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ミッシング・リング

作者: あやあき

 老若男女の雑踏に紛れる。

ぼうっと歩いていたら、人にぶつかった。ベタッと、まだ乾いていない服が皮膚に張り付く。何も言わず遠くなったその人に、小さく「すみません」と謝った。ふと、その彼女が誰かに似ている事に気が付いた。

 脳裏にその誰かの顔がチラつく。かつて愛した、けれど今は顔も見たくない女。

「消え失せろ」

 呟いたところで消えてくれない。寧ろよく出てくる。あどけた表情、小柄な体躯、不器用で小さな手、……。

昔の自分に問い質したい。

「どうしてお前はあんな女に惹かれ、貢いだんだ?」

 滅茶苦茶に、俺の人生は壊れた。壊された。

 今度は大柄な男とぶつかった。よろけ、転んでしまう。相手は舌打ちを残し、去っていった。

 顔を上げると、古い手配書と目が合った。

 それは偶然にも、俺の顔。

 まともだと信じていた暮らしをしていた頃の俺。見たくもない。あの女と同じくらい見たくない。

 己の視線から、逃げ出した。

 あのおぞましい行為をした後よりも、その走るスピードは速かった。


 下宿に着くと、「おかえり」と下宿のおばちゃんの声が掛かった。

「ただいま」と返そうとするが、息が切れていてまともに声が出ない。

 壁にもたれて休憩をしていると、おばちゃんが玄関に顔を出した。

「まあ、まあ、一体どうしたんだい? 全身びしょ濡れじゃないか」

 おばちゃんは顔をしかめて見せる。俺が幼い頃に亡くなった祖母とその顔が重なって、申し訳なく思えた。

「何でも……ないよ」

「もしかして」

 おばちゃんは俺の言葉を無視して尋ねてきた。

「昨日の女に会ったのかい?」

「…………」

「あんたも分かってるとは思うけど、ああいう女はしつこいからね。充分気を付けるんだよ」

 おばちゃんは俺の無言を肯定と受け取ったようだった。

「うん、気を付けるよ」

 後の祭りだけど。

 階段に足を掛けると、後ろからおばちゃんの声が飛んできた。

「ケンイチ、今日の晩は何食べたい?」

「おばちゃんのお任せメニューでいいよ」

「あんた、そういう事は女房に言うもんだよ」

「いいんだよ、これから女を作る気はないし。それに、おばちゃんの料理は世界一だから」

 階段を踏み上がる俺の耳に、楽しげな笑い声が聞こえた。


「よぉ、どうした、ケンイチ。ずぶ濡れじゃねぇか」

二階へ上がって自室に入ろうとした時、隣の部屋のジャックが話し掛けてきた。

 俺はジャックの本名を知らない。多分、俺だけでなくこの下宿の誰も知らない。初めにジャックと呼んだのはおばちゃんだそうだ。ジャックは、英語圏で名前の分からない者に使う呼称で、当の本人は「ジャック・ザ・リッパーと同じで光栄だな」と笑ったという。何が光栄なのか……。

「何でもないよ」

「何だよ、日本人のくせにハートのない奴だなぁ」

 英語ではあるが、彼の口調からして、こんな日本語になるだろうと思う。

 それにしても、ハートってどう訳すんだ?

