りに邁進していた私と話が合った。
卒業後に、引き取られた先である男爵家に望まぬ婚姻をさせられそうだと部長に漏らしたところ、リンドバーグ伯爵領で匿ってくれることになった。伯爵家からすれば格下の男爵家相手であれば、私が伯爵家に身を寄せているのを男爵家に知られても、何とかなるという伯爵家の判断だと思う。あと、私の発酵の知識が、伯爵家に利益をもたらすことも期待されているようだ。
そして、私は、園芸部部長、改め、セドリック・リンドバーグ様に斡旋してもらった仕事で生計を立てることになった。
今日も、大量のリゾット、鶏肉のソテー、スープを準備した。それらを少しよそって、テーブルに飛び乗ったクロに出した。
「お味見どうぞ」
「うん。うまい」
クロは満足そうに平らげた。今日も良くできたらしい。
「さて、今日もそろそろ来るかしらね」
ドアに目を遣ると、間もなく、予想通り、昼時を迎え、多くの国境警備隊で働く人々が押し寄せてきた。そう、伯爵領に来た私は、国境警備隊の食堂の料理人として働いている。
国境警備隊の人々は次々に言った。
「ミラちゃーん、今日のご飯、何?」
「ああ、腹減った」
カウンター越しに、客である国境警備隊の人たちに声を掛けた。
「リゾットとチキンの炭火焼とコンソメスープ」
警備隊の人たちが歓声を上げた。その反応の良さに、つい口角が上がる。
「いつも通り、カウンターに並べているから、それぞれで持って行って。お金はカウンターの箱に入れておいて。ちょろまかしたりしたら、伯爵に言いつけるからね! 当然、出禁!」
「分かっているって!」
国境警備隊の人たちは、笑って答えると、カウンターに並べられた食事をそれぞれでトレイに乗せ、テーブルに向かった。
リンドバーグ伯爵領に来て、セドリック様と話し合った結果、私は国境警備隊の人たちに向けた食堂の店主として働くことにした。
セドリック様から、色々と伯爵領のことを聞いているとき、伯爵家では、国境警備隊の人たちの処遇向上を考えているとのことで、例えば、美味しいご飯を出すところを作りたいという話を聞いた。その場で、すぐさまその仕事に立候補した。
セドリック様には、「君が、料理をするのか……?」と驚かれたけれど、男爵家に引き取られる前は、平民の生家で、ケチな親に料理当番を任されていた。前世でおばあちゃんと料理をした経験に助けられた。王立学園では、学生寮のカフェテリアを使うことができたので、自分で料理をしなくてもご飯が食べられたが、王立学園での二年間の方が私の中で異色といえる。
伯爵家の台所を借り、料理ができることを元部長に証明した後、伯爵家に準備してもらった国境近くの食堂を開けるくらい大きめの家に引っ越した。
国境警備隊の仕事は、伯爵領では処遇が良いから人気の仕事で、隊は秩序立ち、働く人たちも私を含めた市民に乱暴なことなどしない。
それでも、絶世の美少女である私に手を出そうとする不埒な輩を危惧して、伯爵家の次男であるセドリック様自ら、私のことを王都でスカウトしてきた人間であることを国境警備隊の隊長らに伝え、釘を刺してくれた。
食材についても、セドリック様が食堂まで配達してくれるよう手配してくれたし、大量に昼食を作る仕事は大変だけど、新生活は概ね順調である。
セドリック様からは、人を雇うことも提案され、そうすれば、もっと余裕ができることも分かるのだけど、一つ、躊躇してしまう理由がある。
厨房で鶏肉をどんどん焼いて、盛り付けていると、食堂から警備隊の人たちの会話が聞こえた。
「おっ、これは……」
「何か癖になる味だよな」
「ミラちゃん、これ、どうやって味付けしてんの?」
今日は味噌もどきをベースに、焼いた鶏肉を味付けた。実は、王都から離れて二年ほど経ち、前世で食べていたほどの味は再現できていないが、味噌のようなものを作ることができるようになっていた。
そして、これが、食堂に手伝いが入ってもらいたくない理由である。私は味噌を作るため、日々励んでいて、食堂の裏には、かなりたくさんの味噌の試作品がある。
鶏肉を盛り付ける手を止めないまま、答えた。
「内緒。営業秘密よ。でも、おいしいでしょう。いっぱい食べて行って!」
「最高。いつもありがとな!」
