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パスタ屋にて

作者: 長良野善晴

 ある晴れた月曜の昼下がり。

 大型量販店に挟まれぽつねんと佇むパスタ専門店に平野と樋口の二人はいた。

二人の他に客の姿はなく、カウンターの向こうでは閑古鳥の鳴き声に耳を塞ぐ店の主人が黙々と日常業務をこなしている。

「改めまして、お久しぶりです」

 窓の無い土壁に囲まれた角の席。そこで向かい合う形に座った彼らはそれぞれペスカトーレの注文をとると、まず平野がそう口を開き、頭を下げた。注文を取りに来た店員が一瞬、目を見開いたのは黒服スーツをきっちりと着こなす平野と、ラフなシャツとジーンズの上に丈の長い白衣を纏った樋口という異色の男女が並んでいたためだ。

「あぁ。久しぶりだな」

 表情を変えず言葉を返す彼女。けだるげに両肘を付き、そのまま指先を合わせる。その視線は平野の眉間へと注ぎ込まれている。

「四年になるか」

 ぽつり、とこぼした樋口の言葉に彼は「そうなりますね」と答え、彼女の呟きに『君がアメリカに渡ってから』の一文を頭の中でそっと添えた。


 二人は大学で出会った。

互いに生物学を専攻とし、学科内どころか大学内でトップの成績を収めていた二人は、気付けばいつのまにか隣にいるような間柄になっていた。

恐らく初めに声をかけたのは自分だったはずだと平野は記憶している。

 そのまま大学を首席で卒業した二人は教授からの推薦もあり海洋生物研究所に勤め、各々が持てる力を存分に振るった。

アメリカからの誘いが二人の元に届いたのは四年前のことだ。海外からの誘いに平野は胸を躍らせたが、樋口は違った。

結局、アメリカへは平野だけが行くことになった。


「向こうではどうだ?」

 彼女の問いかけに曖昧に口元を歪ませる平野。

「それなりに、と言っておきます」

「順調そうで何よりだ」

「そちらもお元気そうで」

「それなりに、な」

 同じく苦笑を浮かべ、平野の口調をマネしながら樋口は答える。

 そのまま他愛のない世間話をしていると、カウンターからパスタが運ばれてきた。客がいないだけあって運ばれてくるのが早い。

「何でまたパスタなんだ?」

 平野にフォークを手渡しながら、樋口は素っ気なく尋ねる。

「あなたにアポを取ったとき、たまたま食べたかったんですよ。あっちにあるのはイマイチでしたから」

「今は?」

「そうでもありません」

「おい」

「どちらかというと蕎麦の方が」

「君って奴は」

 そこで初めて樋口は表情を緩めた。

「いただきます」

「いただく」

 手を合わせ、二人は眼の前のパスタを食べ始めた。


「そういえば、髪、染めたんですね」

 不意に手を止め、樋口の赤みがかった髪を見つめる平野。

「あぁ、これか」

 眺めの前髪に視線を上げ、若干顔をひきつらせた樋口は平野を見返した。

「少し前のことだ。目が覚めたらこうなっていた」

「というと?」

「姉の仕業だ」

 樋口の話によると研究勤めによる疲労困憊で寝込んでいたところをたまたま遊びに来ていた彼女の姉に襲われたのだという。

「まったく、困ったもんだ」

「でも、似合ってますよ」

 さらり、と平野は言った。

「やめてくれ。近いうち元に戻す」

「そんな。もったいない」

 平野の言葉を無視し、再びフォークを動かし始める樋口。よほど空腹だったのか、すでに皿の上は半分以上がなくなっている。

「仲いいんですね、お姉さんと」

「どうだか」

「良くなかったらこんなことしませんて」

「やりすぎだ」

「でも実際のところ似合っているわけで……男っ気のない樋口さんを思っての事じゃないんですか」

「男っ気がないとはどういう意味だ」

「そのままの意味ですよ。少なくとも一般的な女性だったらその格好のままここには来ないかと」

 白衣姿の樋口を改めてまじまじと眺める平野。彼がアメリカに発つ前と同じ格好。違いがあるとすれば、その白衣が少し色あせていることだ。

「さっきまで仕事を片付けていたんだ。効率を考えたら致し方ない」

「……まぁ、樋口さんのそういうとこ、僕は好きですし、ある意味安心しますけどね」

「何の話だ」

「こっちの話です」

 視線を樋口から離し、先程から引きつってばかりの口をもしゃもしゃと動かし始める平野。

 そんな平野に首を傾げつつ、樋口もまたフォークを動かし始めた。


「それにしても、変わらないものだ」

「何がです?」

 樋口の声に平野は顔を上げる。

「顔」

 そう言って樋口は唐突に平野の鼻先を指差した。

「多少口回りは濃くなったようだが、目も鼻も、そのくりくりとしたくせっ毛も、同じだ」

「四年前と?」

「もっと言えば学生時代と」

「これでもちょっとは変わったつもりなんですがね」

「思わず触りたくなる。いいか?」

「子供じゃないんだから、よして下さい」

 苦笑いを浮かべつつ、学生時代のことを少しばかり平野は思い返していた。講義中うとうとしていると、隣に座る樋口が「おもしろいから」という理由で唐突に頭頂部を撫でるものだからこちらとしてはたまったものではない。

