三河島律子 待機
第1章、9話。
まさかの最推しが部屋にくることになった三河島が部屋で遭遇したものとは……。
携帯が鳴ったのは、夕食を食べ始めたときだった。
独特のメロディーとともに着信を告げたLINESの着信画面は、ブルーのテディベアのアイコンとともに「Ryuuna」のユーザー名が表示された。
このぬいぐるみはよく知っている。流奈様お気に入りのアパレルブランドのマスコットのテディベアだ。
「……来た」
携帯のフリップカバーのポケットに入れた紙には、「LINES @ryuuna0928」とだけが書いてある。握手会で突如、流奈様から渡された紙だ。
IDの「0928」という数字は間違いなく流奈様の誕生日を表している。「ばんかみ」公式サイトのプロフィール欄で親の顔よりも見たし、去年は誕生日までお祝いした。
あのときの流奈様の様子は尋常じゃなかった。切羽詰まった様子に思わず紙を受け取ってしまい、家に帰ってからLINESのIDを登録してしまったほど。
問題はなぜ私がこれを渡されたのかということである。だが、今はそんなことを考えている暇はなさそうだ。震える指で「応答」を押す。
「……は、はい」
『あっ、良かった! こんばんは、水上流奈です~、握手会ではどうもありがとうございました!』
三河島律子さんでお間違いないですか?
「……間違いないです」
一言言うだけでも声が震えた。何度も対面で会って話しているはずなのに。
『良かったです。本題に入る前に質問なんですけど、お住まいとか聞いちゃっていいですか?』
「えっと、どうして私の住んでるところをお知りになりたいんですか?」
『これからあたしが向かうからです』
これからあたしが向かうからです。
流奈様の台詞が、頭の中でリピート再生される。
意味がわからない。
「そ、そそ、それは、流奈様が私の部屋に来ようとしているってことで合ってますか!?」
『合ってます』
——そんなこと合ってていいのか!?
何も言葉が出ず、口をパクパクさせるしかない。
『安心してください、悪用とかはしないので』
「別にそういうことは気にしちゃいないですけど……」
『そこは気にしてほしいですけどね』
どうしてだ? どうして推しが私の部屋に来なくちゃいけないんだ?
『律子さん、次の話題に移ってもいいですか? こんな言い方したらあれですけど、一刻を争うので』
「あ、はい」
『めちゃくちゃ辛辣なことも言いますけど、許してくださいね。握手会に来てくれたとき、変なもの連れてきてたんですけど気づいてました?』
「変なもの?」
『笑ったりしないで聞いてほしいんですけど、真っ黒くて得体の知れないものが全身についてました』
「……え?」
流奈様が何の話をしているのかさっぱりわからなかった。
『律子さんの目には見えないですか?』
「えっと、あの、それって幽霊みたいなものってことですか?」
『端的に言えばそうです』
「……その、何にも見えないです。すみません」
『わかりました、別に律子さんが謝ることじゃないです。ほかに何か異変はないですか?』
「異変、ですか」
『誰もいないところから声が聞こえてくるとか、風邪を引いたみたいに具合が悪いとか』
「そんな急に言われても」と言いそうになったときだった。
「……あっ」
昨日のバイトの帰り道。誰もいないところからした男の声は何?
『その感じだと思い当たることがあるんですね?』
何かを察した流奈様の硬い声が聞こえてきた。こんな声、イベントでもラジオでも聞いたことがない。
『爆速でそっちに向かいます。住所、教えてください』
「えっ、そんなちょっと……」
『時間がないんです、お願いします!』
「わ、わかりました。ええっと、東京都……」
有無を言わさない流奈様の声に、私は住まいを言わざるを得なかった。
『……了解です、二十時までにそっちに行きます。今いる部屋から動かないでくださいね? 絶対ですよ』
早口でまくしたてられたあと、無料通話は切れた。こちらからかけ直しても返答はない。
本当にこっちに移動しているってことだろうか?
「……ちょっと、やばいじゃん」
携帯の時刻表示が十九時二分に変わった。流奈様が示した二十時まであと一時間もない。
狭い部屋の奥を見る。北欧家具店で買ったラック一面にはうちわ、ブロマイド入りのフォトフレーム、ぬいぐるみ、ポスター、アクリルスタンドその他もろもろ。その全てが水上流奈の顔もしくは本人を模したものだ。推しのグッズを集めて飾っている通称「神棚」。
——バレるじゃん、全部。
顔から血の気が引いていく感覚とともに、そのまま倒れそうになる。これを流奈様本人に見られたら私は社会的に死ぬ気がする。
——片付けないと。
のんびりと夕食を食べてる場合じゃない。食べかけの夕食を全て冷蔵庫に入れ、食器を片付ける。大して食べていないけど、あまり食欲はないし問題ないだろう。
夕食代わりに毎日飲み続けているサプリメントを水で飲みほしたとき、神棚の一番上に置いていたフォトフレームがコトリと落ちた。地震なんか起きていないのに。まったく、フレームに傷でもついたらどうしてくれるのか?
悪態をつきながら拾いに行こうとしたのと、神棚のそばのラックに置いていた鏡が視界に入ったのは全くの偶然だ。
朝、メイクをするときに使ったまま片付け忘れていたスタンドミラー。電子タブレットサイズぐらいの鏡に私の顔と、大きな唇が映っている。
「え?」
その唇が誰のものなのかはわからない。血のように真っ赤で大きな唇が、私の右肩の上に浮いている。
唾液のような透明な液体に濡れててらてらと光る唇は、目の前の相手を脅しつけるかのように歪んでいた。
なんでこんなところに唇が。怖い。なのに目を離せない、動けない。
それはゆっくりと口を動かした。
「お前らなんか死んじまえばいい」