「分かった。あれだろ、この前来た若い女」

 意識せずとも、瞳が鋭くなったのが分かった。厭な事があった時の、昔からの癖。

「当たりか」

「それがどうした」

「ふふん、ケンイチは色男だなぁ、あんな女に捜されるなんて。日本人じゃない俺でも綺麗って思ったぜ」

「日本人にしては大和撫子じゃあないけどな」

 ジャックの細長い身体を避け、部屋のノブを回す。

「ケンイチ」

 声を無視して部屋に入る。

「何かあれば言えよ。俺はハート……ニンジョーを持ち合わしてる」

 ハートは人情の事だったのか。

 ドアを閉める前に言った感謝は、ちゃんと彼に届いたろうか。

 部屋に入ると、足は自然にベッドへ向かい、ふかふかとは言い難い――けれども心地の良い――シーツに倒れ込んだ。

 しばらく目を瞑るが、眠りに誘われない。

 目を開け、おもむろに寝返りを打つ。

 カビが生えた天井があった。小さな屋根裏の散歩者が、その上をカタタッと走っていく。

 うるせぇな。

 無駄な抗議をしようと右拳を上げた時、違和感を覚えた。

 砂の付いた汚い拳。日焼けしてほんのり褐色になった肌。

 拳を開く。

 手入れされていない不揃いな爪。仕事で使う油のせいで、指先は黒くなっている。

「あっ」

 思わず声が出た。

 掌を向けて見るが、やはり、ない。

 あの女と買ったペアリング。中指に嵌めていた筈のそれが、なくなっていた。

「いつ……」

 元々、外したくて仕方なかったものだ。しかし、サイズが小さかったためか、外せなかった。だから、そう簡単に取れない。

 原因はすぐに見つかった。

 あの女を殺した時だ。



   *****



「逢いたかった」

 丁度、今から二十四時間前、沙羅はそう言って俺に抱きついてきた。

 場所は下宿から徒歩五分といったところ。仕事から帰る途中だった。

 力強く回る腕を、俺は振り払えなかった。

「……どうして」

 ただ、そんな問い掛けを絞り出すのが精一杯だった。

「もう何処にも行かないで」

 力が更に強くなる。

 肉体には何ともないが、精神は悲鳴を上げそうだった。

「……やめてくれ」

 声は情けないほどに掠れていた。

「あたし、ずっと捜してたんだよ? 健君の事」

 胸に声が直接振動する。

 息を吸い込むと、ひゅぅという音がした。

「……離してくれ」

 歩行者達が俺等を追い抜いていく。

この人混みの向こう、そこに俺の場所がある。おばちゃんやジャックがいる、俺の居場所。

「帰りたい」

 その声は、はっきりとしていた。

 沙羅が顔を上げ、俺の顔を見た。涙を浮かべた瞳で、俺の顔は滲んでいた。

「うん、帰ろう」

 違う意味と受け取ったのだろう、沙羅の拘束が外された。

 一歩、一歩と足を進める。

俺は帰るんだ。ここじゃなく、俺の居場所へ。この女のいない場所へ。

 地面を踏みしめる足はだんだんと速くなり、気付けば走っていた。しかも、本気のスピードで。

 雑踏に紛れて、沙羅の声が聞こえたような気がした。

 ……まるで、鬼ごっこだ。

 下宿に着き、後ろを振り返らずに玄関の戸を開けた。飛び込んだ弾みで転ぶと、やけに派手な音がした。

「おいおい、どうした」

 ジャックが覗き込んできた。いつものように軽薄な笑みを浮かべている。

「たっ、助けてくれっ」

 舌がもつれたが、それで相手には危機感が伝わったようだった。

「ケンイチ、何があった」

「追われてるんだ」

「暴漢か? それとも警察か?」

「否……」

 昔の女。

 その言葉は息と同等になって、宙を舞う。

「とにかく、隠れろ!」

 ジャックは俺を立たせ、リビングを抜け、厨房へ押し込んだ。そして、ジャックは玄関口へと走っていった。

 夕食を作っているおばちゃんが、俺をまじまじと見る。

