婚約破棄されましたが、最後の一本だけ泳いでいきますね
水の中にいるときだけは、何もかも忘れられた。
誰かに気に入られるための笑顔も、貴族令嬢らしい振る舞いも、婚約者にふさわしい女性であろうとする努力も。
水の中には、そんなものは必要ない。
ただ、自分の手で水を掻き、前へ進めばいい。
夢中になるだけでいい。
無駄な事は置いておけばいい。
「エレノア! お前との婚約を破棄する!」
王立水泳競技場に、婚約者であるクラウスの声が響いた。
私は個人のレースを終えて、次のレースに向かうために水から上がったところだった。
つい、ぽかんとした表情を見せてしまう。
……ちなみにレースは4着で終わった。
ぎりぎりで入賞を逃した。
相手が強すぎたこともあるが、言い訳だ。
悔しさもあって、変な顔をしてしまった。
今日は王都で年に一度開催される貴族水泳大会の日。
泳ぎに自信のある貴族たちが日頃の鍛錬の成果を披露する、由緒ある催しである。
何世代か前の王様が、大層泳ぎ好きであり、そこから我が国の伝統として毎年開催されているらしい。
泳ぐのが好きな私としてはとてもいい催しだと思う。
そして私は、その大会に出場するためにここへ来ていた。
そんな時に告げられた婚約破棄。
動揺しながら言葉を返す。
「……突然ですね」
「突然ではない! 以前から思っていたことだ!」
クラウスの隣には、桃色の水着を着た令嬢が立っていた。
子爵令嬢のミリア。
王都の水泳クラブに所属し、先月の大会で個人総合三位に入賞したという女性だ。
ただ、どこか落ち着かない表情をしている。
仕草もどこかオロオロしているように見える。
「お前はつまらない女だ。泳ぎも地味、振る舞いも地味。何を考えているのかも分からない!」
「そんなことを言われましても……」
「ミリアを見習え! 彼女は美しく、華やかで、何より泳ぎが素晴らしい!」
ミリアは困ったように微笑んでいる。
私は彼女のことを嫌いではなかった。実際、泳ぎは見事だと思う。
けれど、それと私の婚約を破棄する理由は別だ。
別に私が粗相をしでかしたわけでもないし。
とすると。
「つまり、ミリア様がお好きになったのですね?」
「そうだ!」
「……そうですか」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
好きだった人に別の女性を選ばれたのだから、当然だろう。
それでも、私は彼の前で泣き崩れるつもりはなかった。
「……分かりました。婚約破棄、お受けいたします」
「そうか……!」
「……では、私のレースがありますので失礼します」
そう言って、自分の泳ぐ場所へと向かう。
クラウスは呆れたように笑っていた。
「好きにしろ。どうせお前の泳ぎなど、誰も見ていない」
「……!」
その言葉に、思わず唇を噛んだ。
悔しい。
どうして、私の好きなものまで馬鹿にされなければならないのだろう。
けれど、ここで言い争うつもりはなかった。
大事な大会の前に余計な体力を使いたくない。
「それでは、失礼します」
努めて冷静にそう言った。
……少し声は震えていたが。
◇
私が向かったのは、五十メートルプールだった。
大会の個人競技は終了しており、残すはチーム参加のリレーレースだけ。
私が参加しているのは、元々私が小さい頃から所属していたスイミングチームのメンバー達。
全員しっかりと泳げる者達である。
……ただ、この大会に出ている入賞者達と比べると、少し弱いかもしれない。
だが私たちはベストを尽くすだけだ。
参加者たちが準備を進める中、チームメンバーと合流したあと、私は受付へ向かった。
受付には小柄な少女が座っていた。
「エレノア様チーム、確認致しました。……ではこちらの紙に記載された場所までお願い致します」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
「あ、あの!
……先程はとても素晴らしい泳ぎでした!正に人魚姫のような、優雅かつ大胆なすごい泳ぎでした!」
「……ありがとうございます。結果は4着だったし、……お見苦しいところも見せちゃったと思いますけど」
「そんなことありません! 1着と数秒しか離れていない大混戦だったじゃないですか!
