土御門静 舞
父からその作法のことを教えてもらったときのことを、未だに覚えている。
「今から見せるのは地の穢れを浄化する、お祓い前の作法だ。絶対に覚えていてほしい」
そう言われて素直に、その作法を習得した。まだ何も知らず、父を心から尊敬していた頃だ。
砂地の上に両足をつけていることを、スニーカーの靴底の裏から感じる。
そしてそこが今穢れていることも。
——まずは左。
左足を一歩、前に踏み出す。普通に歩くのではなく、力を抜いて千鳥足のように進んだ。すでに自分の身にしみ込んだ、陰陽師の祓言葉たちを唱えながら。
——次は右。
一歩進んだ左足の隣に、右足を並べる。その瞬間、辺りに漂っていた黒いもやが少しだけ薄れた。
本当はそんなことはしたくなかった。しかし穢された地と邪霊に憑りつかれ苦しむ青年を見て、静の中で何かが動いた。
静はその歩行を繰り返しながら、青年たちの元に近づいて行った。その度に辺りで散っていたもやが薄れた。
独特な歩行で近づいてくる静を見て、男性たち3人は一時的に動きを止めた。馬乗りになってきた青年から何とか逃れた因幡は、静の動きを「信じられない」という目つきで見ていた。
恐怖はわずかだがある。だが、それを上回る集中力が芽生えてきていた。
だからその青年の輪郭に、黒い影が重なっているのがはっきり見えた。
赤い目以外は、一つ一つ小さな生き物が寄り集まった集合体のような生き物。青年を乱れさせている原因がそれであることは、明らかだった。
「——それがあなたに巣くっているものたちなんですね」
自分でも無意識に呟いたとき、止まっていた青年の表情が動く。
「あっチにイけ!」
唾を吐きながら、奇妙な抑揚で青年が叫んだ。言葉とは裏腹に、その青年の目が懇願するようにうるんでいるのを見逃さなかった。
「その人から出ていきなさい——臨・兵・闘・者・皆・陳・裂・在・前」
九つの言葉——九字を呟きながら、くっつけた人差し指と中指で空中に網の目を作る。これも父から教えてもらった邪を退ける術だ。
「ぐええっ……」
術は無事効いたようだった。えずいた青年は黒い塊を吐き出し始めた。
黒い服の青年が吐き出した黒い影たちは一つの大きな塊となり、「おおおおお」と耳を弄する唸り声を上げながら向かってくる。
周りに漂っていた黒いもやも肉体の一部として引き込みながら、静の方へ。
「——誰が捕まるか」
行儀は悪いが、心の中で中指を立てる。
何も考えずとも、身体は身軽に動いた。びゅん、と黒い影が耳元をかすめる前に身をかわす。そして即座に右手の形代を叩きつける。
襲ってくる黒い影——もとい穢れは大きく、強大だ。形代を使おうにも、一気に取り込むわけにはいかない。
右上、右下、左上、左下、真下、上空。至るところから、黒い影は襲ってくる。一瞬でもかすれば、終わりだ。それらは静の中へと侵入してくる。本能のままに静は身体を動かしていた。
手をすっと伸ばし、バレリーナのようにくるりと身体を回転させ、ときには宙を飛ぶその姿は、周りで見ている者たちにはまるで踊っているかのようにも見えた。
土御門静はそのとき、邪を制す舞いを踊る踊り子となっていた。
……いヤだあああああああっ……
踊り子は軽やかに舞い、形代を黒い影に叩きつけ続けた。その度に巨大な影、それから発される唸り声は小さくなっていった。彼女が持っている人型の紙が、インクの吸い取り紙のように吸い取ってしまっているということは、自明なことだった。
何度形代を叩きつけたことだろうか。影の大きさが猫ぐらいの大きさになっていた。
——あと少しだ。
一瞬、静は油断したのかもしれない。
「——あっ」
右腕上空で動いていた細い影が、素早く静の口元へと移動する。最後の力を振り絞った悪あがきのように。
——お父さんがね、昨日の夜、あんたが黒いものを飲み込む夢を見たんだって。
奇しくも、頭をよぎったのは電話口の母が告げる父の夢だった。あれは本当に予知夢だったのか。
そのとき強すぎない、かといって弱すぎもしない力が静の腰を捉え、反転させた。
「……楓花」
「危なかったね」
楓花の長い睫毛が被さる黒い瞳と、ぶつかりそうになる。社交ダンスの相手をしているような体勢のまま、楓花と静の両腕を取っていた。もう少しというところで静を捕え損なった影は、自信を無くしたようにふらふらと地に低下していく。
そこを見逃さなかった。
人形を持った静の細い腕が、足元へと伸びる。
「急急如律令!」
「速やかに命令を実現せよ」という意の鋭い言葉が、静の口から飛び出した。これも陰陽師が唱える呪文だ。
きヤああああああ……
形代は静の命を実行した。
弱り切った黒い影は小さな断末魔を発しながら、形代に吸い込まれていった。




