櫛川明 目撃
今日が何月何日なのかわからない。だけど、そんなことどうでも良かった。時間さえわかればいい。あの家に行ければそれでいい。
ぐじゅぐじゅ。同僚の手がオレの頭の中に入ってくる。
「はヤくいこウよ」
ああ、わかった。ちょっと待てよ。返事が聞こえたのか聞こえなかったのか、同僚の返事はなかった。代わりに、前を歩いていたランドセルを背負ったガキ二人が変な目でオレを見た。何だよこいつら、あっち行け。軽く睨んでやると、泣きそうな顔をして走り去って行った。ざまあみろ。
「たのシいことしよウ」
ああ、くそっ。とにかく周りが騒がしい。ただ歩いているだけなのに、立ち止まってこっちをじっと見られる。車からうるさいクラクションを鳴らされたり、「何してんだ、危ないだろう!」と怒鳴られることもある。うるせえな。オレはただ道を歩いているだけなのに。
苛つきながら速足で歩いていると、そのうちドンっと肩に衝撃があった。二人並んで歩いているうちの女二人組の、背の低い一人だった。
適当に謝って、歩き出す。
「とモだチ、とモだチ」
「あソぶ。あソぶ」
背後で珍しく同僚が興奮していたが、放っておいた。
ようやくあの家に着くと、知らない男二人が家の前に立っていた。
「君だね、この民家に出入りしているのは」
背が低く年を取っている方が、やってきたオレを見るなり話しかけてきた。
「……何ですか、いきなり」
——誰だ、こいつら。
警戒で身構えた片足が、一歩後ろに下がった。ずざざっ、と砂利がこすれる音が遠く聞こえる。
瞬き一つせずオレを見つめる男二人のうち、背の高い方が口を開く。
「——あなたの隣にいるのは何ですか?」
男はオレたちを見ている。穴が開きそうなぐらい、じっと。
「いヤだいヤだいヤだいヤだいヤだ」
ぐじゅぐじゅぐじゅ。
頭の中に同僚の入り込む音が耳の中で炸裂する。今回は手だけではない、全身だ。
「まずいぞ! 兎史博くん、助けてやってくれ!」
オレを助ける? 何の話だ。
「いヤだいヤだいヤだ、こっチにくルな!」
どちらにせよ、オレは立っていられなかった。
無意識に曲げられた膝が、固い地面を打つ。オレの中で同僚が狂ったように暴れていた。
「——かけまくもかしこき、いざなぎの……」
白い服の男が険しい顔をして、何かわからない言葉をオレに向かって唱え始める。
「ううっ……」
ぎヤああああああああっ!
頭が強烈に痛み始め、同僚がオレの中で絶叫した。しかし、今度はそれだけではなかった。
「こウしてやるうううううううっ!」
視界が急に高くなり、見上げていたはずの白い服の男と目線が近づく。
前に伸びきったオレの手は、その男の肩をぐっと掴んでいた。
「兎史博くん!」
「ふザけるナ!」
そしてそのときようやく気づいた。同僚が言っていると思っていた言葉は、全てオレが言っていたということに。それもそうだ。オレと同僚は一心同体なのだから。
「ヤめロ!」
パンっと鋭い音がした瞬間、目の前の男の頬にオレの拳が突き刺さる。うるさい言葉を黙らせたかったからだ。
オレの手で殴られた男は、殴られた顔を赤くはらしながらもわけのわからない言葉を唱え続けていた。
「うアああああああああっ!」
頭が割れる。男が喋るたびに頭が割れる。
「にゲなきゃ」
同僚はここから逃げたいらしい。オレの身体は走りだしていた。
「待ちなさい!」
後ろから声がかかったが、構うものか。「待て」と言われて待つ人間がどこにいる?
「にゲなきゃ、ともだチ」
同僚、そしてオレが言った言葉に「ああ」と頷く。あいつら——特に白い服の男は危険だ。嫌な言葉でオレたちを苦しめようとしてくる。
必死で走った先にあったのは、あの神社だった。
やはり、さっきの二人は追ってきた。また白い方を殴ってやったが、若くない方の男に取り押さえられた。
逃げようとひたすら暴れた。逃げられなかった。悔しさで声と涙だけが溢れた。
そして今、オレたちの目の前には若い女が立っている。彼女はフラフラとした足取りで近づいてきたかと思うと、束縛から逃れようとしているオレを見ている。
——助けてくれ!
「あっチにイけ!」
代わりに同僚が叫んだ。違う、こんなことオレは思っちゃいないのに。
——嫌だ、オレの身体を返せ!
そう叫びたかった。
「……それが、あなたの中に巣くってるものたちなんですね」
自分の意志では動けないオレの頭上を見上げながら、彼女——人気アイドルの土御門静は言った。真剣なまなざしは怯えもせず、怒りもしていなかった。
それから起こったことは忘れたくとも、一生忘れることなどできないものとしてオレの記憶に残り続けるだろう。
「その人の元から出てきなさい——臨・兵・闘・者・皆・陳・裂・在・前」
子供を叱責するように言った土御門静は、奇妙な言葉を口走りながら、くっつけられた人差し指と中指を上下に動かした。
「ううううっ……」
途端、猛烈な吐き気が頂点まで達し、嘔吐寸前のおくびが出る。胃がせりあがり、喉の奥から異物が口元へとこみ上げる感覚に襲われた。
耐え切れず、とうとうがぼっとえずいたオレの口から、どぼどぼと大量の黒いヘドロのようなものが吐き出された。
地面へと吐き出されたそれは留まったり、広がることなく、一人でに上へと動いた。
「ヘドロ怪獣」とでも呼ぼうか。どぼどぼと湿った音を立てながら、煙が上へ上がるように固まったヘドロは、3メートルは超えそうな黒く大きな塊となった。
——こんなものがオレのなかにいたのか。
他人事のような考えが頭をよぎった。
おおおおおおおっ……
おおおおおおおっ……!
オレの聴覚全てを塞ぐように、唸り声が轟く。
オレの口から吐き出されたヘドロたちが一つの大きな塊に集まり、土御門静に向かっていく。
——やめてくれ!
黒い影はオレに蓄積された呪いであり、こうなったのは自分のせいだ。ようやくわかった。
オレが甘い話に騙されて、呪いの儀式をやったからだ。半紙に呪いの字を書き続けてきたせいだ。
あっという間もなく、土御門静の右顔の横を巨大な影がかすめた。
その後のすべては早送りしたかのように進んでいった。
黒い影が頭にぶつかる寸前、彼女は右半身を下によけてかわしたかと思うと、右手を襲ってきた黒い影に叩きつけた。その手をよく見ると、白く小さな人型の紙が握られていた。
きヤあああああ!
黒い影から、引き裂くような悲鳴が聞こえた。わずかだが、大きかった塊が縮んだようにも見えた。
それでも黒い影は、土御門静に向かってつっこんでいく。
左上、右上、左下、右下、上空、正面。少しでもあれに触れれば、オレのように体内に呪いを取り込むことになるだろう。
しかし彼女は黒い影にぶつかることはなかった。ぶつかる寸前で身体を上手くかわし、器用に右手の白い紙を叩きつけるのだった。
土御門静が呪いを避けながら戦っているということに気づくのに、さほど時間はかからなかった。




