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白狐「この男は私の眷属よ」赤狐「いいえ、私のつがいです」俺「すみません、バケツ持ってるんで通してもらえますか……?」

作者: 春風れん
掲載日:2026/08/04

「この男は私の眷属よ」


 白い狐が宣言した。

 通りの右側に立ち、雪のように白い九本の尾を誇らしげに広げている。


「違う! 孝一は私の未来の旦那だ!」


 赤毛の狐が言い返した。

 こちらは左側。尾の数でも、もちろん負けてはいない。こちらも九本だ。


 そして、その真ん中に立っているのが、俺、孝一こういちだった。


 右手には重い工具箱。

 左手にはブリキのバケツ。


 その足元では、泥水がざあざあと通りを流れている。


「すみません。バケツ持ってるんで、通してもらえます?」


 白羽しらはの九本の白い尾が、通りの右半分を塞いでいる。

 あかねの九本の赤い尾は、左半分を占領している。


「孝一。今、あなたの運命が決まろうとしているのですよ」


 白羽が厳かに告げた。


 そのとき、通りの奥から悲痛な叫び声が響いた。


「コウイチぃぃ! 水が新作の下駄まで届いたぞぉぉ!」


 俺はため息をついた。


「イダさんの運命なら、もう決まったみたいだ。かなり悲惨な方向で」


 御神木の梅のそばで、水道の本管が破裂していた。

 イダさんの古い履物屋は、店というより水路になりかけている。新作らしい片方だけの下駄が、ぷかりと俺の足元を流れていった。


「俺の春物がぁぁ……!」


 イダさんが商品箱を抱き締めて泣いている。


 白羽は、町外れの古い神社を守る妖狐だ。念じるだけで、水の流れを止められるほどの力を持っている。


 ただし前回は町の一角を丸ごと凍らせ、住民たちは三日間、鍋で氷を溶かして暮らす羽目になった。


 茜は北の山の主だ。家ほどもある岩を軽々と持ち上げられる。


 ただし岩を持ち上げるときは、たいてい石畳も一緒についてくる。


 そして、二人がこうなった原因は俺にあった。


 一週間前、俺はうっかり古い神社の封印を解いてしまった。それ以来、白羽は俺を自分の眷属だと言い張り、茜は俺を理想の夫候補だと思っている。


 白羽が多少なりとも言うことを聞く人間が、俺しかいないかららしい。


 俺としては、ただ静かに修理を終わらせたい。


◇ ◇ ◇


「よし」


 俺は唯一濡れていない石の上に、工具箱を置いた。


「よく聞いてくれ。町を壊さずに水道管の修理を手伝ってくれた方には、昼飯を奢る」


 十八本の尾が、ぴたりと止まった。


「私と二人きりで、ですか?」


 白羽が目を細める。


「夫婦としてか!?」


 茜の耳がぴんと立った。


「同じ現場の作業員としてだ」


 白羽がすぐに片手を掲げた。


 通りの上空に、眩い白色の法陣が広がる。


 空気が一気に二十度ほど冷え込んだ。


「水道管を凍結させます」


「全部?」


「当然です。そうしなければ、水圧が残るでしょう」


「前回の薪代、マツさんの付け帳にまだ残ってるぞ」


 法陣が、すっと消えた。


 マツさんは町の茶屋を切り盛りしている。


 尾もない。術も使えない。神の血を引いているわけでもない。

 それでも、古い妖怪ほど彼女の付け帳を恐れていた。


「なら、私が力ずくで止めればいいんだろ!」


 茜が胸を張り、本管の元栓に手をかけた。


「気をつけろ。それ、古っ……」


バキン。


 水柱が、さらに三メートルほど高くなった。


 イダさんが、やかんの湯が沸いたような悲鳴を上げる。


 茜は、手の中に残った丸いハンドルを呆然と見つめた。


「回す向き、逆だったか?」


 俺は無言でバケツを差し出した。


「店の水をかき出してくれ」


「でも、私も管の修理を手伝えるぞ!」


「それが手伝いだ」


 茜は履物を救うため、店へ飛び込んでいった。


 俺は白羽に幅の広い板を渡す。


「水を側溝へ流してくれ」


「この木切れで?」


「手で押さえて。頼む」


 偉大なる神社の守り手は、いかにも嫌そうに板を二本の指でつまんだ。


ざばんっ。


 泥水が凄まじい勢いで板に叩きつけられる。


 白羽の純白の着物は、一瞬で泥まみれになった。

 ふさふさだった尾の一本も濡れ、しょんぼりした箒のように垂れ下がる。


 履物屋の戸口から、茜が顔を出した。


「白羽、ずぶ濡れの犬みたいだぞ!」


 白羽の持つ板に、白い霜が広がった。


「あなたこそ、先ほどから同じ水を十分も運んでいますね」