満面の笑みを皆に向けられ、少し良心が痛む。喜ばれるのはもちろん嬉しいが、それだけでなく、味噌もどきが消費されれば、味噌の試作を増やせるということもある。
食堂の営業時間が終わり、黒猫の見た目をした妖精であるクロと一緒に、今日の食堂のメニューと同じものを食べた。私たちの分には、味噌もどきを大目に使って、鶏肉の味付けをしている。
「クロ、どう?」
「まあ、やっぱ、うまいな」
「ほらね。頑張って良かったでしょう」
「それについては、黙秘する……」
この国で広く使われている大豆、塩に加え、高温多湿なこの地域に来て、米が手に入った。あとは麹だけだと、女神様に力を与えられたクロには大分無理をしてもらった。
クロが「そんな意味の分からない菌を作り出すのは無理だ!」と匙を投げるのに、「女神様から力を与えられているクロならできる!」と粘り強く説得して、試作を延々重ねて、ようやく味噌に近いものができるようになった。
「今日も味噌を作るわよー!」
「も、もう嫌だ……」
クロは急いで食事を食べ終わると、私からじりじりと後退った。逃がさないように、ゆっくりと距離を詰めていると、クロが何かに気が付いたように、毛を逆立てた。そして、すぐに外から何かの動物の鳴き声が聞こえた。
「珍しいわね。警備隊の馬が逃げ出したのかしら」
クロは珍しく深刻そうな声を出した。
「おい、大変だぞ」
「何?」
「……死の匂いがする」
クロの言葉に、大慌てでドアを開けると、初めて見る、真っ黒に艶やかな鱗が光る大きな生き物がいた。
その黒い生き物は、私とクロをじっと見てから、森の奥に戻って行った。
「ついてきてほしいってことかしら」
「多分」
クロと顔を見合わせた後、森を進みながら、クロに聞いた。
「ねえ、あの生き物って……」
「竜っぽいな」
「やっぱり?」
竜が進む方向にしばらく行くと、泉に辿りついた。一見、誰もいないようだったが、竜が何かに近付き、咥えて持ち上げるような動作をすると、地面に横たわる大柄な男性が現れた。
魔法のように、何もなかった場所から、急に男性が現れたのに唖然とした。しかし、すぐに、男性が苦しそうな様子であるのに気付き、慌てて駆け寄った。
「大丈夫?!」
近寄ると、男性は濡羽色の髪で、王立学園でよく見たように、いかにも上質な服を着ている。でも、髪は乱れ、その服には血がベッタリとついていた。
「大変。誰か、人を呼びに行かないと――」
私が立ち上がろうとすると、何処にそんな力があったのかと驚くくらいの強さで、腕を掴まれた。驚いて見ると、苦しそうにしながらも男性がこちらを見ていて、男性の青色の瞳と目が合った。
「頼む。黙っていてくれ」
「無理に決まっているでしょうが。死ぬわよ」
私が男性の頼みを一蹴すると、小さく呻いた後、覚束ない足取りで、立ち上がり、竜と共に去ろうとした。
「ちょっと待ちなさい。そんな状況でどこに行く気なの!」
男性は私の方を一顧だにしない。どう考えても誰かの力を借りないと助からないのに。それほど、見つかることができない事情があるのだろう。
状況をまとめると、男性は竜を連れ、不思議なアイテムを持ち、身分の高そうな雰囲気で、傷を負い、誰にも今の状態を知られたくないらしい。訳ありでしかない。
しかし――
「あー、もう。死ぬわよ。黙っていてあげるからついて来なさい……!」
◇◇◇◇◇
森で拾った男性を匿うことにして、二週間が経った。今日は、食堂が休業日なので、朝から、我が家に匿った男性が休む部屋に向かった。
「アル、調子はどう?」
男性が自分の素性を明かすことはなかったが、『アル』という名前だけは教えてくれた。
アルは私を見ると、無言で頷いた。
「顔色が良くなっているから悪くなさそうね。食事を持ってきたわ」
私は、ベッドの脇に置いているテーブルに、今日の食事を載せたトレイを置いた。トレイには、チーズ味のリゾット、そして、具をくたくたに煮込み、味噌もどきで味付けしたスープがある。アルが味噌味のスープを初めて食べた時、初めて食べる味だからか、怪訝な顔をしていたのは、今、思い出しても笑ってしまう。
この家に連れてきた時、アルは肩に傷を負って、高熱があった。患部は清潔に拭いたけれど、下がらない熱は感染症を患っているのかもしれないと思って、クロに男性の体にいる細菌を少し減らしてもらうよう頼んだ。初めてのことだったから、不安ではあったけれど、結果は良好で徐々に回復している。
