鷲巣家の父子
眠気が兆し、目をつぶった鷲巣信一郎の脳裏に、家の門をくぐったときにふと目をやった庭の鶯神楽が浮かんだ。
――今年の鶯神楽の花はは常の年より少ないな。信一郎は帰りの遅い父親と関係のない事を思い浮かべた。
信一郎の父親の市右衛門は陸奥国相馬中村藩の勘定方に勤める武士だ。
そして、元服を済ませた信一郎は、半年前から御納戸役に見習いとして出仕している。
徐々に仕事に慣れ始めてはいるが、それでも体の芯が鉛になったような疲れは抜けきることが無い。
信一郎は、大口を開けて欠伸をし、大きく洟をかんだ。
厳格な父親の前では、決して見せないしぐさだ。
信一郎は、五歳までは母親の実家である農家で育てられた。
その理由は、信一郎の母親である房江が、市右衛門の正妻でなかったことにある。
房江は富農の娘であったが、鷲巣家に行儀見習いをかねて奉公に上がっている際に市右衛門に手篭めにされた。
それも一度ならず数度にわたって市右衛門は人目を忍んで房江を犯した。
市右衛門の正妻絹代は自らの体の弱さを気に病む性質で、そのせいか市右衛門に女が近づくのを異常に嫌った。
少しで市右衛門の身辺に女の影が兆すと、狂ったように喚き散らし、手元にあるものを手当たり次第に投げつける。
こうなると市右衛門も手がつけられなくなり、ただひたすらその怒りが収まるのを待つより他なかった。
そんな正妻の行状を知っていた房江は絹代を恐れ、市右衛門との関係を隠し、ひたすら耐え忍んだ。
絹代と市右衛門の間には子はなかった。
やがて男と女の理で、房江は懐妊した。
房江は、妊娠をひた隠しにしたが、腹が膨れてきて隠し切れなくなり、実家に戻って信一郎を生んだ。
房江の父親である伊平は怒り狂ったが、鷲巣家は武家であり、苦情をねじ込むことはできなかった。
しかし、いつしか信一郎の存在は鷲巣家の知るところとなり、激怒した絹代はそのまま寝付いてしまい、この世を去った。
子供のいなかった市右衛門は、房江と信一郎を引き取ろうとしたが、伊平は頑として首をたてに振らなかった。
しかし、長男の幹助と母親のせつが、時をかけ「房江と信一郎のためだ」と伊平を説き伏せ、ふたりは鷲巣家に引き取られることになった。
夢か現か定かでないような薄い靄のような意識で過去を思い浮かべている時、地面に大きな荷物を投げ出したような物音を耳にして信一郎は薄目を開けた。
市右衛門が帰ってきたとしたら、出迎えに行かねばならない。
しかし、家の戸が開く気配は無かった。
時間はすで戌の刻を回り、木戸も閉まっている。信一郎は再び目を閉じた。
信一郎と房江が鷲巣家に引き取られて、十数年の歳月が流れた。
市右衛門は、自分があれほど切望して引き取ったにも関わらず、百姓の出である房江に事あるごとに辛く当たり続けた。鷲巣家は八十石取りの武家であったが、市右衛門は、人を雇うことをせず、家事の一切を雇人だった時と同じように房江にやらせた。
信一郎は、今でも母の早死の原因は市右衛門だと信じている。
信一郎もまた、そんな父親を怖れて、度々生家に逃走した。
生家はいつも温かく信一郎を迎えてくれたが、すぐに鷲巣家に連れ戻されるのが常だった。
剣術という、己をどっぷりと埋没させることのできるものに出会わなかったら、信一郎は鷲巣の家に残ることはできなかったかもしれない。