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2/12

 幼い頃、千波は狭い田舎で育った。


 だだっ広い田んぼのせいで冬は風が強く、登下校は本当につらかった。吹きつける風は容赦なく体を貫く。家に着く頃には手はかじかみ、耳は奥の方まで痛くなった。


 見かける店らしい店と言えばガソリンスタンドとコンビニくらい。スーパーマーケットなんかは車でないと行けない。


 当然駅なんてものはなく、バスは千波が小学生の時に廃線になった。


 超高齢地域で子どもの数は少なく、全学年一クラスしかなかった。そしてどのクラスも生徒は三十人前後。


 それでも時々転入生が来るが、なじんだ頃に転校してしまう。


 そんな小さな世界で彼女は、クラスで一番可愛くないとはっきり言われたことがある。見た目は良くないが声はいい、と自負している勘違い野郎に。


 元々自尊心は低かったから、”知ってる”と返した。なんでもないように。


 そして、汚れ役は全て千波の役目だと思われていた。


 ヒーローごっこの敵役、ままごとではお姉さん役になれない、マラソンでのビリ、勉強やスポーツができない。


 なんせ保育園の頃からクラスの顔ぶれが変わらないのだ。そのせいで立ち位置も変わらない。


 しかしある時、千波は突然牙をむいた。


 中学に入学した途端、眠っていた才能が開花したのだ。


 テストでは毎回高得点を叩き出し、真面目な態度で教師からの好感度は高く成績は上々。相変わらず友だちらしい友だちはいなかったが。


 高校に入学したら生活は一変。広い世界に出て様々な人に出会い、自分のことを認めてくれる人がたくさん現れた。そのおかげで自信が少しずつついていった。


 本当に心を許せる友だち────主にカヤとズッキと出会えた。


 中学までいたあの世界は最悪だったのだ。そう気づくまでにだいぶ時間がかかった。


 地元の同級生たちは”中学までの頃が良かった”とぼやいていると、卒業後に何度か聞いた。


 その度にざまあみろ、という感情が浮かび上がった。そう思う辺り、自分はなかなか残酷かもしれない。


 高校卒業後は就職してお金を貯め、会社の近くで一人暮らしをしている。


 こちらはコンビニの数も多いし、本屋もファミレスも大型のモールまである。しかもどれも徒歩圏内だ。


 一人暮らしの家にカヤとズッキを招待し、三人で遊んだりコスプレ関係の製作に励んでいる。


 一つ失敗したことと言えば、同じ地域に会社の人が多く住んでいることだろうか。運よく鉢合わせることはないが、一方的に目撃されているらしい。











 入社したばかりの春に行われた、新入社員歓迎会。


 行きたくなかったが、歳の近い先輩に”新入社員は強制参加! 主役がいないとただの飲み会になっちゃうよ”と言われて同期と参加した。


 所属する部署のほとんどの人間がお局様の元に集結している。


 千波は一人、座敷の隅でジュースをちびちび飲みながら周囲を眺めていた。


 同期たちとは別の部署で、彼らは部署の先輩に誘われて楽しそうに話していた。


 もう帰ってしまおうか。一人でこんな所にいておもしろくない。一人いなくなったところで気づく者はいないだろう。まして入りたての新人など。


 この頃は実家に住んでいて、ここから車で結構距離がある。あまり遅くならない内に帰りたい。


 そう思ってグラスを一気に煽るとテーブルに置き、立ち上がろうとした。


「同期は皆、どっか行っちゃった?」


 岳が突然現れ、千波の隣に腰掛けた。彼は初対面から馴れ馴れしいというか人の間合いにズイッと入ってくる(たち)だった。


 彼はビールが注がれたジョッキを持ち、ほんのり顔が赤くなっていた。酒が回っているのだろう。


 岳はためらいなく千波の真横であぐらをかいた。遠慮がないせいで彼の膝が足にふれた。


「えぇ、はい」


 さりげなく反対側にずれ、横髪を耳にかける。


 岳はジョッキをテーブルに置くと、向こう側にできた輪を指さした。


「君は先輩の所には行かないの?」


「行かないというか行きたくないですね」


「なかなかはっきり言うコだね……。ねね、俺は君とは別の部署のモンだけど俺のこと分かる?」