回復してきて良かったなと思っていると、アルが思い詰めたように切り出した。
「――貴女に話さないといけないことがある」
久し振りに聞くアルの声は、低く、落ち着いていて、そして、覚悟を感じさせるものだった。真剣な瞳をこちらに向けたアルに、肩をすくめてみせた。
「ちょっと、顔が怖い! 淑女に対する態度じゃないわよ」
私がそう言うと、アルは困った表情になり、言葉に詰まった。
「あら、ごめんなさい。話しにくくなっちゃった? なら、私から話すわ。ここは、エトワール王国とトタバルス皇国の国境沿いのリンドバーグ伯爵領ということは知っている?」
アルが無言で頷いた。
「私は、ここで国境警備隊相手の食堂を営んでいる。ここが職場、兼、住居だけど、休息日にたまに伯爵領で最も大きな街に行くこともあるわ」
沈黙しているアルに、足元にいるクロを抱き上げながら、本題を口にした。少し緊張した。
「前に街に行った時、珍しい話を聞いたの。この国の隣のトタバルス皇国では、聖女と共に、悪竜の討伐に挑んだ公爵令息が、戦いの半ばで死んだそうよ」
アルは驚いたように私を見た。素性を知られているとは思わなかったらしい。
「公爵令息はアレックスという名前で、黒髪に青い瞳で、長身の逞しい美丈夫だったらしくて、国民の人気も高かったみたいね。ところで、アル、貴方も、黒髪に青い瞳で、美形で背も高い。更に名前も似ているわね。貴方、どう思う?」
アルはしばらく考え込んだ後、口を開いた。
「……私はかつてトタバルス皇国の人間として生きていると思っていた。しかし、皇国で、聖女と共に竜に向かった男が死んだというのであれば、勘違いだったらしい」
「そう。行く当てはあるの?」
俯いた状態で、黙って、アルは首を横に振った。
再び無言になったアルが何を考えているかは分からない。分かるのは、アルは祖国と仲間から裏切られ、殺されそうになったということだけ――
アルほどの経験をしたことはない。でも、何となく、誰からも見捨てられたような気持ちであれば、分かるような気がした。
「なら、ここで働く?」
私がそう言うと、アルは驚いたように、私に顔を向けた。アルと目が合い、深く透き通った青い瞳がよく見えた。初めて目が合ったのに、ホッとして笑みが漏れた。
「返事は後でいいわ。食事がまだだったわね。食べましょうか」
そして、場の雰囲気を変えるように、味噌味のスープをアルに差し出した。
「そうだ。知っている?」
「何をだ?」
「『生きているだけで、儲けもの』らしいわよ」
◇◇◇◇◇
アルが現れて、半年が経った。結果から言うと、アルは私が営む食堂で働くようになった。思いの外、すんなりと馴染んだ。
一年前、アルと話をしてから、この土地を治める伯爵の次男であるセドリック様に相談した。「死んだと言われる隣国の英雄にそっくりな人を森の中で見つけ、今、私の家にいます」と。
セドリック様は頭を抱えた後、一度、アルを伯爵家に連れて行くことになった。アルは大人しく伯爵家に出頭した。襲われても勝つか、逃げ切る自信があったのかもしれないけれど。
その後、一旦、アルは伯爵家預かりとなったが、伯爵が「皇国が、竜と戦った公爵家の息子が死んだと言っている以上、『そっくりさん』だ。そういうことにする」と結論を出し、食堂に戻って来て、働くようになった。
「アル、今日はパスタだから、茹でたものから、どんどんお皿に入れていって」
「ああ」
私が声を掛けると、アルは慣れた様子で、次々とパスタを皿に盛り、その上に、鍋に入ったクリームソースをかけた。なお、クリームソースの隠し味に味噌を混ぜ込ませている。
本来、アルは公爵家の子息で、人にかしずかれることが当たり前の身分だから、食堂の仕事は一から教えるつもりでいたけれど、意外なことに、それもあっさり覚えた。話を聞くと、かつて騎士団に属していて、野営も経験していたということだった。なお、それゆえ、聖女が竜を退治すると言い出した時、主戦力として、王子ではなく、アルに白羽の矢が立ったとのこと。
少しして、食堂の扉が開き、国境警備隊の人たちが入って来た。
「ミラちゃん、来たよ!」
「今日もうまそうな匂い」
「今日はクリームパスタか」
