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婚約破棄されましたが、最後の一本だけ泳いでいきますね

作者: 黒色鮎
掲載日:2026/11/07

 水の中にいるときだけは、何もかも忘れられた。

 誰かに気に入られるための笑顔も、貴族令嬢らしい振る舞いも、婚約者にふさわしい女性であろうとする努力も。


 水の中には、そんなものは必要ない。

 ただ、自分の手で水を掻き、前へ進めばいい。

 夢中になるだけでいい。


 無駄な事は置いておけばいい。




「エレノア! お前との婚約を破棄する!」


 王立水泳競技場に、婚約者であるクラウスの声が響いた。

 私は個人のレースを終えて、次のレースに向かうために水から上がったところだった。

 つい、ぽかんとした表情を見せてしまう。


 ……ちなみにレースは4着で終わった。

 ぎりぎりで入賞を逃した。

 相手が強すぎたこともあるが、言い訳だ。

 悔しさもあって、変な顔をしてしまった。



 今日は王都で年に一度開催される貴族水泳大会の日。

 泳ぎに自信のある貴族たちが日頃の鍛錬の成果を披露する、由緒ある催しである。


 何世代か前の王様が、大層泳ぎ好きであり、そこから我が国の伝統として毎年開催されているらしい。

 泳ぐのが好きな私としてはとてもいい催しだと思う。


 そして私は、その大会に出場するためにここへ来ていた。

 そんな時に告げられた婚約破棄。

 動揺しながら言葉を返す。


「……突然ですね」

「突然ではない! 以前から思っていたことだ!」


 クラウスの隣には、桃色の水着を着た令嬢が立っていた。


 子爵令嬢のミリア。

 王都の水泳クラブに所属し、先月の大会で個人総合三位に入賞したという女性だ。

 ただ、どこか落ち着かない表情をしている。

 仕草もどこかオロオロしているように見える。


「お前はつまらない女だ。泳ぎも地味、振る舞いも地味。何を考えているのかも分からない!」

「そんなことを言われましても……」

「ミリアを見習え! 彼女は美しく、華やかで、何より泳ぎが素晴らしい!」


 ミリアは困ったように微笑んでいる。

 私は彼女のことを嫌いではなかった。実際、泳ぎは見事だと思う。


 けれど、それと私の婚約を破棄する理由は別だ。

 別に私が粗相をしでかしたわけでもないし。


 とすると。


「つまり、ミリア様がお好きになったのですね?」

「そうだ!」

「……そうですか」


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 好きだった人に別の女性を選ばれたのだから、当然だろう。

 それでも、私は彼の前で泣き崩れるつもりはなかった。


「……分かりました。婚約破棄、お受けいたします」

「そうか……!」

「……では、私のレースがありますので失礼します」


 そう言って、自分の泳ぐ場所へと向かう。

 クラウスは呆れたように笑っていた。


「好きにしろ。どうせお前の泳ぎなど、誰も見ていない」

「……!」


 その言葉に、思わず唇を噛んだ。


 悔しい。

 どうして、私の好きなものまで馬鹿にされなければならないのだろう。


 けれど、ここで言い争うつもりはなかった。

 大事な大会の前に余計な体力を使いたくない。


「それでは、失礼します」


 努めて冷静にそう言った。

 ……少し声は震えていたが。








 ◇


 私が向かったのは、五十メートルプールだった。


 大会の個人競技は終了しており、残すはチーム参加のリレーレースだけ。

 私が参加しているのは、元々私が小さい頃から所属していたスイミングチームのメンバー達。

 全員しっかりと泳げる者達である。


 ……ただ、この大会に出ている入賞者達と比べると、少し弱いかもしれない。

 だが私たちはベストを尽くすだけだ。


 参加者たちが準備を進める中、チームメンバーと合流したあと、私は受付へ向かった。

 受付には小柄な少女が座っていた。


「エレノア様チーム、確認致しました。……ではこちらの紙に記載された場所までお願い致します」

「はい。分かりました。ありがとうございます」

「あ、あの!

 ……先程はとても素晴らしい泳ぎでした!正に人魚姫のような、優雅かつ大胆なすごい泳ぎでした!」

「……ありがとうございます。結果は4着だったし、……お見苦しいところも見せちゃったと思いますけど」

「そんなことありません! 1着と数秒しか離れていない大混戦だったじゃないですか!

