初めての酒
信一郎が判助に連れられてはいった場所は、町人や下級武士と思しき人間が雑多に飲み食いをする場所だった。
ふたりは、奥の小上がりに席を取った。
判助が大声で酒と肴を注文する。
間もなく化粧の匂いのきつい太った中年女が、片口に入った酒と青菜の煮浸しと目刺しを運んできた。
「さささ、どうぞ、どうぞ」
信一郎は、初めて目にする市井の人間の赤裸々な姿に圧倒されながら盃を差し出した。
判助が酒を注ぐ。
「かたじけない」
信一郎は注がれた酒を一気に飲み干した。
初めて飲む酒は甘く舌の上を通過し、喉に軽い刺激を残して胃の腑に落ち込む。
信一郎は全身がふわりと温かくなるのを感じた。
返盃をするというような大人の常識も持たない信一郎を見て、判助は自分で自分の盃を満たした。
「ささ、もう一杯」
判助は、信一郎にも酒を注ぐと、盃を目線のところまで上げて信一郎に目線を合わせ、ニッと口角を上げて、一気に盃を干した。
合わせて信一郎も盃を干す。
二杯目を飲み干すと、妙にうるさかった周りの音があまり気にならなくなった。
「すきっ腹に、あまり飲むと悪酔いする。少し何か口に入れたほうがよい」
判助に勧められるままに、目刺しや青菜を口にしながら、さらに盃を重ねる。
判助は、仇討ちという行為そのものが興味深いらしく、信一郎に様々な質問を発したが、他人に話せるような事件にも事実にもまだ突き当たっていなかった。
要領を得ない受け答えをするうちに、信一郎は妙に体が軽くなり、仇の英治郎は明日にも見つかってすぐに斬り倒せるような気がしてきた。
判助は、信一郎がろくに受け答えをしなくても、上機嫌でひとり何かをしゃべっている。
やがて、信一郎の脳裏には幼い頃の様々な思い出が浮かび始めた。
そして、その大半は父親の市右衛門に関する思い出である。
市右衛門は、常に百姓の出の母を責めていた。
食事の味付けから、箸の上げ下げ、その他あらゆる母の挙措が、市右衛門の小言の格好の材料になった。
母は死ぬまで一言たりとも市右衛門に逆らうことはなかった。
ただ、百姓の娘である自分が武士の妻であるのにふさわしいように懸命に努めた。
信一郎は、そんな母の苦労は自分が侍になりたいと希望をしたためではないかと悩んだ。
幼かった信一郎にとって、市右衛門は父親というより、大好きな母親をいじめる、憎き見知らぬ大人であった。
「そろそろ、次に行きますかな」
判助が立ち上がった。
「あ、はい」
勝手がわからないまま、信一郎も立ち上がる。
勘定は判助が払った。
「あ、いや、金はわたくしが」
「いやいや、今晩は、先日のお詫びもかねて、わしに奢らせてくだされ」
そう言うと判助は信一郎に金を出させることなく、外に出た。
「ちょっとわしのような身分では、吉原に繰り出すというわけにもいきませぬが……」
そう言って、判助が信一郎を連れ込んだのは、場末の岡場所だった。