警備隊の人たちは私に声を掛けた後、パスタにソースを掛けているアルに気が付いた。
「おう、アル」
「後で、剣の手入れを教えてくれよ」
初めてアルのことを従業員として紹介したときは、警備隊の人達は警戒感を露わにしていたものだけど、今は慣れたものだ。
食堂では、アルのことは、セドリック様から紹介された、傭兵上がりと説明している。嘘は言いたくなかったが、アルの体格があまりによく、気品ある雰囲気が隠せないため、食堂で新しく雇った従業員というには説得力がなさ過ぎた……。
「目立つ人って、何をしても目立つのね」
昼時の営業を終え、警備隊の人たちと去ったアルに代わり、クロと共に、森に隠れているドラコにご飯を出しに行った。
ご飯を持ってきた私を見つけると、ドラコは目を輝かせた。そして、まさに、文字通り『飛んで』きた。その様子を見て、クロが笑った。
「おー、喜んでんな。お前や俺にも大分懐いてやんの」
アルに聞くところによると、ドラコは、皇国の聖女を筆頭に、剣が得意なアル、弓使い、僧侶など皇国の錚々たる顔ぶれで竜の討伐に行った先にいた親竜とはぐれた子竜だという。
ドラコを巡り、保護することを主張するアルと、討伐を主張する皇国の聖女らその他のパーティーで、意見が対立。結局、意見が合うことはなく、アルは聖女一行に闇討ちに遭い、命からがらドラコと共にこの国境の町まで逃げてきたということだった。
私の話を聞いているのか聞いていないのか、ドラコは私に頬擦りした後、昼ご飯に目を向け、食べ始めた。
縦にも横にも馬の二倍以上ある大きな体をしたドラコは、森で自ら狩りをすることもある。でも、私が料理を持ってくると嬉しそうに食べる。勿論、味付けは味噌。
「ドラコも味噌が好き?」
私の質問に答えるように、ドラコは喉を鳴らした。
「好きみたい。頑張って良かったね、クロ」
「俺はやらされただけや……」
クロと共に試作を繰り返し、かなり味噌の出来は良くなってきている。
やっぱり美味しくできているに違いないと、自己満足でニマニマと笑っていたところ、後ろから落ち着いた声が響いた。
「ここにいたのか」
振り返ると、濡羽色の髪にサファイアの瞳をしたアルがいた。ただの森でも、気品溢れる王子様のようなアルがいると、途端にお伽噺の世界のように見えてしまう。何だか楽しくて笑ってしまった。
ドラコはアルを見ると、嬉しそうに声を上げた。アルもドラコを撫でることで応えた後、私の方を見て、眉を顰めた。
「ドラコに食事を与えてくれて、ありがとう。でも、貴女一人でここに来るのは控えてほしい」
「ドラコの存在がバレることが不安? でも、私もドラコに会いたいわ。ドラコも、私が来てもいいわよね」
私が撫でると、ドラコは甘えるようにクウと声を出した。ああ、可愛い。
ドラコを見つめる私を見て、アルは溜め息をついた。
「ドラコの存在だけじゃない。こんな人気のないところに一人でいるのは危険だ」
意外な言葉に、目を瞬かせた。基本的に表情があまり変わらないアルが、私の心配をしているとは思わなかった。でも、心配は無用だ。
「大丈夫よ。これまでも問題なかったわ。私には、小さな騎士もついているしね」
そう言って、私はクロを抱き上げた。
アルには言っていないし、見た目はドラコとは天と地ほど違うけれど、実はクロもすごい。
女神が遣わしてくれた妖精で、目に見えない生き物、つまり、微生物を操る力がある。もともとは味噌を作るためだったけれど、瀕死のアルを何とか助けられないか一生懸命考えたときに、人の体の中の微生物を操れるということにも気が付いた。
クロにはアルの感染症を抑えるのに力を発揮してもらったが、その力を逆に利用すれば、人の体の微生物のバランスを崩して、体調不良を起こすこともできるのではないだろうか。当然、試したことはないけれど。
私の様子から説得できないと思ったのか、アルは、ただ、眉を顰めた。大丈夫だと思う理由は言えなくて、アルに苦笑しながら言った。
「ドラコの食べっぷりを見ていたら、私もお腹空いちゃった。帰って、何か食べましょう」
「また、あの怪しげな調味料を使うのか?」
「怪しくないし! 使うけど!」
◇◇◇◇◇
更に半年ほど経った、休息日、伯爵領の中心街に買い出しに来た。クロとは何回か来ているけれど、今日はアルも一緒だ。私が出掛けようとしたら、アルも行きたいと言い出した。残念ながら、流石にドラコはお留守番。
