友来る
七日目の夜、腕の痛みをこらえて夜食を食べ終え、自室で膏薬を張り替えていると、とえが声をかけてきた。
「お隣の圭吾様が訪ねていらっしゃいましたけど、いかがいたしますか」
剣術で名を上げた信一郎と違い、圭吾はその秀才を認められ、現在は藩校で助教を務めている。
「この部屋に通してくれ」
とえに申し付けると、信一郎は手早く薬箱を片づけ、居住まいを正した。
廊下に足音がし、障子が開く。
小柄な圭吾の体が障子の影から現れた。
圭吾は無言で部屋の中に進み、信一郎の前に正座した。
「このたびはご愁傷様です」
圭吾が深々と頭を下げる。
「よせよ、俺とおまえの仲でそんな堅苦しい挨拶は無用だ」
信一郎と圭吾の交誼は深い。
幼い頃に、百姓の子だとか妾の子だとか様々な揶揄を受けた信一郎を、圭吾は影になり日向になりかばった。
また、圭吾は人一倍学問ができたが、背は小さく力も弱かった。
そのせいで、少年期から青年期にかけてくだらない妬みや嫉みからから肉体的ないじめに晒されることが度々あったが、そんな時、圭吾を守ったのは信一郎だった。
「そうだな」
圭吾が後ろに手をついて足を崩す。信一郎の顔が歪む。
「どうした」
信一郎が、怒ったのかと思って、圭吾は体を起こした。
「いや、なんでもない。最近久しぶりに、体を動かしいておってな。節々が痛んでならぬ」
「やはり行くのか」
「ん。どこにだ」
「仇討ちに決まっておろう」
圭吾の厳しい視線を受け、信一郎は頷いた。
「無論だ」
「丸山英治郎は、剣の達人と聞くが……」
「わかっておる。だからこそ、改めて稽古を積んで体を鍛えなおしておるのだ」
「それで、勝てるのか」
「勝たねばならぬわ」
「おまえは、もともと物事に拘泥しない男だ。悪く言えば飽きっぽい。それで学問も途中で放りだした」
「なんだと。おまえこそ剣術を途中で投げ出したではないか」
「いやいや、あれは人には向き不向きというものがあるということだ」
圭吾が腕を組んで目を閉じ、首を左右に振る。
「そう、俺には学問は向かなかったというだけのことだ。別に飽きっぽいというわけではない」
信一郎が圭吾をまねて腕を組み、首を何度も縦に振る。
「こいつ、屁理屈を」
「屁がついているとはいえ、俺に理屈で言い負かされているようでは、おまえの学問も大したものではないな」
「ふふふ、言うな。俺はまだ確かに修業の途中だ。そして、どの道でも修業は果てないものだ。おまえがどんなに鍛え上げても、相手はその上をいくかもしれぬのだぞ」
信一郎が畳の縁に視線を落とす。
「ああ、そうだな」
ふたりが同時に腕組みを解いた。
「命を落としては、元も子もないぞ。仇討ちの件はどうにかならぬのか」
顔を上げた信一郎は、自分に言い聞かせるように言葉に力をこめた。
「ならん。仇討ちは、武士の定法だ」
「今回だけは途中で止めるというわけにはいかんということか……」
圭吾が再び腕を組んで目を閉じた。
「里美が、気に病んでおる……」
許嫁が脱藩し、隣家の人間に仇としてつけ狙われるのだ。
若い女の身としては、体を雑巾のように絞られるような思いであろう。
「すまん」
圭吾が目を開いて信一郎を見つめる。
「違う。里美が気に病んでいるのは、おまえのことだ」
圭吾が腕組みを解いて身を乗り出した。
「なんだと」
信一郎も顔を前に突き出す。
ふたりの顔が互いの息がかかるほど接近する。
「里美は、丸山英治郎が剣の達人と聞き、おまえの身を案じてやせ細っているのだ」
「どうして」
圭吾が背筋を伸ばして鼻から息を吐き出す。
「わからんか……。里美は遊蕩児の噂の高かった丸山との縁談に、あまり乗り気ではなかった。だが、父が無理やりに縁談を進めたのだ。父は、今回の話が、里美に持ち込まれる最初で最後の縁談だと思っていた」
信一郎が、胸をそらして口をへの字に曲げる。
「馬鹿な。里美はいい女子だ。俺たちが一番よく知っておろう」
「ああ。そうだ。しかし、世間はそうは見ない。里美を高崎の福笑い娘とあだ名して、笑いものにしている馬鹿者どもはたくさんいる」
「では、なぜ丸山は里美を嫁にと望んだのだ」
「奴は、遊びが過ぎて嫁取りが遅れた。そのせいで、剣の腕は立つのに嫁の来手がない。醜女の里美ならば、縁談を断るまいとでも思ったのであろう」
「里美は、醜女ではない!」
思わず信一郎は大声を上げたが、その瞬間体がまた痛んだ。
「あ痛たたた」
「そのような為体で、丸山に勝てるのか」
「今の話を聞いて、決心が固まったわ。丸山には必ず勝つ」
「わかった。だが、忘れるな。おれたちはまだ若い。あたら命を無駄に捨てるな。父には後難を恐れて、口外するなと言われているが、おまえには話す。あの晩、夜半に我が家に忍び込んだのは、丸山だった。奴は、行きがけの駄賃に里美を連れ出すつもりだったのだ。だが、里美が頑強に抵抗し、俺も父も気がついて駆け付けたせいで、諦めて逃走した」
「やはり、そうだったか」
「俺としても、妹に恥をかかせた憎き男だ」
信一郎はがっちりと圭吾と目を合わせて頷いた。