 茜が手元を見る。


 バケツの底に開いた小さな穴から、水がちょろちょろと流れ落ちていた。店の床へ。


「不良品のバケツだ!」


「俺のバケツだ」


「私が直す!」


 茜は力強い指でバケツを握った。


 底がなくなった。


 ついでに、側面の下半分まで潰れた。


 俺は残骸を受け取った。


 愛用のバケツだった。三年間、文句ひとつ言わず働いてくれた相棒だった。


「今後、俺の許可なしに何かを直すのは禁止だ」


 二人の狐の耳が、同時にぺたんと伏せられた。


◇ ◇ ◇


 本当なら、古き妖狐の優雅さについて、二人にいろいろ言ってやりたいところだった。


 だが、水はすでにイダさんの大福帳に迫っている。


 ここは代々続く古い履物屋だ。

 イダさんは何十年も町の人々の履物を直し、懐の苦しい家には代金の後払いを許してきた。彼にとって、これは笑って済ませられる騒ぎではない。


「もう、遊んでる場合じゃない」


 二人はすぐに黙った。


 俺は泥の中に膝をつき、崩れた地面を掘り返した。


 管は二か所で割れている。そして、その二つの亀裂の間を貫くように、御神木の梅の太い根が伸びていた。


「原因はこれか」


 白羽が隣にしゃがんだ。着物が水に浸かるのも気にしていない。


「この根には霊力が満ちています。普通の木より、はるかに速く成長するのでしょう」


「そして、どんな管でも押し潰す」


「なら、木を引き抜けばいいんだな!」


 茜が嬉しそうに袖をまくった。


 白羽の周囲の空気が、再び冷え始める。


「茜。その梅に触れてはなりません。初代の守り手が植えた御神木です。傷一つ許しません」


「じゃあ、人間には毎月この通りを泳げっていうのか!」


 二人の尾が、ゆっくりと持ち上がった。


 俺は梅の根に手を置く。


「木には触らない。管を迂回させる」


「どうやって?」


 イダさんの物置の裏には、雨樋用の銅管が予備として置いてあった。

 俺は店の中を見る。イダさんは、水に濡れそうな最後の書類を抱えているところだった。


「持っていけ!」


 俺と目が合うなり、イダさんが叫んだ。


「銅なら全部持っていけ! とにかく水を止めてくれ!」


◇ ◇ ◇


 曲がった根を避けて管を通すには、銅を熱して曲げ、すぐに冷やして形を固定する必要がある。

 ほとんど宝石細工のような、繊細な作業だ。


 鍛冶場は町の反対側にある。

 だが、こっちには歩く天災が二人いた。


 俺は白羽を振り返った。


「金属を狭い範囲だけ冷やせるか? 指二本分くらいの帯状に」


 白羽が顎を上げる。


「この一帯を雪で覆うことさえ、私には容易いことです」


「指二本分の方が、一帯より難しいぞ」


 金色の目が細くなった。


「糸一本の幅でも、やってみせます」


「よし。茜は銅管をゆっくり曲げられるか?」


「結び目にだってしてやる!」


「潰さず、歪ませず、根にも触れずに」


「孝一……」


「やってみよう」


 俺は銅管を、本管の割れた部分に合わせた。


 茜が反対側を握る。


「手のひらで温めてくれ。もう少し強く」


「潰すなって言ったのは孝一だろ!」


「『潰すな』とは言ったが、『触るな』とは言ってない。その間には、いくらでも加減がある」


「人間は、どうしてそう面倒に考えるんだ」


 茜が不満そうに呟いた。


 その手のひらが、穏やかな橙色の光を帯び始める。


 白羽も手を伸ばした。


 熱せられた銅の表面に、細い霜の線が走る。


「端だけだ」


 霜が、ぴたりと止まった。


 白羽の額に、一粒の汗が浮かぶ。


 偉大な守り手が、これほど苦戦している姿は初めて見た。


 難しいのは、術そのものではない。力を絞ることだ。


 周囲の何もかもを術で吹き飛ばすのではなく、必要な場所だけに正確に力を届けること。


「茜。ゆっくりだ。俺の手の動きに合わせて」


 銅管が少しずつしなり、梅の根を避けるように曲がり始めた。


ごきっ。


 茜の足元で、石畳が割れた。


 自分の力を抑えるため、全身を緊張させている。


「ごめん」


 茜が目を伏せたまま呟いた。


「大丈夫だ。俺の手を見ろ」


 俺が曲げる角度を示す。

 茜が慎重に銅を動かし、白羽は曲がったそばから冷やして、元の形へ戻らないよう固定していった。


 二人は、もう言い争わなかった。

 ただ俺の手元だけを見つめ、指示どおりに正確に動いている。


 これまで二人の視線は、左右から吹きつける二つの嵐みたいなものだった。


 通りごと吹き飛ばしかねない、騒がしい嵐。