「そういうあなたの方も、仕事の時以外では相変わらず眠たそうな顔ですね」

すると、急に眼を鋭く尖らせた樋口が「三日だ」と小さく呟いた。

「……あぁ」

 それが何日ろくに寝てないないかの報告かということに気が付いた平野は、「南無南無南無」と目を瞑りそっと両手を合わせた。

「調査ですか?」

「あぁ。火曜までに水質の変化と微生物の分布データ、深海生物の調査報告……他にもいろいろと、な」

「明日じゃないですか、それ」

「あぁ。どうやら今日も眠れそうにないらしい」

「……いつもこんな感じなんですか」

「この時期、特にな」

「あぁ、確かにこっちはもう暖かいですもんね」

「そんなときに君から声がかかったわけだ」

「それは、まぁ、申し訳ないです」

 目線を下げ、堪えきれない苦笑いをどうにか噛み殺す。

「すまないが、食べたら仮眠をとらせてもらう。二、三十分でいい」

 そう言って小さな欠伸を零す樋口。

「ダメですよ」

 とすかさず平野がそれに答える。

「旧友のよしみだろう?」

「許しません」

「ケチめ」

「せっかく四年ぶりの感動的再会だというのに旧友をないがしろに寝るつもりですか、あなたは?」

「感動もへったくれもあったものか。連日の調査でてんてこ舞いの中、私を呼び出したのはそっちだろう。多少の融通はこちらに利かせてもらう」

「こちらも大事な案件なんです」

「そんなものは知らん」

「仕事なんですからもっと真剣に」

 文句を言いつつ、平野は学生時代にもこんな子供じみた言い合いをしたことがあったなと思い返していた。

「ならば可及的速やかにかつ迅速に要件を済ませるとしよう」

 フォークを置き、姿勢を正した樋口は平野に向き直る。思わず平野の背筋も伸びる。

「それで、話というのは?」

「はい」

 平野もフォークを置き、彼女の方に向き直る。

「端的に言うと、あなたをうちに引き抜きに来ました」

「ほう」

「僕と一緒にアメリカへ行きましょう」

「断る」

 それだけ言うと、樋口は皿に残された海鮮具材を口に放り込み始めた。

「まだ詳細を話していませんが」

「話すも何も簡単なことだ。私はここに残る」

 そのまま皿を空にすると、彼女は大きな欠伸をした。

「以上だ。寝る」

 ペスカトーレをたいらげた彼女は空になった皿を平野の方へ押しのけると、そのまま机へと突っ伏した。

 天井を仰ぎ、ふぅと大きくため息を吐いた平野は「分かりました」と力なく答えた。

「上にはそれっぽい理由を伝えておきます」

「任せた」

「まぁ、あなたならそう答えると思っていましたが」

「よく分かっているじゃないか」

「それなりの付き合いですから」

 突っ伏したままの旧友に、平野は微笑んだ。

「しかし、残念です。こっちに来れば、あなたの好きなように組織を動かせるというのに」

「私は今の環境に十分満足している。ここを動くつもりはない」

 くぐもった声で樋口は答える。

「それに、部下が私の帰りを待っている」

「そうですね」

 昨日訪れた彼女の研究室を思い返し、平野は頷いた。

「それにしても、惜しいことをしました。四年前、僕はもっと真剣にあなたを説得するべきだった」

「今更嘆いても仕方のないことだ」

「あなたがうちに来てくれれば一層こちらの研究が捗るというものです」

「向こうには君がいるじゃないか」

「僕じゃ駄目ですよ」

 やや自嘲気味に言った平野はおもむろに顔を伏せた。

「周りから四年近くも期待されておきながら、それに見合う発見を僕は何一つできていない」