それにエレノア様の相手……入賞者の方々は去年の個人総合1位から3位までですよ!」
彼女は興奮したように続けたあと。
怒り顔になってから言う。
「……詳しいことはわからないですけど、あの婚約者様は最低だと思います。泳ぎや振る舞いが地味だとか、エレノア様の努力や姿をちゃんと見てないとしか思えません」
思わず苦笑が漏れる。
褒めてもらえたことはとても嬉しいし、彼に怒ってくれて、嬉しかった。
それだけで、少しだけ気持ちが軽くなった。
「おい、エレノア!」
振り返ると、クラウスがミリアを連れて立っていた。
……ただやはりミリアはどこか浮かない顔をしている。
「チーム戦だが、本当に出場するのか?」
「はい」
「ではミリアのチームと勝負してみろ。彼女は先月の大会の個人三位入賞者だぞ。
それに他のメンバーも数々の大会で優秀な成績を収めた者達だらけだ!」
そんなことを言うクラウス。
なんてバカバカしいのだろう。
「嫌です」
「何?」
「私はミリア様と勝負するために来たのではありません。泳ぎたいから出場するのです」
「だからお前はつまらないのだ!」
思わず眉を寄せた。
「クラウス様」
「何だ!」
「私の泳ぎを――好きなものを、あなたの好みに合わないという理由で否定しないでください」
声が少し大きくなった。
周囲の視線が集まる。
けれど、もう構わなかった。
「私はあなたに褒めてもらうために泳いでいたわけではありません。速く泳げなくても、華やかでなくても、私は水の中が好きなんです。
――そしてそれをちゃんと見てくれている人も居らっしゃいます」
そう言って、受付の彼女を見る。
嬉しそうに手を振ってくれた。
破顔しながら手を振り返していると。
「……勝手にしろ!」
クラウスは顔を赤くして立ち去った。
私は小さく息を吐く。
少し言い過ぎただろうか。
いや、そんなことはない。
少なくとも、今の言葉に嘘はなかった。
◇
チームレースが始まった。
私は3番手だった。
他のチームを見ながら、対戦相手の様子を見る。
ミリアは第一泳者として出場し、華麗な泳ぎで観客を沸かせた。
確かに速い。
水を掻く腕の動きも、息継ぎのタイミングも見事だった。
素直に羨ましいと思う。
私には、あんな泳ぎはできない。
けれど、それでいい。
――私は私の泳ぎをするだけだ。
やがて私の番が来た。
水に入り、壁に足をつける。
冷たい水が肌を包み込んだ。
前走のチームメイトが壁に触れる。
それを確認してから。
壁を蹴る。
腕を伸ばし、水を掻く。
息を吸い、吐き、また前へ進む。
途中で少し苦しくなった。
それでも、私は泳ぎ続けた。
速くはない。
美しくもない。
それでも、今この瞬間、私は心から楽しかった。
そして二十五メートルを泳ぎ切り、私も壁に手を触れる。
すぐさま次のチームメイトが泳ぎ出す。
だが。
順位は変わらなかった。
結局チームは最下位だった。
それでも、私は他のメンバーと抱き合った瞬間、思わず笑ってしまった。
「楽しかった!」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
目元から溢れる涙は止まりそうも無かったが。
◇
「まったく、見ていられなかったぞ」
レース終了後、クラウスが近づいてきた。
「ミリアはあんなに素晴らしい泳ぎをしたというのに、お前達は最下位だ!」
「……そうですね。ミリア様は本当に素晴らしかったです」
「それに比べて、お前は恥ずかしくないのか!」
その言葉を聞いた瞬間。
「――恥ずかしくありません」
私は言い切った。
「何だと?」
「だって私は……私たちは楽しかったですから」
クラウスは何か言いたげに口を開いたが、その前にチームメイト達が近づいてきた。
彼女達は一様に厳しい目を彼に向けている。
……そう言えば。
彼に言っておかなければならないこともありましたね。
彼女達が私の後ろに控えたのを確認してから話し出す。
「クラウス様。婚約破棄の件ですが、お伝えしなければならないことが」
「……何だ?」
「再来月の貴族水泳大会の名誉代表についてです。婚約者同士で出場するという慣例がございますので、婚約解消に伴い、代表枠は取り消しとなります」
その言葉に彼は青い顔をする。
そして怒鳴り出す。
「待て! あの大会は父上も楽しみにしているし、王族の方々も観戦しに来る大事な物だ!
……代表枠の取り消しは私にとっても……お前にとってもまずいものだろう!」
「ですが、規定ですので。
それに、私は個人でも招待されていますので、特に問題はございませんわ」
「……ならば、ミリアと婚約して出場すればいい!
確かミリアも招待されていたよな!?
エレノアが辞退する分を私とミリアで出れば――」
突然話を振られたミリアが、目を丸くした。
そしてあずあずと語り出す。
「クラウス様、私、婚約のお話は聞いておりませんけれど……」
「今からすればいいだろう!」
「申し訳ありません。私は水泳を楽しみたいだけで、結婚を急いでいるわけではありませんので。
――それにエレノア様は私のとても良いライバルです。彼女を侮辱するような方とは、あまり仲良く出来ないかと……」
ミリアは困ったように頭を下げた。
クラウスの顔がみるみる赤くなる。
私はその様子を見て、少しだけ気の毒に思った。
けれど、もう私が気にすることではない。
「それでは、失礼します」
今度こそ、私達は競技場を後にした。
クラウスが怒鳴りかけてきている気がしたが、もうどうでも良かった。
◇
帰り道、残念会を行った後、私は近くの水路に立ち寄った。
皆はもう帰っており、私1人だけだ。
夕日を映した水面が、ゆっくりと揺れている。
少しだけ寂しかった。
……クラウスとのことだ。
婚約者として過ごした時間は、決してすべてが嫌な思い出だったわけではない。
楽しかったこともあったし、彼に好かれたいと思って努力したこともあった。
だから、何も感じないふりをするつもりはない。
私は傷ついた。
悔しかった。
それでも。
「……やっぱり、泳ぐ方が好きだな」
水面に映る自分の顔を見て、笑った。
次の大会にも出よう。
今度は、もっと長い距離に挑戦してみよう。
優勝できるかは分からない。
ライバルと言ってくれたミリアも居る。
けれど、そんなことはどうでもいい。
私は私の好きなように泳ぐ。
誰かに認められるためではなく、自分が楽しいと思える人生を送るために。
水路の向こうから、涼しい風が吹いてきた。
私は顔を上げ、明るい夕空を見つめた。
婚約は終わった。
けれど、私の人生まで終わったわけではない。
さあ、次はどこまで泳ごうか。




