土御門静 真実
それだけで終われば良かったのかもしれない。
静が小学校四年生になったとき、中学一年生だった兄の正二が泣きながら帰ってきた。着ていた学ランの裾は土で汚れ、頬には赤いあざと唇には切り傷ができていた。思えば数日前から、兄は家の中でも浮かない顔をしていた。
心配した母に訳を問われた兄は、泣き止んでから答えた。
「……同じクラスのやつらにやられた」
教師の目の届かないところでの暴力や、物を隠されるなどの行為を繰り返しされているのだという。
「誰にやられたの」
震える声で母は加害者の名前を聞いた。兄はぼそぼそとした声で「田中」や「加賀谷」など5名ほどの名前を口にした。その夜、父と母は夜遅くまで起きて話をしていた。
あくる日のことだった。
学校帰りの通学路、自分の家が並ぶ通りの中のとある民家の門から母が出てくるのを見た。普段朗らかな母は、緊張した面持ちをしていた。
門には「田中」と表札がかかっていて、兄をいじめていたクラスメイトの名前に「田中」がいたことを思い出した。
門の鍵を閉めた母に「ママ!」と声をかけると、母は一瞬だけぎょっとした顔をしたあとに笑顔を見せた。
「おかえりなさい、静。学校は楽しかった?」
その質問は何かを誤魔化そうとしているかのように静には聞こえた。
「うん、楽しかったよ——ママは何してたの?」
「この間、ママのおばあちゃんの家からたくさんみかんを頂いたでしょう? うちだけじゃ食べきれないから、ご近所の人におすそ分けして回っていたの。もう済んだから帰りましょ」
手をつなごうと差しのべられた母の手を握りながら、静は「そうなんだ」と頷いた。母の右手の人差し指と親指の爪に茶色い土が詰まっていたのが気になったが、何も聞かなかった。
「きええええええ!」
家の前で甲高い奇声を聞いたのは、兄がいじめられていることが発覚した週末のことである。
最初は何か、生き物が叫んでいるのではないかと思った。二階にある静の部屋の窓から声がした方を眺めると、中学生くらいの男の子が宙を仰いだ状態で立っていた。
そう遠い距離ではなかったから、少年の様子がよく見えた。目をかっと見開いた少年は、
「きええええええ! へへへへへへっ」
静が見下ろしている間にも、再度奇妙な笑いを発していた。がくがくと痙攣したように全身を震わせながら。
——どうしたんだろう。
ただ、怖かった。あの人は病気なのか? 今こうしている間に母を呼ぶべきか。
戸惑っていると、視界左の家から一人の女性が飛び出してきた。
「やめなさい、陽太!」
そう叫んでから、女性は「陽太」と呼ばれた少年を引きずるようにして家の中へと消えて行った。数分後にインターホンが鳴り、「田中」と名乗る女性が母を呼んだ。
「息子の様子が昨日からおかしいんです」
悪いことだとわかっていたが、リビングから静は玄関先に聞き耳を立てた。
話を聞いていると、女性——静の家の近所に住んでいる田中智子の息子である田中陽太の様子が、昨日の夜からおかしいのだという。
「普段はおとなしい子だったのに。怖い目つきでこちらを睨みながら何かぶつぶつ言い始めたり、さっきみたいに奇声を上げたりするんです」
「まあ、それは大変ね。陽太くんも可哀そうに……」
母は、智子の話を聞きながら同情するように頷いていた。
「あの、昔から言いますよね、狐か何かに憑りつかれたって」
口元を痙攣させるようにひくひくとさせながら、田中夫人はそう言った。
「うちの陽太も変なものに憑りつかれてしまったんでしょうか? 土御門さんのお宅では、こういったことにお詳しいでしょう? 教えてください!」
「ごめんなさい。詳しいのは夫の方だから、私には何とも言えないわ」
「お、お願いです! お金ならいくらでも払いますから、何とかしてください!」
どうかうちの陽太を!
田中陽太の母は、土下座せんばかりに頼み込んだ。
翌日、静の父は袴を着て田中家に乗り込んだ。無論、陽太少年を救うためである。
その間、静は「田中陽太さんが助かりますように」「陰陽師であるパパの仕事がうまくいきますように」ということだけを考えていた。その頃夢中になっていたアイドル「ろーりんぐ☆めておず」の曲のダンスの練習をする気にもならなかった。
一時間ほどして、父の軽やかな声の「ただいま」が玄関に響いた。
——もう大丈夫なんだ!
全ては終わった。そう思った。
父の話を聞こうと階段を駆け下りた。廊下を曲がったとき、その先のリビングから父と母の話が漏れ聞こえてきた。
「憑き物はちゃんと祓えた?」
「ああ、もちろん」
「謝礼もちゃんともらってきたでしょうね?」
「あら、こんなにたくさん。よっぽど藁にもすがる思いだったのね、田中さんのところも」
「そりゃそうだろう、大事な一人息子なんだから——それから、呪符は半分だけのものを置いてきたよ。奇行に走ることはもうないだろうが、これから先も憑き物が見せる悪夢に苦しむだろうな。いい気味だ、はははっ」
「ありがとう、それでいいわ。田中陽太は、うちの正二を酷い目に遭わせたんだもの。これぐらいで済んで良かったと思ってほしいぐらいだわ」
直後、母のあざ笑う声が聞こえた。




