父の最期
「あの日、俺は岡場所帰りにおまえの親父と偶然一緒になった。そして、連れ立って歩いた。昼間叱責を受けたことを恨みに思って、俺がおまえの親父を襲ったという話になっているらしいが、それは間違いだ。ことはあくまで偶然だった」
信一郎が渇いた口の中から必死で唾液を集めて飲み下す。
「別に愉快な道行きではなかったがな。酒が入っていたせいもあるだろう、俺がおぬしの剣をしょせんは百姓の剣だとけなしたら、おまえの親父は激昂して斬りかかってきたぞ」
市右衛門は信一郎のために剣を抜いたという……。
そして命を落とした。
信一郎は、気息を整えながら英治郎の言葉の続きを待った。
「意外に鋭い剣でな。俺も昼間の件が少し胸に引っかかっていたこともあり、思わず斬り捨ててしまったというわけだ」
優しい言葉すらかけてもらったことがない父。
ただ、家の存続のために母と自分を引き取り、体面のためだけに教育を施してきたと思っていた父。
その父が信一郎の名誉のために命を懸けた。
そこにあるのは、紛れもない愛情ではないのか。
信一郎の脳裏に、ずっと忘れていた記憶がよみがえってくる。
鷲巣の家に引き取られて間もなく、慣れぬ環境のせいか信一郎が高熱を出して寝込み、苦しんでいた時があった。
その時父は、医者に向かって何かを大声で怒鳴っていた。
その言葉は、信一郎の命を守るための、医者への必死の懇願ではなかったのか。
母が身罷ってしばらくの間、父はひとりきりになった時、袴を強く握り締めて項垂れていることがあった。
そしてある時、その手の甲に一滴落ちたものは紛れもない涙だった。
市右衛門は初めから信一郎母子を愛していた。
それも血筋としてではなく、親として人間として愛しんでいたのだ。
幼い信一郎は、それまで独り占めにしてきた母親の愛情の一部が、父親に奪われたことに寂しさを覚えていた。
そして立派な侍になることを夢見ていた信一郎は、その気持ちを男らしくないと考えていた。
不甲斐無い寂寥感を認めたくないゆえに、信一郎は父親を必要以上に貶めて考える習慣がついてしまっていたのだ。
市右衛門は決して冷酷な家長だったわけではなく、ただ不器用で、愛情をうまく表現できない無骨な父親だった。
母と息子に対する、厳しい態度も、体面を重んじる武家社会で生きていくために、必要な躾だったのだ。
父親を抱きしめるべきだった。
恨みの目を向けた過去を詫びねばならなかった。
父が好きだと言いたかった。
引き取り、育ててくれた上、武士にしてくれて「ありがとう」と言いたかった。
剣術の目録を取った時、市右衛門は満面の笑みで迎えてくれたが、信一郎は俯いたまま目を合わせなかった。
はにかんだ笑顔を少しでも見せれば、父はどんなに喜んだことだろうか。
未熟さゆえに父親を傷つけ、あるいは母親も傷つけていた自分の幼さを認めなければならなかった。
今はもう、その後悔は取り戻すことができない。
信一郎は、自分への怒りで体が熱くなった。
今の信一郎に、ただひとつできることは、見事に父の仇を討ち、自分が鷲巣市右衛門の息子として相応の武士であることを証明するより他ない。




