九州飛行機物語 --- 機上練習機「白菊」編 ---
九州飛行機物語 --- 機上練習機「白菊」編 ---
九州飛行機と聞くと飛行機マニアからは局地戦闘機「震電」の名前が
出ることが多い。
「震電」の開発秘話は別に述べたので時間があれば目を通してほしい。
今回は 九州飛行機が開発した隠れた日本の名機をとりあげた。
九州飛行機がメインに製造した飛行機は海軍機上練習機「白菊」である。
海軍での登録ナンバーは「K11W」
「K」は練習機を意味し、「11」は正式採用された順番、
「W」は九州飛行機の前身である「渡邊鐵工所」のイニシャルを示している。
機上練習機という単語を知らない方がいるかもしれないので簡単に説明する。
知っている人は読み飛ばしてほしい。
通常、練習機といえば操縦の練習をするための飛行機である。
機上練習機は操縦士以外の飛行要員の訓練を行う目的で開発された
機種なのだ。
操縦訓練以外の飛行要員訓練は下記が主要である。
航法:飛行機の位置測定や風向・風力の偏差を計算し目的地に向かう。
爆撃:飛行機の速度、高度、風向を計算して爆弾を当てる
通信:揺れ、騒音の中で通信機の保守や正確な通信を行う
射撃:敵も自分も高速で移動中なので弾の速度を加味した見越射撃訓練
練習生と教師が同乗して側で教えることが必要であるが通常の爆撃機や
偵察機などは教師と練習生の二人を乗せるようには作られていない。
二人が乗れるようにした特別仕様の大型訓練専用機を、航法、爆撃、通信、
射撃などそれぞれの訓練内容に応じて製造または改造する必要があった。
大型機は運用、整備などに多くの人員や機材、燃料、広い飛行場が必要で
コストが大きな問題なのだ。
九州飛行機は胴体の太い単発機で飛行要員の訓練を行うことができる
機上練習機を開発した。
これによって訓練コストを大きく削減することができたのである。
機上練習機「白菊」は11型(K11W1)と21型(K11W2)を合わせて798機が
製造された。
予科練を卒業した操縦士以外の飛行要員の多くは「白菊」での訓練を
受け、多くの技術を会得し実務に入ったのである。
地味ではあるが重要な機種として海軍の大型機要員訓練で使われた
機上練習機「白菊」が九州飛行機で作られたエピソードを紹介したい。
友人達に この飛行機の開発秘話を話したら、どこかで聞いたような話と
感じたようだ。彼らは日本文学をたしなむ少年・少女時代を過ごしたの
かもしれない。
九州飛行機の社長 渡邊福雄は7人姉弟の次男として生まれた。
母は福雄の少年時代に亡くなり、父の事業の失敗もあって貧しい生活で
あった。
福雄は少年の頃から伯父の副業である渡邉鐵工所で工員として働いていた。
民子は、福雄のいとこで、2つ年上 の17歳の少女である。
福雄の母は、病気がちで民子に家事や看護をしてもらっていた。
家事手伝いにきた2歳年上のいとこの民子と福雄は親しくなっていた。
二人の仲は近所の人たちに噂されるようになる。
周りの人が噂するので無邪気な付き合いはできなくなってきた。
ある秋の日、二人は家の用事で畑に向かう途中 福雄は道端の白菊を見つけ
立ち止まり、一握りを採った。
民子は先に歩いていたが振り返り、福雄の手の白菊を見て駆け寄った。
「僕は白菊がいっちゃん好いとうよ。民さんも白菊が好いとう?」
「うちは白菊ん生まれ変わりなんちゃ。白菊ん花ば見るっち
身ぶるいん出るほどかわよかっち思うん」
「民さん、そげん白菊の好いとー・・・民さんは白菊のごたる人だぁ」
話題の尽きない二人の帰りが遅くなったため、世間の目を気にする父は
福雄に福岡を離れるよう転職を求めた。
福雄は働きながら勉学ができる東京の石川島造船所に採用された。
(石川島造船所は現在の「IHI」である)
二人の間に芽生えた恋は世間の目を気にする大人たちに潰されてしまった。
福雄は東京の造船所に出発する前日、自分がいなくなってから見てくれと、
民子に手紙を渡した。
民子は世間体を気にする親の強い勧めで嫁に行き、流産で命を落とした。
死んだ民子の左手には、布に包んだ福雄の写真と手紙が堅く握られていた。
その手紙を読み福雄と民子の家族は清い恋に同情して泣いた。
無理に嫁にやった事を後悔し、福雄に詫びた。
福雄はその後七日間、民子の墓の周りに白菊をたくさん植えた。
秋になると民子の墓の周りは、白菊の花でいっぱいになった。
九州飛行機を立ち上げた渡邊福雄は社運をかけた試作機を海軍に
提出した。
海軍は練習機を正式採用、「白菊」と命名し、大量発注を行った。
海軍から命名を聞いた福雄は「民さん・・・」とつぶやき 涙を流し続けた。
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参考文献:伊藤左千夫 野菊の墓 - 青空文庫