「どうしたんだい、ケンイチ。そんなに慌てて。腹でも減ったのかい?」

「違う、んだ」

 理由をまくしたてようと大きく息を吸うと、先におばちゃんが「嘘さ。あんたのジャックの会話、ちゃんと聞いてたわ」

 そして、俺に笑い掛けた。

「何があっても、あんたはいないって事にしてあげるさ」

「……ありがとう」

「なに辛気臭い顔してんだい! この下宿の約束を憶えてるだろ?」

 俺は頷く。

 この下宿のルール――店子と下宿人の過去は訊かない事。

 それが鉄則だった。

 だから俺は、おばちゃんやジャック、その他の下宿人の生い立ちなど、詳しい事は知らない。同じように、皆、俺の事も深くは知らない。

「ほら、足が厨房から出てるよ! 頭隠して足隠さずじゃいけないだろ?」

「おばちゃん、それを言うなら、足じゃなくて尻」

「あら、そうだったかい」

 おばちゃんの返事に失笑しながら、厨房のふちで体育座りをした。

 おばちゃんが気を遣って布を俺に被せ、周りにいろんなものを――布で何も見えないのだ――を置く。

「ありがと」

 二度目の言葉が、口を衝いて出てきた。

 しばらく調理をする音しか聞こえなくなる。

 腹減ったなぁ、今日の夕飯は何なんだろう。

 気が落ち着いてきて、呑気な事を考え出した時、唐突に玄関戸を開けた音と、沙羅の声が聞こえた。

「すみませーん」

「何だ? あんた」

 ジャックが奴の応対をするらしい。

「ここに健一君っていう人、いませんかぁ?」

 甘えた猫のような声。咄嗟に自分の腕を抱いていた。

「知らねぇな」

 ジャックの返事はそっけない。

「えぇ? そんな筈ありませんよぉ」

「だから知らねぇって。他をあたってくれ」

 猫撫で声に、ジャックはものともしない。

 いいぞ、その調子。

 無言のエールをジャックに送る。

 しかし、そう調子よく続かなかった。

「嘘吐かないでくれる?」

 沙羅の声音が変わった。

「あたし、見たの。健君がここに入ってくとこ。貴方、健君を隠してるでしょ。出しなさいよ!」

 本性を出しやがった。まるで化け猫だ。

「だ、だから知らねぇって」

 ジャックが狼狽しているのが、声からもはっきりと分かった。

 そりゃそうだよな。俺だって騙された。

「おっ、おいちょっと待て!」

 ジャックの焦った声。

 来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな。

「ねえ、そこのおばさん」

 思いの外、近い所で沙羅の声がした。

 おばちゃんの前――厨房のカウンター前にいるのか。

「何だい、あたしの事かい?」

「あんた以外に誰がいるって言うのよ。それとも、そこに健君がいるの?」

 正解。

 思わず更に縮こまる。

「ケンクン? そりゃあ誰だい?」

「とぼけないで。あたしはここに健君が入ってくとこを、確かにこの目で見たの」

「へぇ、じゃああんたの目は不良品だねぇ、男の幻想を見るようじゃ」

「何ですって……」

 バンッ! と強い音がした。沙羅がカウンターを叩いたのだろう。

「ふざけるのもいい加減にして! 健君を出しなさい」

「うるさいねぇ、最近の若者は皆こんなかい? そりゃ、ケンクンとやらも逃げ出したくなるねぇ」

「うっさいのはあんたよ!」

 沙羅が怒鳴り散らす。

「健君はあたしの恋人なの! あたしから逃げたいなんて思うわけないじゃない! それに、ほらっ、これを見なさい! あたし達は将来を誓ったのよ!」

「何だい、それは」

「婚約指輪よ!」

 ……給料半年分のな。

 ふと、あの節約の日々が思い出される。毎朝早く起きて、食費を浮かそうと弁当を作り、同僚や上司からの飲み会を全て断って白い目で見られ……、一体何をやっていたんだろうか、あの頃の俺は。

 で、渡したらお前は何て言ったんだっけ?

