江戸へ
藩の調べで英治郎は江戸に向かったらしいと判明していた。
信一郎は、仇討ちの免状を胸に、江戸に向けて出立した。
旅立ちの日の朝、高崎家の門前にひとり立ってこちらを見ている人影がある。
里美だった。
里美は信一郎の姿を見ると、小走りに近づいてきた。
信一郎の眼前に立ち、潤んだ目でその顔を見る。
「ご武運を」
里美は、そう一言だけ言うと、踵を返して高崎家の門に逃げるように入っていった。
信一郎は、しばらく見ない間にいつの間にか女らしい丸みを増した里美の尻を見て、心の臓をくすぐられたような不思議な感覚が湧き上がって、こみあげてくる笑みを噛み殺した。
江戸までの旅の途中、信一郎は、房江の生家に立ち寄った。
房江が泉下に潜ってから、この百姓家には一度も訪れていない。
家に着くと、伊平はすでにこの世を去っており、幹助とせつが出迎えた。
「おお、おお信一郎様。立派になりましたなぁ」
せつの目尻から涙が流れ、皺に沿って頬に流れた。
幹助とせつは、百姓身分に遠慮して、市右衛門の葬儀にも現れていない。
「母ちゃん、落ち着けって。信一郎様は、今、大変な時期なんだから」
幹助が、興奮するせつを制する。
「おうおう、聞きましたよ。市右衛門様も突然のご不幸で……」
信一郎は、せつの手を握った。
「ばあちゃんも、おじさんも、そんな畏まんないでくれろ。俺は昔どおりの信一郎だから」
「だけども……」
「侍になっても、ばあちゃんの孫には変わりないべ。幹助おじちゃんは、やっぱりおじちゃんだべ」
幹助の目にも涙が滲んだ。
「信一郎様は、この家を出てから苦労のしどおしで……。その上今回の市右衛門様のことまで。親父の言うとおりじゃった。信一郎様と房江をこの家から出すべきじゃなかった……」
「おじちゃん。そんなことないって。俺はこうして侍になった。それで、仇討ちを成し遂げて帰ってくれば、家禄は元通りだし、うまくいけば加増だってあるかもしれねえんだよ」
「本当か」
「本当だ。だから、心配はいらねえ」
「仇討ちなんて、大変なことじゃないのか」
「大変なことだ。だけど、俺は強い。心配はいらねえ」
「そうかぁ。やっぱり立派になったなあ」
「ああ、ばあちゃんの孫だからな」
信一郎が、せつの肩を抱く。
せつは声を上げて泣き出してしまった。
信一郎と幹助が苦笑して顔を見合わす。
「そんなことより、おじちゃん。俺はこれから江戸へ向かうんだが、今晩一晩泊めてくれねえか」
信一郎は、まだ英治郎に対して必勝の思いは抱いていない。
もしかしたら、二度と相馬中村の地を踏めぬかと思い、最後になるかもしれない祖母と叔父との時間を過ごしにきたのだった。
この家で過ごした時間は、信一郎の生涯で最も満ち足りた時間だった。
乳母もいなかったため、母に乳を与えられ、母の手で育てられ、家族はみな優しく、自由に野山を走り回った。
信一郎は、翌日夜明けとともに旅立った。
せつはまた泣いた。
幹助は「仇討ちがうまくいかなかったら、いつでも帰ってこい」と言ってくれた。