帰らぬ人
眠れぬ夜を過ごした信一郎は、翌日、平時よりやや早い時間に出仕した。
御納戸役の詰め所に入ると、すぐに目付けの新宮官兵衛が姿を現した。
「おお鷲巣、待っておったぞ。一大事じゃ」
信一郎は背中に冷たい鉄の棒を差し込まれたような悪寒がはしり、思わず立ち上がった。
「どういたしましたか」
「とにかく来い。歩きながら話そう」
背を向けて歩き出した官兵衛に、信一郎は小走りで追いつき並びかけた。
「何があったのです」
「市右衛門が斬り殺された」
「なんですと!」
「斬られたのは、昨夜。下手人は恐らくは丸山英治郎じゃ」
丸山英治郎は、市右衛門と同じ勘定方に籍を置く藩士である。そして、英治郎は隣家の里美の許婚でもあった。
「どうして丸山が」
信一郎は何度か丸山英治郎の試合を見たことがあった。
英治郎は六尺近い体躯の持ち主である。
試合では優れた体を利用し、位で相手を押して込め、最後には水際立った勝利を収めるのが常であった。
少年だった信一郎の目には、英治郎の傲岸な態度と圧倒的な強さは鬼神の如く映った。
「昨日、市右衛門と丸山が口論をしているのを聞いたものがいる。市右衛門に勤めの上での齟齬を叱責されたのを、恨みに思っていたらしい」
「それで、父は今どこに」
「骸は朝一番に発見され、城に運び込まれておる。今から案内する」
官兵衛に案内された城庭で、市右衛門は筵の上に顔に布をかけられた状態で寝かされていた。
「市右衛門も刀は抜いていたが、袈裟懸けにひと太刀で絶命している」
信一郎は片膝をついて顔の上にかけられた布を取り、市右衛門の顔を検めた。
間違いなく、父親の顔である。
市右衛門の顔は白粉を塗ったように真っ白で、人形のように静かな無表情だった。
続いて体を検める。
官兵衛の言葉通り、市右衛門の体は、深々と斜めに切り裂かれている。
凄まじい切り口だった。
一刀流の剣士としてその名を広く知られた英治郎の剣名に恥じぬ、見事な切り口である。
「丸山はどこに」
「市右衛門を斬って、そのまま逐電したようだ」
信一郎の脳裏に、昨夜走り去っていった人影が浮かんだ。
だが、信一郎は、その事を官兵衛には伝えなかった。
「人を出して、丸山の行方を追ってはいるが、夜のうちに藩外に逃亡した公算が高い」
「私は、いかがすればいいでしょうか」
信一郎は、武士としてこういった場面においてどのような態度や行動を取ればいいのかわからず、官兵衛にお伺いを立てた。
「今日は、とりあえず家に帰って沙汰があるのを待て。市右衛門の骸は、検屍の後、家に届ける」
「はい」
父親の死を目の当たりにしても、信一郎の心は無色で、ただただ澄んでいた。