櫛川明 違和感
第3章、3話。
民家で見つけた違和感、それは。
「……何だよ」
家鳴りとは違うように聞こえた。ぎしぎし、ともっときしむような音がするだろう。
だがここでそんな音がするはずがない。この家にはオレしかいないのだから。
しかし、オレがいない間に侵入者が入った可能性もある。今は夜間、ならず者が跋扈している可能性は十分にあり得る。かろうじての武器になりそうな折り畳み傘を手に、廊下へ出る。
しんと静寂の音がしそうな廊下は、歩いただけでオレの足音が大きく響いた。侵入者がいたとき、存在に気づかれないように息と足音をひそめて階段を上がる。
二階に人の気配はなかった。階段から向かって突き当たり、窓から外も眺めてみたが、人っ子一人いない。
階段から向かって右手、三つ並んでいる個室のドアも覗いてみる。もし侵入者が息をひそめているとしたら、ここだ。窓際に近い、一番奥の部屋のドアノブに手をかけ、そっと開ける。中にいるやつに襲われることも覚悟して、息を止めながら開ける。
一つ目の部屋にはまっさらな壁と床だけがあって何もなく、誰もいなかった。ロッカーなど、身を隠せそうな場所もない。二つ目の部屋も、三つ目の部屋も同様だった。つまり、当たり前だが二階には音を出す何者かはどこにもいない。
首を傾げながらも、リビングに戻ってくる。作業を始めたときには忘れていたあの不思議な神棚と再び直面した。改めてそれを観察してみると、違和感を感じる。
「……ああ」
違和感に気づいたときには、重いため息が出ていた。
神棚に飾られたお札、しめ縄が上下逆なのだ。そのおかげで、しめ縄についた紙垂はだらりとぶら下がってしまっている。普通ならお札の両端に何かの葉っぱも置かれているはずだが、それもない。
加えて神棚は、通常天井近くの高い箇所に置くはずだ。なぜそれが床に置いてある? もし亡き祖父がこれを見たら「何て罰当たりなことを」と怒ったことだろう。通常は床に置くべきものではないのだ。
冷たいものが背中を走った。見てはいけないものを見た気がしたオレは逃げるよう目をそらした。それまで神棚に向かい合うように椅子に座っていたが、元の椅子から向かって右の椅子に座り直した。
——これは誰が、いつから置いたんだ?
右を向かない限り神棚が見えない席に座り、落ち着こうと深呼吸はしたものの、頭の中はまだ神棚のことを考えていた。
この家は雇用元の社長が中古で買ったものだと戸倉は言っていた。社長のものになる前から、あれは部屋にあり続けたのだろうか? にしては、埃が少ないようにも見える。ならあれは、まだそれほどの時間が。
からん、と床で音がした。使っていなかった細筆がテーブルから床に落ちたのだ。墨のついていた太筆でなくて良かった。一人でに落ちたことは不思議ではあったがそういうこともあるだろう。背中を曲げて、落ちた筆を拾い上げる。
姿勢を戻すとき、ひゅうと首元に冷たい空気が触れたのを感じた。
「……あれ」
右手側、閉まっていたはずのリビングの窓が半分ほど開いていて、夜の闇が見えた。冷たい空気はそこから入り続けている。開けた覚えはもちろんない。
「何でだよ」
ぶつぶつと愚痴りながら、窓を閉める。建付けが悪くなっているのだろうか。何度もこういうことがあるようなら、戸倉に文句の一つぐらい言ってもバチは当たらないだろう。
携帯を開くと、時刻は夜10時近くになっていた。勤務終了までまだまだ時間がある。
大丈夫かとは思うが、この家に監視用の隠しカメラがないとは限らない。どこかで見られていて、オレがサボっていたと思われるのも癪だ。再び作業を始めることにした。
墨と筆で字を書き続けるのは、意外と集中できて時間を忘れられた。気がつけば、終業時刻の早朝5時になっていて、窓の外が白みかけていた。
今回はもう終わりにしようと、書いた半紙をまとめてテーブルに置く。戸倉に渡された鍵を使い、家を出る。不思議と就労後の疲労はなかった。
視線を感じたのは、大通りに出ようと角を曲がったときだ。強い視線が頭上から突き刺さる感覚。
今出てきた民家の一階の窓、中央に人影が立っているのが見えた。髪も顔も真っ黒な人影が。
——は?
その窓は確か変な神棚があったリビングのものだ。オレがいた間は誰もいなかったはずだ。
——まさか、オレが知らないだけで誰かあの家にいたのか?
嫌な想像が一瞬、頭をよぎる。しかしそんなわけはない。あの家に、リビングにオレ以外の気配なんて何もなかった。
結局は見間違いだったのだろう。狐につままれた思いで目を擦った直後には、その窓の向こうには何もいなくなっていた。
長時間字を書き続けていたせいで、目が疲れたんだ。きっとそうだ。
立ち止まっていたオレは、帰りの駅へと向かって足を進めた。長時間の作業が身体には堪えたのか、足取りは行きより重かった。
民家から少し歩くと、社が見えた。どうやら拝殿のようで、名前は知らない神社のようだ。
そこを通ると、大通りを歩くよりショートカットできそうだった。
「……ラッキー」
嬉々として、人影の少ない神社の中に入る。
『夜中に鳥居をくぐってはいかん』
亡き祖父の言葉を思い出したのは、神社を出る鳥居をくぐった後だ。だけど、そんな言いつけはもうどうでも良かった。




