静と楓花 街中にて
第3章、7話。
静が遭遇したもの、それは。
「……うーん、良い空気!」
スタジオを出て数分道なりに行った先の歩道。
青いスニーカーを履いて、静の一歩先を行く楓花は長い両腕を空につきあげながら伸びをした。
「ずっと思ってたけど、ここは本当に緑が多いよね」
楓花が気持ちよさそうに伸びをするのも頷ける。
一年は早いもので、季節はもう8月。セミの声が至るところで弾けている。視界の先には、今が旬の真っ赤に熟れたトマトが実っている畑が広がっていた。
彼女たちが今いる東京都A市は、都の農業推進都市に指定された都内有数の農業地帯だ。そのため近年は市内の数か所で田畑が造営されている。
——同じ東京とは思えないなあ。
「ばんかみ」が普段活動している東京都心部は雑然としたビル街が多く、このような光景は見られない。自然のある生活に関心のある静は、少しだけA市民が羨ましくなった。
目の前で広がる光景に目を細めていると、楓花が突如としてくるりと振り返った。
「東京の緑と土は?」
楽しそうににやにやしながら、右の手のひらを差し出す楓花。
「——おいしい、の贈り物」
同じように左の手のひらを楓花に向ける。二人の指先が触れ合った。今日を迎えるまでに何度も練習してきたポーズだ。
「楽しかったよね~、今日の撮影」
撮影では都内で採れた野菜の魅力をダンスなどで表現したり、楓花が切り出したキャッチコピーとポーズをカメラの前で何度も披露した。
「CM撮影とか初めてだったから、少し緊張したよ」
「そうなの? 余裕でこなしているように見えたけど」
「意外」と言いたそうに目を見開く楓花。
「全然。普通にドキドキしたし、失敗も多かったでしょ」
ステージ上での歌やダンスは何度も体験しているが、CM撮影は静にとって人生初だった。あまり緊張はしない方だが前日から不安もあったし、案の定自分の台詞を噛んだりと反省点ばかりだった。
「楓花はこういうの、慣れてるんだっけ。リテイクもなかったよね」
極度の緊張から二度ほど些細な失敗をした静だったが、楓花は一度のリテイクもなく、何事もさらりとこなしていた。「流石はプロだ」と思わざるを得なかった。
「慣れてるってほどではないよ。何度か経験があるってだけさ」
「そういうの嫌みに聞こえる」
「えー、そんなあ」
「——なんて、冗談だよ」
元々女優志望である楓花は「ばんかみ」に入る前から、ドラマの脇役や企業のCMキャラクターを務めている。元の経験があるからこそ、為せることだったのだろう。
話をしながら歩いているうちに、道はA市の繁華街へとさしかかった。緑の多かった景色から、チェーンのファストフード店や、ゲームセンターが立ち並ぶ都会の景色が見えてくる。
ぐうう、と静の隣から低い唸り声のような音が聞こえる。
「あそこにしようか」
右手の横断歩道を渡った向かいの通りを指さす楓花。そこには、チェーンのドーナツショップがあった。
いいかもね。静がそう言おうとしたとき、左端の曲がり角から影が飛び出してくるのが見えた。
それはものすごい勢いで、静の方に迫ってきた。「危ない」と思う間もなく、右肩に相手の肩がぶつかる。
「——すみません」
背丈は静より少し大きいぐらいか。立ち止まったのは、真夏には合わない黒い長袖シャツを着た若い男性だった。黒々とした髪は、襟足に届きそうなぐらい長く伸びている。
静たちの方に一瞬顔を向けた男性の黒い瞳は光がなく、どこか違うところを見ているかのように動かなかった。
「……うお」
だらしなく開いた口から不明瞭な言葉を漏らした男性は、そのまま静たちが来た道を辿って行った。
「大丈夫かな、あの人」
静が考えていたことを楓花が代弁する。
それに一度頷いたとき、遠ざかってゆく男性の輪郭が二重にぶれた。
「……あっ」
遠ざかる男性の背中の隣、それはいた。
二メートルは超えるだろうか。人間の者に近い頭部も手足持ったそれは、男性の背後に立っていた。全身は男性が着ているシャツの色よりも濃い黒で染められていて、人間のものよりも大きい赤い目をしていた。
——いけない。
気づいたときにはもう遅く、目の前にいた。
赤い目を横に細く引き伸ばすようにして、静に笑いかけている。
ぐじゅぐじゅ。
湿った音を立て、静に向かって伸びた黒い手が頭の中に入ってくる。
「どうしたの?」
突然しゃがみこんだ静に、楓花がそう声をかけたのだが反応はなかった。それどころではなかった。
「あソぶ。あソぶ」
それは、奇妙な抑揚で言葉を発した。
「——やめて」
静の口から漏れた抵抗は無意識だった。
頭の中一杯に、それの顔が映っている。
閉じた目の奥で、それの爛々と光る赤い目が細められた。
「あそぼウ」
「あそぼウ、あそぼウ」
「わたシといっしょにあそぼウ」
「たのしイことしよウ」
頭の中はそれの黒い体色で一面覆われ、声だけが耳の中を聾していた。それは男なのか女なのかまるでわからなかった。
——出ていけ。
身体は固められてしまったかのように、動かない。それでも必死に心の中で言葉を唱え続けていた。
心の中ででも、言葉に出すことは重要だ。入ってきた者たちには伝わる。
「あナたもわたシとあそぼウ」
そんなことをするわけがない。
——出ていけ!
功を成したのか、頭の中を埋め尽くしていた声のボリュームが少しだけ小さくなった。
——私の中から、出て行け!
全ての意識を込めて、言葉を心の中で放つ。本当は使いたくなどなかった。
それは最後まで「あそぼウ、あそぼウ」と言い続けていたが、声は段々と小さくなり、ついには消えていった。
「……か! 静!」
俯いていた顔をあげると、目の前には静に目線を合わせるようにしゃがむ楓花がいた。不安と安堵が混ざった複雑な笑顔を見せている。
「良かった、こっち見た。急にうずくまるから、心配し……おっと」
「——ごめん。重いよね」
楓花の顔を見て安心したからなのか。身体から力が抜け、自然に彼女の胸元に頭を預けてしまう。
「ううん、大丈夫だよ——大変だったね」
あろうことか、楓花はそのまま「よしよし」と言わんばかりに静の頭を撫でた。「流石にやりすぎだよ」と言いたかったが、その気力はない。頭上から注がれる通行人たちの奇異の視線に耐えながら、ただ頭を撫でられるしかできなかった。
「だけど、何があったの?」
こんなことがあった以上、当然の質問だ。
「……今度こそ、おやつ食べながら話そうか」




