白狐「この男は私の眷属よ」赤狐「いいえ、私のつがいです」俺「すみません、バケツ持ってるんで通してもらえますか……?」
「この男は私の眷属よ」
白い狐が宣言した。
通りの右側に立ち、雪のように白い九本の尾を誇らしげに広げている。
「違う! 孝一は私の未来の旦那だ!」
赤毛の狐が言い返した。
こちらは左側。尾の数でも、もちろん負けてはいない。こちらも九本だ。
そして、その真ん中に立っているのが、俺、孝一だった。
右手には重い工具箱。
左手にはブリキのバケツ。
その足元では、泥水がざあざあと通りを流れている。
「すみません。バケツ持ってるんで、通してもらえます?」
白羽の九本の白い尾が、通りの右半分を塞いでいる。
茜の九本の赤い尾は、左半分を占領している。
「孝一。今、あなたの運命が決まろうとしているのですよ」
白羽が厳かに告げた。
そのとき、通りの奥から悲痛な叫び声が響いた。
「コウイチぃぃ! 水が新作の下駄まで届いたぞぉぉ!」
俺はため息をついた。
「イダさんの運命なら、もう決まったみたいだ。かなり悲惨な方向で」
御神木の梅のそばで、水道の本管が破裂していた。
イダさんの古い履物屋は、店というより水路になりかけている。新作らしい片方だけの下駄が、ぷかりと俺の足元を流れていった。
「俺の春物がぁぁ……!」
イダさんが商品箱を抱き締めて泣いている。
白羽は、町外れの古い神社を守る妖狐だ。念じるだけで、水の流れを止められるほどの力を持っている。
ただし前回は町の一角を丸ごと凍らせ、住民たちは三日間、鍋で氷を溶かして暮らす羽目になった。
茜は北の山の主だ。家ほどもある岩を軽々と持ち上げられる。
ただし岩を持ち上げるときは、たいてい石畳も一緒についてくる。
そして、二人がこうなった原因は俺にあった。
一週間前、俺はうっかり古い神社の封印を解いてしまった。それ以来、白羽は俺を自分の眷属だと言い張り、茜は俺を理想の夫候補だと思っている。
白羽が多少なりとも言うことを聞く人間が、俺しかいないかららしい。
俺としては、ただ静かに修理を終わらせたい。
◇ ◇ ◇
「よし」
俺は唯一濡れていない石の上に、工具箱を置いた。
「よく聞いてくれ。町を壊さずに水道管の修理を手伝ってくれた方には、昼飯を奢る」
十八本の尾が、ぴたりと止まった。
「私と二人きりで、ですか?」
白羽が目を細める。
「夫婦としてか!?」
茜の耳がぴんと立った。
「同じ現場の作業員としてだ」
白羽がすぐに片手を掲げた。
通りの上空に、眩い白色の法陣が広がる。
空気が一気に二十度ほど冷え込んだ。
「水道管を凍結させます」
「全部?」
「当然です。そうしなければ、水圧が残るでしょう」
「前回の薪代、マツさんの付け帳にまだ残ってるぞ」
法陣が、すっと消えた。
マツさんは町の茶屋を切り盛りしている。
尾もない。術も使えない。神の血を引いているわけでもない。
それでも、古い妖怪ほど彼女の付け帳を恐れていた。
「なら、私が力ずくで止めればいいんだろ!」
茜が胸を張り、本管の元栓に手をかけた。
「気をつけろ。それ、古っ……」
バキン。
水柱が、さらに三メートルほど高くなった。
イダさんが、やかんの湯が沸いたような悲鳴を上げる。
茜は、手の中に残った丸いハンドルを呆然と見つめた。
「回す向き、逆だったか?」
俺は無言でバケツを差し出した。
「店の水をかき出してくれ」
「でも、私も管の修理を手伝えるぞ!」
「それが手伝いだ」
茜は履物を救うため、店へ飛び込んでいった。
俺は白羽に幅の広い板を渡す。
「水を側溝へ流してくれ」
「この木切れで?」
「手で押さえて。頼む」
偉大なる神社の守り手は、いかにも嫌そうに板を二本の指でつまんだ。
ざばんっ。
泥水が凄まじい勢いで板に叩きつけられる。
白羽の純白の着物は、一瞬で泥まみれになった。
ふさふさだった尾の一本も濡れ、しょんぼりした箒のように垂れ下がる。
履物屋の戸口から、茜が顔を出した。
「白羽、ずぶ濡れの犬みたいだぞ!」
白羽の持つ板に、白い霜が広がった。
「あなたこそ、先ほどから同じ水を十分も運んでいますね」
茜が手元を見る。
