三河島と水上 除霊開始
第1章、13話。
「除霊」を兼ねた最推しの「ライブ」が始まります。
「今日は水上流奈ソロコンサートにお越しいただきありがとうございます! 今日は普段着だけどいいよね?」
「いいでーす! かわいいです!」
「ありがと! その分盛り上げていくからねー!」
マイク代わりなんだろう。水の入ったペットボトルを片手に流奈様のMCが始まる。
気分は一気に切り替わった。気づけば流奈様のメンカラの水色にしたサイリウムを振りながら、「はーい!」とレスポンスをしている。
「あっ、あとちょっとびっくりする演出もあるけど大丈夫かな?」
「大丈夫でーす!」
大丈夫、今なら何をされても問題ない。私は幸せの絶頂にいるのだから。
だけどあの声はまた私の耳元で呪詛を吐き始めた。
「死ね」
「殺してやる」
「お前らが邪魔だ」
ああ、うるさいな。何もこんなときに言わなくったっていいだろうに。
「オッケー! じゃあ、ミュージックスタート!」
流奈様は自分の携帯を軽やかに操作した。
「世界ーっ、行くよっ!」
デビュー曲、「世界、作ってみた」でおなじみの流奈様担当の掛け声は、音響設備などないアパートの一室でもよく響き、白い人指し指の先は私へ向けられていた。他の誰でもない私だけに。きっともうこんな経験、二度とないだろう。
スピーカーモードで大音量にした流奈様の携帯から、ポップなシンセサイザーのイントロが始まる。
ばんかみの代表曲『世界、作ってみた』は、この掛け声から始まる。
「早く作らなきゃ、皆が待ってるんだから……」
暗い部屋の中、サイリウムに照らされた流奈様は私の目の前で歌い続け、全力で踊っている。
軽やかに振付をこなす様は、まるで流水のように美しくて。
「舞い踊れーっ、水のめ・が・み!」
サイリウムを振り回して合いの手を叫ぶ。天井がどんっと叩かれた気がするけど気にしない。
きっともう、二度とない瞬間を見ているんだから。
音楽がぴたりと止まってしまったのは、そのときだった。
「あれ、なんで」
完璧な振り付けで踊っていた流奈様が真顔で動きを止める。
「……ダメだ、全然音楽流れないや」
流奈様は何度も携帯の画面を指でタップしているが固まってしまったらしく、音楽は一向に復活しない。
どんどんどんっ。どんどんっ。
天井から、左右の壁から怒ったような打撃音が連発される。
「すみません!」と流奈様が上を仰いで謝罪する。そのときになってようやく私は思い出した。
「……上、空室です」
「マジですか……」
沈黙が走る中、天井、否最早壁の四方八方から打撃音が聞こえ始める。
どどどどどどどど、どどどどどどどど。
いくら騒音が迷惑だからといって、違う部屋で同時に何回も壁や天井を打てるだろうか? ありえない。
「……邪魔しに来てるんだ」
流奈様がぼつりとつぶやいたときだった。
「うっ……」
全身に石臼を載せられたような感覚が左手を襲った。
「律子さん!?」
力が入らず、カランと虚しい音を立ててサイリウムが床に落ちる音が聞こえたかと思うと、身体はそのまま冷たい床を這った。
大丈夫ですか!
頭上から流奈様の上擦った声が聞こえる。
これは絶対にやばい。「私のことはいいから逃げてください」と言いたかったけど、無理だった。
ずざざざ、ずざざざ。
私の身体から雑音が聞こえてくる感覚があった。
かろうじて顔を上げると、腕から黒いもやが大量ににじみ出てくるところだった。
「やめろやめろやめろ」
雑音なんかじゃなかった。雑音だと思ったのは、黒いもやにひっついている唇の本体が発する低い男の声の呪詛だった。黒いもやは細長い煙のようになり、私の身体から広がって、伸びていく。
流奈様の方に向かって。
「やめろやめろやめろやめろやめろ死んでしまえ死んでしまえ死んで死んで死んで死んで」
いたっ! と流奈様が小さな悲鳴を上げた。
「流奈様!」
ようやく私が発せた声は枯れんばかりの絶叫だった。
黒いもやが流奈様の腕をぎゅうぎゅうと音が出そうなぐらい掴んでいる。
苦痛に歪む推しの顔を見たら、ぷちんと私の中で何かが切れた。
「ふざけるなあっ!」
爆発的な怒りによる火事場の馬鹿力ってやつなんだろう。
全身がかっと熱くなり、何とか立ち上がれた身体を引きずるように流奈様の元へ向かうことができた。
「……そいつ、今剥がします」
両手で流奈様の細い腕を掴んでいる黒いもやを掴んでやる。
だけど、何の感触もなかった。それは実際のもやのように掴むことができず、。
「律子さん、もう大丈夫です、やめてください」
流奈様の手が私の手を剥がした。
「あたしは大丈夫ですから」
そして微かな笑みを向ける。青白い顔のこめかみには、細い髪の毛の集まりが貼り付いていた。
「……ごめんなさい、私のせいで。流奈様がこんな目に」
黒いもやを剥がすとか言っておきながら、私は無力だった。
そして流奈様の笑みは私を安心させようとしているようにしか見えず、心苦しい。
「大丈夫です、そんなこと言わないでください。あたしが始めたことなんですから——それにこれはきっときいてるってことなんだと思います」
「きいてる?」
「効果ありってことです。至近距離で歌を聞いて、苦しくてたまらず出てきたんだと思います」
だから続けましょう。
青ざめた顔をしながらも、流奈様は深く息を吸い込んだ。
「苦しいーこーとも、つらいこーともー……」
歌声が目の前で響く。
伴奏の音楽はない。「世界、作ってみた」の流奈様のソロアカペラバージョン。多分もうここだけでしか聞けない。
「声って振動なんだな」とどうでもいいことを思うぐらい、流奈様の喉から出るクリアな声は、私の心を震わせた。
「きーっと、あーるよー……だーけーど、大丈夫!」
ぐおおおおおお!
獣のような唸り声が部屋全体に響く。
「——あっ」
流奈様の腕を掴んでいた黒いもやがぶるぶると震えたかと思うと、流奈様の腕から離れた。心なしか、もやの黒は薄くなってほぼ灰色になっている気がした。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
それは再び呪詛を吐きながら、私の身体へと戻ってくる。
だけど、不思議と怖くなかった。
——来い。
来るがいい。ただ汚い言葉を吐いてるだけの悪霊なんかに負けない。
——私の推しの方がずっと強いんだ。
「これまでもー、このさーきも」
自由になった流奈様は、再び歌いながら踊り始めている。私の目と鼻の先で。
音楽なしでも振りは完璧だった。当然だ。今は彼女のソロパートなんだから。
「私たちがいるーんだから!」
バレリーナのようにくるりとターンを決める流奈様。ポップな音楽はそこで止まった。一曲が終わったのだ。
——最高。
流奈様はこんな状況でも完璧に歌い切った。誰が見ても完璧なアイドルだ。
「愛してますっ! アンコール!」
叫ばずにはいられなかった。
「ありがとうございます! もう一曲と言いたいところなんですけど……」
流奈様の手の中、透明なボトルがきらりと光る。
滝のような感涙の涙を流しながらも、しっかりと見た。
流奈様の手が、ペットボトルのフタの部分を捻るのが。
「あくりょう、たいさーん!」
ざばあん!
私の上半身に500ミリの水が降りかかった。