「わあ……あたし、こういうデザイン苦手なんだよね。超おもーい。もっと良いやつ買ってきてくれればよかったのに」

問:この時の俺の気持ちを五文字以内で答えよ。

答:殺すぞ。

 拳を強く握りしめる。メラメラと怒りと憎しみの炎が燃え上がってくる。

 しかし、どうして今、婚約指輪を付けているのだろうか。まさかツンデレだったという事はないだろう。ないない、絶対ない。こいつはただの猫被りだ。

「健君はあたしの為に、なけなしの給料をはたいて買ってくれたのよ!」

 なけなしは余計だ、莫迦野郎。そりゃあ、成金の娘のあんたにはちっぽけな給料だったろうけど。

「あたしは、健君に愛されてるの」

 背筋がゾクッとする。

「愛されてるのよ」

 まるで、僕に言い聞かせているかのようだった。

 さっきの怒鳴り声と打って変わって静かな声色になった言葉は、僕の心を揺さぶる。元の気持ちに、上書きがかかる。

「違う……お前なんて、嫌いだ……」

 呟く事で、アップデートを止めた。

 しかしその独り言を、沙羅は耳聡く拾った。

「健君、よね? 今の声」

 ナイフを首筋に当てられたような感覚に襲われる。

「健君、帰ろ? パパにお願いすれば、こんな辺鄙なド田舎から東京に戻れるよ? ねえ、健君」

 東京なんて嫌いだ。そして、お前も。

「ねえ」

「やめなさい」

 おばちゃんが沙羅の言葉を遮った。

「何よ」

「一度、お帰り。もう外は暗くなってきてる」

「…………」

「この町は暗くなると危険だよ。暴漢が出る事なんてしょっちゅうさ。可愛い自分の身を守りたけりゃ、早く帰りな」

「ここにいさせてもらうわ。それだと安全でしょ?」

「へぇ、じゃあ俺の部屋に来る?」

 ジャックが話に割り込んできた。

「よく見りゃ、あんたも綺麗な顔してるしな。どう? 俺のとこに泊まってく?」

 パシン、と乾いた音が響いた。

「汚らわしい手であたしに触らないでくれる?」

 どうやら、ジャックは沙羅の身体に触ったらしい。

 ジャック、後で消毒した方がいいぞ。

「健君」

 甘い声が俺を呼んだ。

「きっと、示しがつかないだけだよね? 久し振りにあたしに会って、照れてるだけだよね? また明日、来るから」

 足音がし、だんだんと遠ざかっていく。

 扉を閉める音がすると、布が取り払われた。

 おばちゃんとジャックが僕を見ている。

 俺が言葉を紡ぐ前に、「さ、夕食にしようか」

 おばちゃんがにかっと笑った。


 その翌日。

 仕事に行くのには、下宿の裏口を使った。さすがに裏口に沙羅が待ち構えているという事はなく、異常なく通勤出来た。

 いつもと同じように仕事をして、昼飯を摂って、仕事を再開させて。ないと信じる視線にビクビクしながら業務を済ませ、帰路につく。

 まだ人の少ない道を早歩きで帰っていると、前方に立ちはだかるようにいる人影が見えた。

沙羅だ。

 そう認識した瞬間、考えるより先に、足が動いていた。回れ右をし、全速力で走る。

 行方は不明だ。何かに操られているように、息を切らしながら何処かへ進む。それは神からの啓示だったのだろうか。行き着いた先――行き止まりともいう――は、聖なる河の前。

 ハッとして振り返ると、沙羅が息を切らしながら追いつこうとしていた。

 女のくせして、なんて足が速いんだ。否、俺が走るのが遅いだけか。

 肉食獣に追い詰められた草食動物の気分を味わいながら、舌打ちする。

「健君っ」

 倒れ込むように抱きつかれるが、すぐに引き剥がす。

「触るな!」

 昨日と違って、拒絶の言葉ははっきりと出た。

「健君……」

 伸びてくる手から逃れようと、身体をのけ反り、二、三歩後退した。

「近付くな」

「どうして」

「…………」

 理由が見つからなかった。

 ただ、来て欲しくない。捕まってしまえば、一巻の終わり。

 そんなイメージが俺の中にあった。

「ねえ、健君……、健君は、どうしちゃったの?」

 どうしちゃった、だって?

「健君、あたしの事大好きだったじゃない。いつもあたしの事を気遣ってくれて、いつもあたしの傍にいてくれて、こんな指輪までくれて……」

 つらつらと過去の俺の姿を並べる。そして、沙羅は薬指に嵌る指輪を撫でる。まるで、大事な物でも触るように。

「お前なんて……嫌いだ」

 一度言葉を落とすと、フッと気が楽になった。

 一つ息を吐いて、真っ直ぐ沙羅を見た。

「今、お前が何を考えて俺に会いに来たか知らない。けど、これだけは言える。今の俺に、お前への恋情は一欠片もない。これは、お前が何を仕掛けてきても変わらない。もう嫌気が差したんだ、お前に」

「それは……健君に振り向かなかったあたしに、でしょ? ……あの時のあたしは、どうかしてたの」

「『どうかしてたの』……そんな言葉で片付けるのか」

 くつくつと笑いが込み上げてきた。

「どうかしてたから、俺との約束をことごとく破ったのか。どうかしてたから、他の男と寝たのか。どうかしてたから、俺をこんな辺鄙な所に左遷させるよう、父親に仕向けたのか。どうかしてたから。……あまりに利便性があるな、この言葉」

「……健君、変わっちゃった」

 ポツリと、寂しそうに沙羅は言った。

「東京にいた頃は、いつもあたしに笑い掛けてくれた。今みたいに、冷たい目を向けたりしなかった。今みたいな酷い言葉も、言わなかった」

 違う。

 変わってなんかいない。

 俺は東京にいた時と、何ら変わってやしない。

 ただ、目の前にいる女に抱いている感情が違うだけだ。

 そしてそれは、特別嘆くような事じゃない。寧ろ喜ぶべき事だ。

 俺にとっても、お前にとっても。

「あたしがいけないんだよね。あたしが、あの時健君の手を離しちゃったから」

 そう、お前は俺の手を離し、他の男の手を取った。俺を一瞥し、見せつけるように接吻を交わした。

 お前は、その男と一生を過ごすべきなんだ。ちゃらちゃらと着飾った莫迦っぽい男が、お前にはお似合いだ。

「安心して、あの人とはもうとっくに別れたの」

 ……別れた?