「焦ることはない。ゆっくり探していけばいい」

「……不安です。正直。今も、きっとこれからも」

「そうか」

 むくりと彼女は体を起こした。額には袖の跡が赤く残っている。

「それでも駄目だったら、またここに戻ってくればいい。私が拾ってやる」

 相変わらずの眠そうな顔で、彼女は言った。

 思わず平野は顔を上げ、また、俯いた。その時、自分はどんな顔をしていたのだろうかと平野は思った。

「……やっぱり」

「ん?」

「僕はあなたと働きたかった」

「今からでも遅くはないぞ」

「向こうに行くと決めたのは僕です。後悔はしてないですし、そんな風に甘えてなんかいられません」

「いい心がけだ」

「……ですが」

 顔を上げた平野は、真っ直ぐに彼女の顔を見て、言った。

「あなたにはまた会いに行きます。必ず」

 きょとん、といつもとは違う無表情を一瞬浮かべ、彼女はまた目を細めた。

「あぁ、待っている」

 そう言って、樋口は右手を差し出す。

 平野もまた右を突き出し、差し出された彼女の手を強く握り返した。

 そのまま店を後にし、平野は車の鍵を取り出す。

「会社まで送ります」

「いい。歩きたい気分なんだ」

「そうですか」

「それでは」

「お達者で」

「お互い様」

こうして、二人はまた別れた。


 空港に向かう途中、車の中から平野はともに日本へとやってきた同僚の背中を見つけた。

「永井君、こっち」

 窓を開きつつ路肩に車を停め、反対側を歩く彼の名前を呼びかける。彼もまた別の研究所へと勧誘に出向いていたはずだが、どうやらそれも一段落したらしい。

 平野の声に気付いた永井がせかせかと道路を横断し、車の後部座席に乗り込んだ。

「ふぅ、助かった。なかなかタクシー拾えなくてよ」

「僕みたいにレンタルすればいいのに」

「生憎、免許を向こうに忘れてきた」

「あらら」

 永井を乗せ、再び空港へと車を走らせる。

「そっちはどうでした?」

 後部座席で煙草に火を点ける永井に問いかける。

「まぁ、おそらく大丈夫だろう。今晩には返事が来ることになってる。お前は?」

「ダメでした」

「おいおい」

 流れていく外の景色にたばこの煙を浮かべていた永井は思い出したかのように口を開く。

「平野の担当ってあれだろ? お前の元同僚で容姿端麗頭脳明晰ってうちの班で専ら噂になってた……えぇと」

「樋口洋子さん」

「そうそう、その樋口さん。お前の元カノって噂もちらほらと」

「誰ですか、そんなデマを流したのは。失敬ですよ」

「何だ、違うのか。つまらん」

「……あなたですか」

「まぁ、噂話に尾ひれがつくのはよくあることだ、気にするな」

「……」

「にしても、失敗したとなると、お前、班の奴に殺されるかもな。『日本の大和撫子がうちの研究室に来る』ってジェームスたちが子供みたいに目キラキラさせてたから」

「物騒な研究室だなぁ。その時は匿ってください」

「やなこった。自分の身くらい自分で守れよ」

「……僕の同僚にまともな奴はいませんね」

「類友だ、類友」

 ウインカーを右に出し、スピードを緩めた車が右折を始める。

その時、永井は半ば呆れた声で平野に尋ねた。

「にしても、お前、フラれたのか?」

 その瞬間、車が大きく揺れた……のはもちろん、平野がハンドルを急いで戻したためだ。

「危ねーな。俺が乗ってるんだぞ」

「何てこと聞くんですか、あなたは」

「だってよー、そんな感じじゃんか、雰囲気が」

「告白なんてしてませんし、元々そういうんじゃありません、彼女とは」

「それにしたってひどい落ち込みようだ。落ち武者かよ」

