1903に100と7の時間
『ライト兄弟がフライヤー1号を発明したのが1903年。あれからもう、100年以上経った。』
生き急ぐ世間は、そう見解を示すのだろうけど、俺はまだ、100年でしかないと思う。
まだ、人が世界を飛び始めて、100年でしかないのだ。
*
「限界なんて定めるな。人はどこまでだって飛べる。」
男はそう言って、俺の腹を躊躇いもなく蹴り上げた。身体が一瞬宙を舞った心地がして、次の瞬間には痛みと衝撃が俺を襲っていた。情けないうめき声を必死に堪えたけれど、膝だけはガクリと床へついてしまった。
俺が床に両膝をついて、両腕で腹を抱えながら、少量の血反吐を吐いていると、無常なバリトンが頭上へ降ってきた。
「無理だ何だと、文句を吐く前に行動しやがれ。」
バリトンの持ち主は、俺の腹を再度蹴り上げた。
「っ…がぁっ!」
うめき声を上げて床を転がる俺。血なのか唾なのか胃液なのかわからない汁が俺の口から流れた。もしかしたら昼飯の残りが逆流してきたのかもしれない。刺激臭が鼻をかすめる。
転がる俺の傍らにしゃがみこんだ男は、俺の髪を右手で鷲掴みにすると、自分の眼前へ俺のしかめっ面を引き上げた。
「お前は何だ?人じゃないのか?飛べないって文句を吐くなら、お前は人じゃないのか?」
男の問いに答えたくとも、喉が言うことを聞かない。喉は汁を垂れ流すので手一杯だからだ。代わりになるのかわからないが、俺は薄目を開けて男の目を見た。ひどく透き通った黒い目だ。近眼でも遠視でも乱視でもなく、眼病の類には一切かかったことが無いと、いつか聞いたことのある黒い目だ。男の目は焦点がぼやけることもなく、蹴られる以前に何度も殴られて歪み果てた俺の顔を、しかと捉えているのだろう。
「手もある、足もある。顔もついてるし、目鼻、耳も人並。内臓だってある。脳味噌も詰まってるはずだろう?」
男は俺を掴んだ右手とは反対の手で、俺のこめかみを小突いた。
「それでもお前は、人じゃないと言うのか?」
蹴られた腹が熱かった。殴られた頬も、その拍子に抜け出た犬歯が収まっていたはずの歯茎も、どこもかしこも熱い。
そして、何より指が痛い。男に捥がれた、左の人差し指が。骨の突き出たそれが、小刻みに揺れている。あっという間の出来事で、捥がれたときの感情なんて一瞬で吹っ飛んだ。今はただ、熱いだけ。熱くてたまらないだけ。悲しいとか痛いとか、指が欠けて不便だろうとか、でも左手だからまあいいか、とか、何も思わない。
ただ、熱い。熱いだけ。
男が何を言っても、何度俺を蹴り上げても、それは変わらないのだろう。衝撃を受けた箇所に対して何か思う間もなく、熱だけが俺を襲う。それが繰り返されるだけ。
「…ああそうか、指がないな。指が無いから、人じゃないのか。」
俺がちらと自分の左手を見たのを、男は見逃さなかったようだ。俺の視線が左手のどこに向けられているのかなんて、男の澄んだ目が捉えないはずがない。
「だから飛べないのか。それじゃあ仕方がないか。」
男がアハハと笑った。仕方がないと男が言うのは、俺の指を捥いだのが自分で、つまりは俺を人間じゃないと根拠付ける原因を作ったのが、自分自身だと気がついたからだろう。
「そうか、飛べないなら、もういらない。」
男が、真顔に戻って告げた。俺を掴んだ右手を振り下ろした。俺の頭はボールみたいに一度跳ねて、また床を転がった。
眩暈がした。打ち付けられた頭が熱かった。床に転がった俺を、男はもう一度蹴りつけることもなく、重いブーツを踏み鳴らして、薄暗いコンクリートの部屋を後にした。
飛べないなら、もういらない。飛べない飛行機ならもう要らない。墜落する飛行機なんて信じられない。あれからもう100年経った。飛行機が墜落すれば人々は大騒ぎする。あの会社の飛行機には、乗らないことにしましょう。そう言って、離れていく。
飛んだのがおよそ260メートルでも、それでも歓声が上がった100年前とは違う。
飛べない飛行機は、要らない。
100年の時間は、一体何を生んだのだろう。求めるのは正確性?安全性?画期的なアイディアと緻密な計算式、精密な図面、優秀なパイロットに、はりつけた笑顔の添乗員、的確な指示をする管制官。墜落の可能性が、ゼロに近い装備は、どこの会社だって揃えている。
ライト兄弟が作りたかったのは、墜落しないためのアイテムなのか。
それとも、ただ飛びたいと願うまま、衝動に突き動かされて飛行機を発明したのか。
ただ、飛びたい。落ちる落ちないの如何に関わらず、ただ鳥のように空を飛んでみたかった。
ただ、それだけ。
でも、もうあれから100と7年。
1ができたら2を、2ができたら、3を。
俺たちは、ライト兄弟より107先を行かなきゃならない。
「はは…。」
俺の口から、乾いた音が出た。
107先を行かなきゃならない。行かなきゃならないのは何でなんだ?
何で、俺たちは、墜落したらいけないんだ?
あれからもう100年。あれから、まだ、100年。
考え方は人の数だけあると思うのに、誰もが『もう100年』を望んでいる。
『まだ、100年だから、墜落しても仕方がない。』
そんなことを言うやつは、この世界にはいやしない。
俺たちは、飛べなくても飛べるって、そう言わなきゃ捨てられる世界に生きてる。
そうして万が一墜落すれば、本当に捨てられるし、飛んだら飛んだで新しい文句を言われる。
107の次には108が望まれるから。
「………。」
俺は右手を動かして、内ポケットに手を差し込んだ。慣れ親しんだベレッタが、俺の右手にまとわりついた。
「おれの、みかたは、おまえだけ、だよ………。」
捥がれたのが、右手の人差し指じゃなくて本当によかった。
味方はお前だけと囁かれたベレッタは、かわいい声で笑っていた。
読んだら暗い気持ちになるのでは…とさえ思った短編。
読んでくださって、ありがとうございました。