アルにとって、この土地の中心街に来るのは、伯爵家に出頭して以来、一年ぶりだった。なお、セドリック様は何度か国境警備隊の視察のついでに、食堂に寄るので、何度か顔を合わせている。
久し振りなので、アルは伯爵家の屋敷を訪問し、伯爵に近況報告を済ませ、中心街の市場へとやってきた。市場の多くの人を見ながら、ポツリとアルが言った。
「存外、目立たず、暮らせるものだな」
その言葉に驚いて、アルを見た。長身で気品があり、マントで隠しているのに、周囲の注目の的だった。特に、街の女性たちから熱い視線を送られている。
「どこがよ。自覚がないの? 目立ちまくっているわよ……」
「それを言うなら、君もだ」
アルに言われて、自分の姿に目を向けた。ピンクブロンドのふわふわの髪も、大きな水色の瞳も、小柄で華奢な体も、確かに可愛い。もともとこの世界のヒロインとして生まれたわけだし。まあ、悪役令嬢に負けたんだけど……。
ふんぞり返る可愛い悪役令嬢を懐かしく思い出していると、アルがポツリと言った。
「こんな平穏な暮らしができるとは、皇国を出たときは思いもしなかった。……今更だが、貴女は何者だ?」
本来なら私はこの世界のヒロインである。しかし、このことは、同じく転生してきた悪役令嬢以外は知らないはずだ。可愛くても、食堂を営む一市民でしかないはずなのだが、何故、アルは訝しむのだろう。
「食堂の店主。一市民よ。他に何だと思うの?」
「間諜。ハニートラップで私のことを篭絡し、駒にするつもりかと思っていた」
思いがけず、つい声を上げて笑ってしまった。ひとしきり笑った後、少しムッとした表情のアルに言った。
「心配しないで。間諜ではないし、これからも、誘惑するつもりはないわ」
賑やかな街の雰囲気を楽しみたくて、市場でキャンディーを買って、広場のベンチに腰掛け、私たちは話し続けた。
「伯爵の息子とはどういう仲なんだ?」
「王立学園に通っていた時の先輩と後輩の間柄よ」
目を丸くして、アルが聞いた。
「王立学園というと、この国一番の名門校に通っていたのか?」
「そう」
アルがもう少し何か聞こうとしたところで、背後から声が響いた。
「せ、せ、聖女様……!!」
振り返ると、小さな女の子を連れた男性がいた。男性は私を見るなり、勢いよく言った。
「……知り合いか? それに、聖女様?」
アルが親子に不審の目を向けながら、私を守るように立ちはだかった。でも、親子は夢中で私に近付いて来て、男性が言った。
「お会いしたかったです。ずっとお礼をお伝えしたかったんです……!」
目の前の親子には見覚えがあった。先日、クロと共に街に来て、家に帰る途中で、出会った親子だった。女の子が嘔吐していて、いかにも胃腸炎のようだったから、クロに力を借りて、女の子のお腹の細菌を減らし、道端で休ませてあげていた。
興奮した様子の親子に苦笑した。
「ご丁寧にありがとう。でも、大袈裟な言い方しないでよ。連れがびっくりしているじゃない。それに、聖女様じゃないわよ。少し薬の心得はあるだけ」
女の子が首を横に振って、言った。
「お姉ちゃん、とっても綺麗で優しかった。聖女様だと思う」
「そうです。先日、颯爽と助けてくださった姿は忘れることができません。隣国にも聖女様がいるんでしょう。この国にもいたのだと思ったものです」
女の子と女の子の父親の言葉に、何と返すか迷った。アルから、皇国に聖女様がいることは聞いていたからだ。性悪で、アルを嵌めるような聖女様らしいけれど。
何と返すべきか迷っている間に、女の子の父親は話を続けた。そして、次に言われた言葉で頭がいっぱいになった。
「とはいえ、隣国の聖女は悪竜を倒したものの、王子に嫁ぎ、王宮で豪奢な生活に溺れるようになってから、国は乱れ、再び、竜が暴れるようになったらしいですけどね――」
何度も感謝を告げてくれた親子と別れてから、アルに聞いた。
「……皇国で竜が暴れているという話、知っていた?」
「先ほど伯爵から聞いた」
ちょっとヒヤヒヤしながら、もしやと思って聞いてみた。
「……ドラコを殺されたと思って、ドラコの親が怒って暴れているんじゃないの?」
「その可能性はある」
アルは何を考えているのか、表情を変えずに答え、私は頭を抱えた。