「そんなにひどい顔してますか?」

「いや、背負ったオーラが、なんとまぁ黒いこと」

「……それはできればオブラートに包んで焼却炉にでも捨ててきたかったところです」

 冷静を取り戻した平野はギリリとハンドルを握り直した。


「樋口さんと二人で会う前に、彼女の研究室に寄ったんです」

「あぁ、そういえば樋口さんて、海研の室長だっけか?」

「そうです。一年前から」

「お前と同期ってことは……たった七年で室長に出世かよ。嘘だろ」

「すごいでしょう」

「あぁ。少なくともうちの班の奴らじゃありえない」

「ですね」

 信号が変わるのを待ちながら、ため息を吐くように平野は語り始めた。

「そこにいる彼女は、なんというか……人気者でした」

 それは空気で分かった。彼女が研究室を歩く度に誰かがその後を追いかける。彼女はそれに対して指示をするなり意見を述べるなりで的確にサポートをする。

 研究室の皆が、彼女を頼りにしていた。

「優秀で美人で人望もあって、文句ないだろ」

「付け加えると、面倒見もいいですよ、彼女」

「完璧かよ。いや、無敵だね。向かうところ敵なし」

「変わり者ですがね」

「お前が言うな」

 信号が変わり、アクセルを踏む平野。

「あそこにいるみんなが彼女を頼りにして、信頼していました」

「で、お前もそんな中の一人だったってわけだ?」

「まぁ、そう……なりますね」

 永井の言葉に思わず苦笑いを浮かべ、ハンドルを強く握りしめる。

気付けば空港まであと五分というところまで来ていた。

「彼女といると何というか、すごく、安心できるんです」

「へぇ。お前がそこまで入れ込むなんてな」

「ですね」

「何者だよ、樋口さんって」

「今度また会う約束をしました。その時に紹介します」

 しかし、平野の提案は「遠慮しとく」という永井の言葉で取り消される。

「どうしてです?」

「……なんとなく」

「思ったより君は紳士ですね。僕が保証します」

「そりゃどーも」

 少しも嬉しくなさそうに永井は言った。

「それにお前、どうせまだ諦めてないんだろ?」

「……」

「……どうなんだ?」

「……バレましたか」

「見え見え」

 後部座席で永井がケタケタと笑った。

「楽しそうですね、君は」

「そりゃ、こんな面白いものを目の前にしたらな」

「割とこっちは真剣なんですが」

「で、これからどうすんだ?」

「とりあえず、きっかけづくりにまず彼女が興味を持ってくれそう発見をしてみることにします。一年以内に」

「うぉ、大きく出たな」

「まぁ、これでも大学内では彼女の次に優秀でしたからね、僕」

「そりゃ大層なことで」

「これから忙しくなります」

「だな……まぁ、がんばれ」

 その後、空港にたどり着いた二人は日本を後にした。


 半年後、北アメリカ南西部の海域にて新種の微生物を平野率いる研究チームが発見。それとほぼ同時期に樋口研究室は日本海北東部の海域にてこれと同種と考えられる微生物の調査結果を発表。

 そのひと月後には日本とアメリカの合同チームが結成される。


「お久しぶりです」

「あぁ。そうだな」

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― 新着の感想 ―
[良い点]  心を手繰り寄せるのは大変そうです。 [一言]  二人はどうなるのでしょう。
2016/03/08 07:30 退会済み
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