 だが、今は違う。


 これは、信頼だった。


 俺は接続部を金具で締め、継ぎ目に松脂を塗り込んだ。


 それから、上流側の元栓を開けに行く。


ぎし……。


 新しい銅管が、低く唸った。


 俺たちは息を止める。


 一秒。


 二秒。


 一滴も漏れない。接続部は持ちこたえた。


 水柱が消えた。


「直ったのか?」


 茜が息を吐く。


「直った」


「私が町の水道を直したぞ!」


 茜が両手を掲げた。


「私たちが、です」


 白羽が訂正する。


 二人は互いを見た。


 白羽の着物は泥だらけだ。

 一本の尾はまだ濡れた箒のように垂れ下がり、頬には松脂の筋がついている。


 茜は水たまりの中に座り込み、乱れた髪には銅の削りくずが絡んでいた。膝も擦りむいている。


 茜が不意に、握った拳を白羽へ差し出した。


「白羽。銅を冷やすの、なかなか上手いな」


 白羽はわずかにためらってから、自分の拳を重ねた。


こつん。


「あなたも今回は、配管を粉々にしませんでしたね」


「それ、褒めてるのか?」


「あなたにしては、最高の褒め言葉です」


 二人は笑った。

 相手に勝ったからではない。自分たちの力で、修理ができたからだ。


 俺も気づけば笑っていた。


「いい仕事だった」


 二人の耳が、同時にぴんと立つ。


「じゃあ、昼飯だな!?」


 茜が勢いよく立ち上がった。


「どちらの勝ちですか?」


 白羽が尋ねる。


 俺は水浸しの路地と、割れた石畳と、バケツだったものを見渡した。


「勝者はイダさんだ。履物が海まで流されずに済んだから」


「私たちは!?」


 二人の声が、きれいに重なった。


「二人とも手伝った。だから三人で食べる」


 二人は、どちらが俺の隣に座るか言い争おうと口を開いた。


 そのとき、通りの向こうから乾いた下駄の音が響いた。


からん。


ころん。


◇ ◇ ◇


「孝一」


 足首まで水に浸かって、マツさんが立っていた。


 小柄で、白髪で、前掛けをきっちり締めている。

 彼女は水浸しの通りを見た。


 固まっている二人の妖狐を見た。


 最後に、光る新しい銅管へ目を向ける。


「直った?」


「直りました」


 マツさんの指が茜を指した。


「飯のあと、茜はイダさんの庇」


「は、はい、マツさん」


 北の山を治める妖狐が、蚊の鳴くような声で答えた。


 指が白羽へ移る。


「白羽は店を乾かす。客ごと凍らせないこと」


「承知しました」


「孝一は石畳」


「分かりました」


 マツさんは背を向けた。


「麺は三十分後。三人前」


 俺たちは黙って、その背中を見送った。


「あの人、いつもああやって現れるのか?」


 茜が囁く。


「付けがあるときだけだ」


 俺は答えた。


「ほら、顔を洗ってこい。二人とも泥だらけだぞ」


「あなたの頬にも松脂がついています」


 白羽が一歩近づき、指を上げた。


 小さな雪の結晶が、俺の頬へ触れる。


ぱきり。


 松脂は一瞬で固まり、細かな欠片になって落ちた。

 白羽は自分の指先を見つめ、しばらく動きを止める。それから赤くなった耳を隠すように、素早く顔をそらした。


「もう、ついていません」


「私も孝一を乾かせるぞ!」


 茜がすぐに割り込み、熱を帯びた両手を伸ばす。


「いらない」


「ほんの少しだけ熱を入れる!」


「駄目だ」


「今度はちゃんと加減する!」


「なおさら駄目だ」


 イダさんが、助かった履物を並べながら静かに笑った。


◇ ◇ ◇


 たしかに、バケツは失われた。

 石畳も、夕方までに敷き直さなければならない。マツさんの付け帳に書かれる額も増えた。


 それでも、水道は直った。

 歩く天災が二人、力を合わせて働くことを覚えた。


 口に出して認めるつもりはない。

 けれど、二人の騒がしい声がなければ、この町は少し静かすぎるのだろう。


 俺たちは茶屋へ向かった。


 そのとき、共同浴場の方角から番台の男の悲鳴が響いた。


「コウイチぃぃ! 龍がまた湯船を占領して、出てこないんだぁぁ!」


 白羽の尾が大きく広がる。


「凍らせましょう」


 茜が拳を握った。


「尻尾をつかんで引きずり出す!」


 俺は、バケツだったものを見下ろしてため息をついた。


「まずは昼飯だ」


 今度は、二人とも反対しなかった。

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