帰らずの渦と、深淵への祈り
"鼠返しの激流"。それは第三層から勢いよく第四層へと流れ込む激流のことで、第四層への唯一のアプローチ方法である。
その激流の勢いは凄まじく、今日の潜水艦すらその流れに逆らうことはできない。第四層からの帰還を阻むので、"鼠返しの激流"と名付けられたそうだ。
今でこそ帰還の手段ができたが、昔は"鼠返しの激流"から帰還する術も知恵もなかった。第四層への挑戦、それすなわち決して帰れない旅立ちを意味していた。
だから、第四層へと通じる激流はかつてこう呼ばれていた。
―人を魅了し、決して戻れぬ旅路へと引きずり込む"帰らずの渦"、と。
『結局、先人たちも抗えなかったんだよ。絶対に引き返せないと分かっていても、諦めることができなかった。それこそ祭壇を作って祈りを捧げるくらいにね』
とは、冴子さんの談だ。一体いつから存在するか不明だが、きっと大昔から迷宮遺跡は人知れず人々を魅了していたのかもしれない。
「この円陣も迷宮遺物なんだよ」
「へぇ。これが」
俺と冴子さんは、化石船の中央にある円陣の上に立っていた。
幾何学模様だけでなく不思議な文字が描かれたそれは、迷宮遺物というより彫刻装飾に見える。
一体なんの迷宮遺物なのか聞こうとした瞬間、円陣が黄金いろに輝き始めた。
脈打つ様に点滅し俺たちを優しく包み込む光。
光が晴れると、視界に靄がかかっていた。
いや、正確には違う。頭部を半透明な膜が覆っていたのだ。
冴子さんを見ると、金魚鉢を頭に被っている様に見える。俺もそんな感じなのだろう。
「これって何ですか?」
さっきから気になっていたことを問い掛ける。変な膜に覆われているし、声が籠もるのかと思ったがそんなことはなかった。
「これは〈海神の駕籠〉。海に潜る者に、新鮮な空気が詰まった膜を授ける迷宮遺物だよ。この半透明の膜は常に新鮮な空気で満たされているんだ」
「へぇ。これにそんな効能が。なるほど、これで"鼠返しの激流"を越えると」
「そゆこと。…にしても、久しぶりに使うから時間合ってるか不安だったけど、合ってて良かった」
冴子さんは安心した笑みを浮かべて言った。
「これって決まった時間にしか動かないからさ。不安だったんだ」
冴子さんは台座に向かって手を合わせる。
「神秘満ちし迷宮遺跡よ。願わくば汝の深淵に至れんことを」
燃える様に真っ赤な髪を風に靡かせながら、手を合わせ祈るその姿は絵画の如く美しい。迷宮遺跡の神秘が遣わした巫女の様に見え、まるで迷宮遺跡が祈りに反応している様に感じた。気付けば俺も冴子さんにならい祭壇に祈りを捧げていた。
どうか無事に"鼠返しの激流"を越えれますように。そして願わくば、迷宮遺跡の深淵を少しでも覗けますように。
眼下に広がるは広大無辺にして荒れ果てた海。高波が荒々しく海岸に打ち上がる。硬い岩に打ち付けられ打ち上がる水飛沫が顔に当たるが、今はその冷たさが心地いい。
深い青色の海は、飛び込んだら最後、海の底まで引きずり込まれてしまいそうだ。
「迷宮遺物の力で海に潜っても平気だけど、頭から何かにぶつかったら危ないから油断しないでよ?」
「は、はい」
冴子さんの言葉に緊張してしまう。潜水艦すら逆らえない激流なんだ。打ち所が悪ければ即死間違いなしだ。
「にししっ。緊張しすぎ。リラックス、リラックス。紐で結んでるし、安心していいよ。それに、ここ最近"鼠返しの激流"で怪我人は出たけど死亡者はいないから」
死者はいないと言うが、油断していい理由にはならないのは良く分かる。気を引き締めていこう。何故ならば…。
「それよりも、尊くんは絶対に明かりを付けちゃダメだからね。深海に棲む迷宮生物が興奮するから」
第三層を一見すると迷宮生物が居ないように見えるが、海中に潜るとなると一変する。多種多様な水棲迷宮生物の巣窟へとこの層は姿を変えるのだ。
研修でも散々言われた。迷宮遺物以外の光源を見ると、水棲迷宮生物は興奮し手が付けられなくなると。
俺は自身の腰にしっかりと巻き付けられた縄をぺたぺた触わり確認してる。