 まさか……否、もっともな話か。『永遠』とかいう戯言を散りばめたカップルなんて、すぐに切れる。

 アホらしい。そんなの、すぐに分かる事だろ。だから、俺と――

「もう遅いって言う気持ちは分かるわ。でも、今の健君に対する気持ちは本物なの。あたしには、健君が必要なの」

「……嘘を、吐くな……」

 いつだって君は、僕への愛の言葉を口にした。けど、最終的には裏切った。その憂いを帯びた顔を見せて、裏ではほくそ笑んでいた。知ってるんだ、君の本性なんて。

 厭になるほど、自分に言いつけたのに。

 どうして、こんなに揺さぶられてるんだ、僕の気持ちは。

 どうして、まだこの人を信じようと思い始めているんだ。

「嘘じゃないよ」

 立ち尽くす僕に一歩一歩近づき、ギュッと優しく、僕の身体に腕を回した。

 今度は引き剥がせなかった。

 所詮女だ。こんな細い腕なんて、すぐに取り払える。なのに、出来ない。気力がないんじゃない。外す気が、僕の中からなくなっていた。

 分からなくなった。自分の気持ちが。僕が何を望んでいるのか。

 否、閉じ込めていた想いが、殻を割って出てきたんだ。

 追い掛けてきて欲しい。僕を見つけて、抱き締めて欲しい。いつものように、可愛らしい笑顔を見せて、愛の言葉を聞かせて欲しい。

 他でもない、君に――沙羅に。

 じゃあ、沙羅の言うとおりだったのか? 僕はあの頃と変わってしまっていた。ここに馴染んで、心が荒んでしまったのか?

「違う」

 それははっきりと言えた。

 身寄りのない俺を優しく迎え入れてくれたおばちゃん、いつも場の雰囲気を盛り上げてくれたジャック、……他にも、ここでたくさんの人に会って、たくさんの人に支えてもらった。

 ここは、俺の心を荒ませたところなんかじゃない。

 もし本当に、ここに来て俺が変わってしまったのならば。

 ゆっくりと目を閉じる。

 瞼の裏に写るのは、暇な時に開いた携帯電話。

 発信履歴。そのほとんどを占める沙羅への発信は、大方不在着信となっていた。

 メール。送信に沙羅の名前が連なっているというのに、受信には大きくスクロールしなければ出てこない。友人からはおろか、チェーンメールや広告メールも滅多に来ないというのに。

 続いて、沙羅に送ったプレゼントが映った。

 沙羅の好きなキャンディー、僕の前では着る事のなかった煌びやかな服、何処が良いのか分からないブランドバッグ、そして、僕しか付けなかったペアリングと、趣味が悪いと嫌がられた婚約指輪。

 対して、僕の貰ったものと言えば、誕生日に贈られたささやかなメッセージカード、零円の君の笑顔。

 それらを思い出す度に、僕の君への想いは冷めていった。

 俺がこうなったのは、全てお前のせいなんだ。

「だから、離せ!」

 思いっきり、沙羅を突き飛ばした。

 彼女にとっては運悪く、よろけて倒れた頭の下には、壊れた木造の看板。その尖った部分が、当たった。

 厭な鈍い音がした。

 沙羅は顔をしかめたまま、身動きしない。

「沙羅?」

声を掛けても、閉じられた瞼は開かない。

「死んで……る?」

 まさか。

 近づいて肩を揺するが、小さな声さえしない。

 死んだ。沙羅が死んだ。

 殺したんだ。誰が? 俺だ。

「俺が、沙羅を殺したんだ」

 口に出しても、大して実感が湧かなかった。

 けど、罪悪感は少しだけ。あるのだけど、少しだけ。

 だから冷静に対処したのだろう。

 周りに人がいないのを確認すると、ぐったりとする沙羅を抱き上げ、河の中に入る。

 中央あたりで止まり、そっと沙羅を河に落とした。

 その時、沙羅の眼がカッと開き、俺の右手を掴んだ。凄まじい力で。

 生きてたのか!