 それにエレノア様の相手……入賞者の方々は去年の個人総合1位から3位までですよ!」


 彼女は興奮したように続けたあと。

 怒り顔になってから言う。


「……詳しいことはわからないですけど、あの婚約者様は最低だと思います。泳ぎや振る舞いが地味だとか、エレノア様の努力や姿をちゃんと見てないとしか思えません」


 思わず苦笑が漏れる。


 褒めてもらえたことはとても嬉しいし、彼に怒ってくれて、嬉しかった。

 それだけで、少しだけ気持ちが軽くなった。


「おい、エレノア!」


 振り返ると、クラウスがミリアを連れて立っていた。

 ……ただやはりミリアはどこか浮かない顔をしている。


「チーム戦だが、本当に出場するのか?」

「はい」

「ではミリアのチームと勝負してみろ。彼女は先月の大会の個人三位入賞者だぞ。

 それに他のメンバーも数々の大会で優秀な成績を収めた者達だらけだ!」


 そんなことを言うクラウス。

 なんてバカバカしいのだろう。


「嫌です」

「何?」

「私はミリア様と勝負するために来たのではありません。泳ぎたいから出場するのです」

「だからお前はつまらないのだ!」


 思わず眉を寄せた。


「クラウス様」

「何だ!」

「私の泳ぎを――好きなものを、あなたの好みに合わないという理由で否定しないでください」


 声が少し大きくなった。

 周囲の視線が集まる。


 けれど、もう構わなかった。


「私はあなたに褒めてもらうために泳いでいたわけではありません。速く泳げなくても、華やかでなくても、私は水の中が好きなんです。

 ――そしてそれをちゃんと見てくれている人も居らっしゃいます」


 そう言って、受付の彼女を見る。

 嬉しそうに手を振ってくれた。


 破顔しながら手を振り返していると。


「……勝手にしろ!」


 クラウスは顔を赤くして立ち去った。


 私は小さく息を吐く。

 少し言い過ぎただろうか。


 いや、そんなことはない。

 少なくとも、今の言葉に嘘はなかった。








 ◇


 チームレースが始まった。


 私は3番手だった。

 他のチームを見ながら、対戦相手の様子を見る。


 ミリアは第一泳者として出場し、華麗な泳ぎで観客を沸かせた。


 確かに速い。

 水を掻く腕の動きも、息継ぎのタイミングも見事だった。


 素直に羨ましいと思う。

 私には、あんな泳ぎはできない。


 けれど、それでいい。


 ――私は私の泳ぎをするだけだ。


 やがて私の番が来た。


 水に入り、壁に足をつける。

 冷たい水が肌を包み込んだ。


 前走のチームメイトが壁に触れる。

 それを確認してから。


 壁を蹴る。

 腕を伸ばし、水を掻く。

 息を吸い、吐き、また前へ進む。


 途中で少し苦しくなった。

 それでも、私は泳ぎ続けた。


 速くはない。

 美しくもない。


 それでも、今この瞬間、私は心から楽しかった。


 そして二十五メートルを泳ぎ切り、私も壁に手を触れる。

 すぐさま次のチームメイトが泳ぎ出す。


 だが。

 順位は変わらなかった。


 結局チームは最下位だった。


 それでも、私は他のメンバーと抱き合った瞬間、思わず笑ってしまった。


「楽しかった!」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

 目元から溢れる涙は止まりそうも無かったが。









 ◇


「まったく、見ていられなかったぞ」


 レース終了後、クラウスが近づいてきた。


「ミリアはあんなに素晴らしい泳ぎをしたというのに、お前達は最下位だ!」

「……そうですね。ミリア様は本当に素晴らしかったです」

「それに比べて、お前は恥ずかしくないのか!」


 その言葉を聞いた瞬間。


「――恥ずかしくありません」


 私は言い切った。


「何だと?」

「だって私は……私たちは楽しかったですから」


 クラウスは何か言いたげに口を開いたが、その前にチームメイト達が近づいてきた。

 彼女達は一様に厳しい目を彼に向けている。


 ……そう言えば。

 彼に言っておかなければならないこともありましたね。

 彼女達が私の後ろに控えたのを確認してから話し出す。


「クラウス様。婚約破棄の件ですが、お伝えしなければならないことが」

「……何だ?」

「再来月の貴族水泳大会の名誉代表についてです。婚約者同士で出場するという慣例がございますので、婚約解消に伴い、代表枠は取り消しとなります」


 その言葉に彼は青い顔をする。

 そして怒鳴り出す。


「待て! あの大会は父上も楽しみにしているし、王族の方々も観戦しに来る大事な物だ!

 ……代表枠の取り消しは私にとっても……お前にとってもまずいものだろう!」

「ですが、規定ですので。

 それに、私は個人でも招待されていますので、特に問題はございませんわ」


「……ならば、ミリアと婚約して出場すればいい!

 確かミリアも招待されていたよな!?

 エレノアが辞退する分を私とミリアで出れば――」


 突然話を振られたミリアが、目を丸くした。

 そしてあずあずと語り出す。


「クラウス様、私、婚約のお話は聞いておりませんけれど……」

「今からすればいいだろう!」

「申し訳ありません。私は水泳を楽しみたいだけで、結婚を急いでいるわけではありませんので。

 ――それにエレノア様は私のとても良いライバルです。彼女を侮辱するような方とは、あまり仲良く出来ないかと……」


 ミリアは困ったように頭を下げた。


 クラウスの顔がみるみる赤くなる。

 私はその様子を見て、少しだけ気の毒に思った。


 けれど、もう私が気にすることではない。


「それでは、失礼します」


 今度こそ、私達は競技場を後にした。

 クラウスが怒鳴りかけてきている気がしたが、もうどうでも良かった。







 ◇


 帰り道、残念会を行った後、私は近くの水路に立ち寄った。

 皆はもう帰っており、私1人だけだ。


 夕日を映した水面が、ゆっくりと揺れている。


 少しだけ寂しかった。

 ……クラウスとのことだ。


 婚約者として過ごした時間は、決してすべてが嫌な思い出だったわけではない。

 楽しかったこともあったし、彼に好かれたいと思って努力したこともあった。


 だから、何も感じないふりをするつもりはない。


 私は傷ついた。

 悔しかった。


 それでも。


「……やっぱり、泳ぐ方が好きだな」


 水面に映る自分の顔を見て、笑った。


 次の大会にも出よう。

 今度は、もっと長い距離に挑戦してみよう。

 優勝できるかは分からない。

 ライバルと言ってくれたミリアも居る。


 けれど、そんなことはどうでもいい。

 私は私の好きなように泳ぐ。


 誰かに認められるためではなく、自分が楽しいと思える人生を送るために。


 水路の向こうから、涼しい風が吹いてきた。

 私は顔を上げ、明るい夕空を見つめた。


 婚約は終わった。

 けれど、私の人生まで終わったわけではない。


 さあ、次はどこまで泳ごうか。

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