バケツの底に開いた小さな穴から、水がちょろちょろと流れ落ちていた。店の床へ。
「不良品のバケツだ!」
「俺のバケツだ」
「私が直す!」
茜は力強い指でバケツを握った。
底がなくなった。
ついでに、側面の下半分まで潰れた。
俺は残骸を受け取った。
愛用のバケツだった。三年間、文句ひとつ言わず働いてくれた相棒だった。
「今後、俺の許可なしに何かを直すのは禁止だ」
二人の狐の耳が、同時にぺたんと伏せられた。
◇ ◇ ◇
本当なら、古き妖狐の優雅さについて、二人にいろいろ言ってやりたいところだった。
だが、水はすでにイダさんの大福帳に迫っている。
ここは代々続く古い履物屋だ。
イダさんは何十年も町の人々の履物を直し、懐の苦しい家には代金の後払いを許してきた。彼にとって、これは笑って済ませられる騒ぎではない。
「もう、遊んでる場合じゃない」
二人はすぐに黙った。
俺は泥の中に膝をつき、崩れた地面を掘り返した。
管は二か所で割れている。そして、その二つの亀裂の間を貫くように、御神木の梅の太い根が伸びていた。
「原因はこれか」
白羽が隣にしゃがんだ。着物が水に浸かるのも気にしていない。
「この根には霊力が満ちています。普通の木より、はるかに速く成長するのでしょう」
「そして、どんな管でも押し潰す」
「なら、木を引き抜けばいいんだな!」
茜が嬉しそうに袖をまくった。
白羽の周囲の空気が、再び冷え始める。
「茜。その梅に触れてはなりません。初代の守り手が植えた御神木です。傷一つ許しません」
「じゃあ、人間には毎月この通りを泳げっていうのか!」
二人の尾が、ゆっくりと持ち上がった。
俺は梅の根に手を置く。
「木には触らない。管を迂回させる」
「どうやって?」
イダさんの物置の裏には、雨樋用の銅管が予備として置いてあった。
俺は店の中を見る。イダさんは、水に濡れそうな最後の書類を抱えているところだった。
「持っていけ!」
俺と目が合うなり、イダさんが叫んだ。
「銅なら全部持っていけ! とにかく水を止めてくれ!」
◇ ◇ ◇
曲がった根を避けて管を通すには、銅を熱して曲げ、すぐに冷やして形を固定する必要がある。
ほとんど宝石細工のような、繊細な作業だ。
鍛冶場は町の反対側にある。
だが、こっちには歩く天災が二人いた。
俺は白羽を振り返った。
「金属を狭い範囲だけ冷やせるか? 指二本分くらいの帯状に」
白羽が顎を上げる。
「この一帯を雪で覆うことさえ、私には容易いことです」
「指二本分の方が、一帯より難しいぞ」
金色の目が細くなった。
「糸一本の幅でも、やってみせます」
「よし。茜は銅管をゆっくり曲げられるか?」
「結び目にだってしてやる!」
「潰さず、歪ませず、根にも触れずに」
「孝一……」
「やってみよう」
俺は銅管を、本管の割れた部分に合わせた。
茜が反対側を握る。
「手のひらで温めてくれ。もう少し強く」
「潰すなって言ったのは孝一だろ!」
「『潰すな』とは言ったが、『触るな』とは言ってない。その間には、いくらでも加減がある」
「人間は、どうしてそう面倒に考えるんだ」
茜が不満そうに呟いた。
その手のひらが、穏やかな橙色の光を帯び始める。
白羽も手を伸ばした。
熱せられた銅の表面に、細い霜の線が走る。
「端だけだ」
霜が、ぴたりと止まった。
白羽の額に、一粒の汗が浮かぶ。
偉大な守り手が、これほど苦戦している姿は初めて見た。
難しいのは、術そのものではない。力を絞ることだ。
周囲の何もかもを術で吹き飛ばすのではなく、必要な場所だけに正確に力を届けること。
「茜。ゆっくりだ。俺の手の動きに合わせて」
銅管が少しずつしなり、梅の根を避けるように曲がり始めた。
ごきっ。
茜の足元で、石畳が割れた。
自分の力を抑えるため、全身を緊張させている。
「ごめん」
茜が目を伏せたまま呟いた。
「大丈夫だ。俺の手を見ろ」
俺が曲げる角度を示す。
茜が慎重に銅を動かし、白羽は曲がったそばから冷やして、元の形へ戻らないよう固定していった。
二人は、もう言い争わなかった。
ただ俺の手元だけを見つめ、指示どおりに正確に動いている。
これまで二人の視線は、左右から吹きつける二つの嵐みたいなものだった。