「やっ、やめろ!」

 ぶんぶんと腕を振ると、意外とあっさり、するりと沙羅の手は剥がれた。仕事中に付いた油のおかげで滑りやすくなっていたのだ。

 焦っていたけれど、俺の行動は的確だった。

 彼女の頭をグッと水に押し込んだ。息を吸おうと暴れるのを、馬乗りになって必死に抑える。

 しばらくすると、沙羅は抵抗を止めた。

 事切れた、か。

 安堵して力を抜いた弾みで足を滑らせ、頭から水を被ってしまう。

 俺という上からかかる重石から解放された遺体は、独りでに流れていった。



   *****



 沙羅の手が、俺の右手から離れた時。その時、外せない筈のリングが滑らかに外れたんだ。

 別に、なくなったところで大した痛手はないだろう。外れたリングは、すぐに川の底に沈んだ筈だ。もしあいつが持っていたとしても、遺体が引き揚げられない限り見つからない。

 だから、大丈夫だ。

 気を落ち着かせて目を瞑ると、すぐに眠ってしまった。

 目を覚まさせたのは、騒がしいノックの音。どれだけ静かに叩こうとしても、ぼろい木造のドアは大きい音を立てる。

「はい」

 ぼうっとした頭で尋ねると、「夕食が出来たってよ」と、ジャックの声がした。

「すぐ行く」

 ベッドから降り、食堂に向かうと、ジャックとその他数名の下宿人が席について食事を開始していた。

 自然と決まっている指定席に腰を下ろすと、おばちゃんが俺の分の夕食を持ってきてくれた。

「ありがとう」

 礼を言って、食事に手を伸ばしたところで、おばちゃんが「おや?」と声を漏らした。

「ケンイチ、あんた、中指にしてた指輪、どうしたんだい?」

 ドキリとした。

 出した右手を見、「あれぇ、本当だ」と、さも今になって気付いたように言う。自分でも分かるほどに白々しかった。

「どっかで外れちゃったのかなぁ。ほら、俺、油で作業してるから、抜けやすくなってたんだよ。絶対。滑りやすくなるだろ? 油が塗ってあると」

 尋ねられてもいないのに、つらつらと説明する。まずいと思っても、口は止まらなかった。

 しかし、おばちゃんの反応はとても薄く、「ふうん。そうかい」と言ったきりだった。


 いくら大丈夫だと言い聞かせたところで、心配な事もある。

 次の日の仕事では何回かミスをして上司に叱られた。集中しようとしても、沙羅の遺体が引き揚げられていないだろうか、俺が犯人だって特定されないだろうか、と思ってしまう。

 そこで、帰りに寄り道をして確かめてみる事にした。

 河へ向かおうと仕事場のある市街地を抜ける時、一日振りに行方不明者一覧の看板に再会した。

 無数の顔が貼られている中、自分の顔はすぐに見つかった。

 東京にいた頃の自分。きちんと髪をセットし、今みたいに無精髭を生やさずに、濁っていない眼で、真っ直ぐ前を見ている。その先にいたのは……

 写真の中の自分と目が合った気がして、昨日と同じように逃げ出した。

 きっと数日したら、あそこに沙羅の顔も加わるのだろう。彼女はどんな顔をしているだろう。勝気な瞳で、通勤する俺を監視するのだろうか。

 しばらく走って、聖なる河へ到着した。昨日いたところからはいくらか下流の場所。

 十数メートル先で火葬が行われている。

 あまりそちらに目を合わせないようにして河を見ていると、後ろから声を掛けられる。

「ケンイチ」

 ドキリとして振り返ると、おばちゃんが立っていた。

「……どうしたの?」

「別に。来たかったから来ただけさ」

 おばちゃんは笑うが、俺にはその笑顔が意味ありげなものに見えた。

 おばちゃん、全部、知ってるの?

 そんな事、怖くて訊けなかった。

 河に目を移すと、五メートルほど先を人が流れていった。

 見間違う筈がない。沙羅の遺体だ。

 身体が固まってしまった。心臓がバクバクいう。息が深くなる。

「おやおや、また死体かい?」

 おばちゃんが軽い調子で言った。

「女だねぇ。妊婦か、事故に遭った人だろうね」

 気付かれて……いないのか?

 思いながら、流れていく沙羅から目を離せない。

 少しすると、ポン、とおばちゃんの手が俺の肩に置かれた。

「さあ、ケンイチ、帰ろうか」

 にかっと、おばちゃんはいつもの笑顔を見せる。

 一瞬躊躇ったが、俺も、いつものように返事をした。

「うん」

 眼前のガンジス川は、今日も屍を運んでいく。

〈終〉

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