縄の先は冴子さんの腰に繋がれていて、荒れ狂う濁流を牽引してくれるというなのだ。
冴子さんはに頼ってばかりで申し訳ないが、濁流に呑まれて海の藻屑になったんじゃ、〈冒険者〉になった意味がないから今はまだ頼らせてもらう。
最後にもう一度、祭壇の方を振り返ると小さく祈った。深淵に至れる様に無事と息災を願って。迷宮遺跡の果てなき神秘のその深淵に少しでも近付けますように。
「準備、出来ました。冴子さん」
心を落ち着かせて冴子さんの目を見ると、俺は厳かに頷いた。しかし、そんな俺に対する冴子さんの反応は極めて軽く。
「あ、そう?じゃ、行くよ」
と言って躊躇なく荒れ果てた海に飛び込んだ。
「どうせこうなるとおm―へぶっぅ!!」
冴子さんが海に飛び込んだので、縄で繋がれてる俺も感慨もクソもなく海に引き摺り込まれる。
あっという間に青一色になる視界。
パニックになるが、迷宮遺物によって呼吸ができることを思い出した俺は、慌てて深呼吸を行った。確かに呼吸ができるし、しかも顔が濡れていない。
始めは青かった視界も徐々に暗くなり、気づけばもう真っ暗だ。唯一、腰に繋がれた縄のみが頼りで、もし縄が切れたらたちまち遭難するだろう。何も見えないし、浅瀬で聞こえた雷の音ももうしない。
荒れに荒れていた表面とは異なり、海中は凄く穏やかだ。今の所、迷宮生物にも遭遇していない。
そう思ったのだが、視界の端で蒼く光る何かが接近してきてるのが見えた。
なんだろう?俺は目を凝らすがたまげることになる。
「な、なんだ!?あれは!」
蛇の様に長い胴体。胴からはまるで翼の様な胸ビレが複数生えていて、海中をしっかりと漕いでいる。尾は蠍の如く節があり、節々に小さな触手が生えていた。頭は見当たらず、胴の先端から二本の大きな触手が生えていて、海水の流れに合わせてゆらゆら漂っている。
見たことのない迷宮生物だ。…しかも速い。さっきまで視界の彼方にいたのに、もう少しで触れれる距離にいる。迷宮生物は、こちらを一瞥もせずに悠々と泳ぎ去っていった。
何だったんだ?今の迷宮生物は?図鑑でも見たことがないぞ。滅多に見られない迷宮生物なのかな…聞いてみたいが今が水中なのが恨めしい。
さっきのリュウグウノアオヒカリ(便宜上名付けた)とすれ違ってから、魚系の迷宮生物とちょくちょく遭遇するようになったリュウグウノアオヒカリのおこぼれを狙う小判鮫的な群れだろうか。
そして、遂にやって来た。
徐々に泳ぐ速度が増してきた。何もしていないのにどんどん加速していく。
何もしていないのに、もう引きずり込まれ始めたのだ。とてつもない奔流、"鼠返しの激流"に。縄が張り腰が痛む。体中が軋み揉まれてる。
音が聞こえる。ゴーゴーという、膨大な規模による海水の唸り声が、飲んだら最後決して離さない貪欲な化け物の腹の鳴る声が耳に届く。凄まじい奔流が膜越しによく見える。
何処が上で何処が下なのか、右と左ももう分からない。
膜の向こうに、ぼんやりと輪が視える。あれが"鼠返しの激流"の入口なのだろう。とか考えている内に、鼓膜が破れるんじゃないかってくらい凄まじい轟音が聞こえてくる。
第四層に通じる穴に入ったのだ。激流による水音が、狭い通路の壁に乱反射して鳴り止むことのない爆音へと進化したのだ。そして揺れも酷くなる。
真っ暗で全然見えないけど、今かなりの速度が出てる筈だ。少しでも壁に擦ったら間違いなく死ぬ。怖い。怖くてたまらない。
だがワクワクもする。命を賭けた冒険、これぞ俺が望んでいたものだ。生きるか死ぬかの瀬戸際の、神秘へのぎりぎりの挑戦。
俺は、今最高に冒険をしている!
果てしなく思えた長い旅路であったが、気が付くと轟音が消え、流れは穏やかになっていた。
"鼠返しの激流"を越えた。即ち、第四層に到達したのだ。
〈夜の明け星〉初遠征―第四層到達
迷宮遺跡に潜む神秘。それは果てしない深淵のその奥にあるという。
終わりない深淵に全てを委ね、神秘を追及する者に、迷宮遺跡はその祝福を与える。
…それをを決めるのは迷宮遺跡だけだ。