通りごと吹き飛ばしかねない、騒がしい嵐。
だが、今は違う。
これは、信頼だった。
俺は接続部を金具で締め、継ぎ目に松脂を塗り込んだ。
それから、上流側の元栓を開けに行く。
ぎし……。
新しい銅管が、低く唸った。
俺たちは息を止める。
一秒。
二秒。
一滴も漏れない。接続部は持ちこたえた。
水柱が消えた。
「直ったのか?」
茜が息を吐く。
「直った」
「私が町の水道を直したぞ!」
茜が両手を掲げた。
「私たちが、です」
白羽が訂正する。
二人は互いを見た。
白羽の着物は泥だらけだ。
一本の尾はまだ濡れた箒のように垂れ下がり、頬には松脂の筋がついている。
茜は水たまりの中に座り込み、乱れた髪には銅の削りくずが絡んでいた。膝も擦りむいている。
茜が不意に、握った拳を白羽へ差し出した。
「白羽。銅を冷やすの、なかなか上手いな」
白羽はわずかにためらってから、自分の拳を重ねた。
こつん。
「あなたも今回は、配管を粉々にしませんでしたね」
「それ、褒めてるのか?」
「あなたにしては、最高の褒め言葉です」
二人は笑った。
相手に勝ったからではない。自分たちの力で、修理ができたからだ。
俺も気づけば笑っていた。
「いい仕事だった」
二人の耳が、同時にぴんと立つ。
「じゃあ、昼飯だな!?」
茜が勢いよく立ち上がった。
「どちらの勝ちですか?」
白羽が尋ねる。
俺は水浸しの路地と、割れた石畳と、バケツだったものを見渡した。
「勝者はイダさんだ。履物が海まで流されずに済んだから」
「私たちは!?」
二人の声が、きれいに重なった。
「二人とも手伝った。だから三人で食べる」
二人は、どちらが俺の隣に座るか言い争おうと口を開いた。
そのとき、通りの向こうから乾いた下駄の音が響いた。
からん。
ころん。
◇ ◇ ◇
「孝一」
足首まで水に浸かって、マツさんが立っていた。
小柄で、白髪で、前掛けをきっちり締めている。
彼女は水浸しの通りを見た。
固まっている二人の妖狐を見た。
最後に、光る新しい銅管へ目を向ける。
「直った?」
「直りました」
マツさんの指が茜を指した。
「飯のあと、茜はイダさんの庇」
「は、はい、マツさん」
北の山を治める妖狐が、蚊の鳴くような声で答えた。
指が白羽へ移る。
「白羽は店を乾かす。客ごと凍らせないこと」
「承知しました」
「孝一は石畳」
「分かりました」
マツさんは背を向けた。
「麺は三十分後。三人前」
俺たちは黙って、その背中を見送った。
「あの人、いつもああやって現れるのか?」
茜が囁く。
「付けがあるときだけだ」
俺は答えた。
「ほら、顔を洗ってこい。二人とも泥だらけだぞ」
「あなたの頬にも松脂がついています」
白羽が一歩近づき、指を上げた。
小さな雪の結晶が、俺の頬へ触れる。
ぱきり。
松脂は一瞬で固まり、細かな欠片になって落ちた。
白羽は自分の指先を見つめ、しばらく動きを止める。それから赤くなった耳を隠すように、素早く顔をそらした。
「もう、ついていません」
「私も孝一を乾かせるぞ!」
茜がすぐに割り込み、熱を帯びた両手を伸ばす。
「いらない」
「ほんの少しだけ熱を入れる!」
「駄目だ」
「今度はちゃんと加減する!」
「なおさら駄目だ」
イダさんが、助かった履物を並べながら静かに笑った。
◇ ◇ ◇
たしかに、バケツは失われた。
石畳も、夕方までに敷き直さなければならない。マツさんの付け帳に書かれる額も増えた。
それでも、水道は直った。
歩く天災が二人、力を合わせて働くことを覚えた。
口に出して認めるつもりはない。
けれど、二人の騒がしい声がなければ、この町は少し静かすぎるのだろう。
俺たちは茶屋へ向かった。
そのとき、共同浴場の方角から番台の男の悲鳴が響いた。
「コウイチぃぃ! 龍がまた湯船を占領して、出てこないんだぁぁ!」
白羽の尾が大きく広がる。
「凍らせましょう」
茜が拳を握った。
「尻尾をつかんで引きずり出す!」
俺は、バケツだったものを見下ろしてため息をついた。
「まずは昼飯だ」
今度は、二人とも反対しなかった。
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