水上流奈 握手会終了後
第1章、5話。
霊に憑りつかれやすいアイドルは、試したいことがあるようで……。
「流奈様のおかげで毎日過ごせてます! えっと、流奈様、今日も最高にかっこよかったです! 今日のライブも最高で……」
余所行きのメイクを施して、混じりけのない黒髪を丁寧なお団子にしたその女性ファンは、目を輝かせながらその日のライブがどれだけ素晴らしかったかを早口で語った。
上の名前は忘れたけど、下は確か「律子」だった。サイン会で何度かチェキや「ばんかみ」のシングルが入ったCDケースなどに名前を書いた記憶がある。
スマイルと共に「良かったです~」「あたしもめっちゃ楽しかったです~」を繰り返していたが、中身はほとんど聞いていなかった。
というより、聞こえなかった。彼女の全身を包む黒いもやについた唇がずっと話し続けていたからだ。
——この人だ。
ライブ会場前席で得体の知れないものを連れていたのが、まさか自分のファンだったとは。
声自体は小さいが、たくさんの声がより集まってノイズとなっている。それが律子の声を遮る勢いで聞こえてくる。
「あああ、憎い憎い憎い」
「めちゃくちゃにしてやろうか、お前らを」
「なんでこんなやつらが、さっさといなくなればいいのに」
ライブで見たときより霊の力は弱まっているのかもしれない。
霊というものは大きい音が苦手とすることが多い。霊感の強い流奈は、出先で霊を連れて帰ってくることが日常茶飯事だが、部屋でスピーカーデバイスの音楽を流せば大体出て行ってくれる。だからさっきのライブでも力が弱まるのではないかと思っていたのだが。
しかし完全にはいなくなっていない。相当に強い霊なのだろう。呪詛重なり合ったノイズが聞こえる度に頭がぎゅうぎゅうと締め付けられるように痛んだ。
律子は、一枚につき十秒の会話可能な握手券を二十枚持っていた。だから三分二十秒の間、話をすることとなる。自分を推してくれる熱心なファンと話せて本当にありがたいが、今回ばかりは時の流れが過ぎるのが遅く感じる。
「あのー、流奈様。顔色悪くないですか?」
耳への神経を集中させて、ようやく律子がそう言っているのが聞こえた。一緒に聞こえてきた雑音は気にしないようにして。
ポーカーフェイスを心掛けているのに、顔に出てしまっていたようだ。いけない、いけない。
「本当ですか? 水分取らなさ過ぎて干からびそうなのかも~、気を付けます! 水の女神様なのに~」
よく見ると律子の方が顔色の方が紙のように真っ白く悪いように見えた。メイクで丁寧に隠してはいるが、下瞼にはどす黒い隈もできている。前回会ったときにはなかった記憶があるので、昨夜よく眠れなかったのだろうか。病気のせいではないといいが。
「あっなるほど、そうですよね! 流奈様、今日本当に頑張ってらしたし。おかげで私も元気一杯もらえました! 終わったら、しっかり水分取ってくださいね! ……それで、今日歌われてたソロ曲なんですけど……」
何とか誤魔化せた。ジェスチャーを時折交えながら、律子がまた早口の話に戻る。彼女が手を動かす度、彼女にまとわりついた黒いものも不気味にもぞもぞと動く。
これは間違いなく悪いものだ。何とか取り除いてもらいたい。しかし、そんな話をしたところでこの人はお祓いに行くだろうか? 行かないだろうな、こっちが変なことを言ってるとなるのがオチだ。
できることなら、今この場で流奈が祓ってやりたいところだ。
「残り三十秒でーす」
悲しくも、律子のそばに立っていた男性スタッフが残り時間を告げた。
*
「流奈、なんで前髪濡れてんだよ」
握手会が終わったあとの楽屋。先に着替え終わり、楽屋で小さなノートを開いていた茜は、流奈が楽屋に入るなり前髪を指さした。
「あっ、急いでてよく拭かなかったみたい」
「こっちきな」
フーディーから出したハンカチでご丁寧に前髪を拭いてくれる茜。
「ありがとう~」
「シャワーでも入ったの?」
「惜しい、ちょっと顔洗っただけ」
茜と楽屋で合流する前にトイレの洗面所で顔を洗った。持参したヘアクリップで前髪を留めてはいたのだが、それでも前髪は濡れてしまったようだ。
「へえ、なんで」
「なんでって、リフレッシュのためだよ~」
——というのはもちろん建前でーす。
心の中で茜に「ごめん」と謝る流奈。
ライブ終了後の怒涛の握手会。終わった直後はやはり親しみのある頭痛があった。
記者向けの撮影も終え、誰よりも早く着替え終わった流奈はトイレに向かった。
洗面台ではメイクを直しているスタッフがいるだけ。「お疲れ様です」と軽く会釈をして鏡を見る。
——これはすごい。
流奈の顔、首元、肩を覆いつくさんばかりに黒いもやがまとわりついている。そしてさほど大きくはないが、肩には握り飯サイズの唇がついていた。やはり醜く口を動かしながら「死ね」だの「消えてしまえ」などの呪詛を吐いていた。
だがもやの黒は、律子にまとわりついていたものと比べると比較的薄い。ライブで少しは邪悪なものが祓えたのかもしれない。
——連れて来たのはおさらばしないと。
楽屋から持ってきたクレンジングシートを出し、メイクを拭いていく。すっぴんを晒すことになるが、またあとで薄くメイクをすれば問題ないだろう。そしてもう今日のステージは終わったのだから。
水道の蛇口から流れ出てきたカルキの入った水は、濁りなく澄み切っていた。白い洗面台に顔を寄せ、両手のひらですくった水を素のままの顔にかける。ばちゃり。隣でフェイスパウダーを顔にはたいているスタッフには、流奈の姿が「ライブの興奮を鎮めるために、冷水で顔を洗っているアイドル」としか見えなかったはずだ。問題ない。
流水のかかった額、顔からすうっと重いものが消えていく感覚があった。鏡を見ると、顔についていた黒いもやがほとんど消えている。
メイク直しが終わったスタッフがトイレを出て行った。トイレには流奈以外誰もいない。
——今だ。
半袖のTシャツから少しだけ右肩を出し、もう片方の手で水をすくう。
「穢れさん、どっかに行ってくださいな」
できればここよりも遠くに。
そう声をかけながら、肩に水をかける。肩から背中、腕に水が伝っていくと同時に、耳元で聞こえていた呪詛の声が徐々に小さくなり、やがては止んだ。
「……よし」
鏡に映ったガッツポーズする自分を見ながら、流奈は呪いに勝ったのを感じた。
流し雛という風習がある。
雛とは「雛人形」のことだが、現在では紙や木の葉で代用されることも多い。そしてこの雛は「形代」と言い、持ち主の身代わりになるとされている。
この風習では、持ち主である幼い少女の身体を形代で拭う。拭った形代には持ち主の病など、穢れが移るとされている。
やがて、穢れを移された雛は川へと流される。流れる水は留まることなく、常に清らかでいるため、穢れも流してしまうからだと言われている。太古の日本より「流水」にはそのような力があったとされたため、生まれた風習だ。
今よりも霊障に悩んでいた子供時代、何かの本で読んだ知識だったものを応用したのである。川ではなく水道だったが、それでも効き目があったようだ。
——こんなこと、茜っちにはそう簡単に言えないよ。
オカルトめいた話をしても茜は一笑に付さないでいてくれるかもしれないが、自ら教えるつもりはない。
「——そうだ、流奈。聞きたいことがあんだけど」