 岳のことはこうして話す前から知っていた。お局様を始め、部署の女性社員はよく彼のことを話していたから。


 他の男性社員と比べたら小柄な方だが、彼は目立つ存在だ。イエローブラウンの短髪を遊ばせ、林檎と同じ色をした大きな瞳を持っている。


 彼は会社内では常に誰かと一緒だ。一人でいてもすぐに人が横に並ぶ。男性社員と楽しそうに話している姿は、時々中学生のように見えることがある。


 千波が答えるのを彼は待たず、ジョッキを持ち上げた。きっと知られているという自信があるのだろう。


「仕事は慣れた? そっちの部署は特に大変でしょ」


 首をかしげて顔を覗き込まれた。赤い瞳が優しく細められる。


 男の人にこんな風に見つめられたことはない。


 口を開きかけると彼は、”ん?”と口角を上げた。その仕草に心臓がドン、と突き出そうになる。


「慣れたには慣れましたかね……。楽しくはないですけど」


 千波の正直な感想に岳は笑う。つられて、自分の固く引き結んでいた口元が柔らかくなった。


 千波は彼の吞みっぷりに関心するフリをして横顔を盗み見た。この甘い顔の女性人気は言わずもがな。


 だが、彼の好かれるポイントはそれだけではないようだ。こんな自分にも分け隔てなく接してくれる。


「おばさんはねー、しょうがないよ。あの歳まであぁいう性格なんだから今さら矯正できないよ」


 嫌な仕事の話はそこまで、彼は自分たちの名前のことを話題にした。


「俺は岳っていうけど、若名さんの千波と対みたいじゃね? 山と海で」


「そうですかね?」


「そうだよ。だから仲良くしよ」


 岳はニコニコとしていた。千波は反応に困り、上目遣いで彼のことを見上げるだけ。


 なぜフルネームを知っているのか。同じ部署でもないのに、特別関わったことがあるわけでもないのに。


 子どもの頃から男子と親しくしたことがない千波は、これだけで勘違いしそうな自分を戒めた。











「あたしの隣にいて何が面白いんですか? 仲良い人多いんでしょ? そっち行けばいいじゃないですか」


「行かない。お前と一緒にいたいの」


「あんたにお前って呼ばれる筋合いはない」


「じゃあ呼んでもいい仲になろう」


「絶対嫌」


 それからというもの会社での集まりでは必ず、千波の隣には岳が居座るようになった。会に参加したがらない千波を引っ張って。


 それだけで終わらず、普段からよく話しかけられるようになった。


 最初は気を遣ってくれているんだろうと素直に嬉しかった。名前を覚えたのはこのためかもしれない、と。


 だがそれは違った。岳は新入社員のことは誰でもフルネームで覚え、千波に接するのと同じ態度を取る。特に女性社員に。


 なんだコイツ……と心の中で罵ってから気づいてしまった。


 千波に話しかける時は必ず、二人きりの時だけだと。呼び捨てにするのも。


 彼は思わせぶりな言動が多い。


 千波は惑わされそうな自分の頬を叩き、いつも現実に引き戻す。











(この寒い時期に草むしりって……!)


 千波は寒さと怒りで顔をこわばらせ、会社の敷地内の草むしりをしていた。軍手をはめた手が冷たい。手袋と違い風通しがよすぎる。


 十二月の冷たい風は体の芯から熱を奪っていくようだ。と言っても、実家の”富橋(とみはし)で一番強い風”に比べたらまだマシだが。


 今日はパンツスタイルで出勤してよかった。普段はスカートやワンピースで出勤することが多い。他の部署の女性社員がパンツスタイルで出勤している姿がかっこよくて真似してみたのだ。幼い顔立ちと小柄な自分には着られてる感が拭えなかったが。


 そもそもなぜ、千波は草むしりをしているのか。


『若名さん、今日の午前中は草むしりね』


『はい?』


『疑問形の返事をしない』


 例のお局様からの突然の指示。有無を言わせない口調だ。


 自分一人だけで作業かと思いきや。


「いや~。こんな寒い時でも草って生えてんだな」


 岳もいた。彼の場合、部署で事前に説明された上で自分から申し出たらしい。やはりウチの部署はおかしい。他の部署の代表者が散らばって草むしりしているが、千波のように眉間に皺を寄せている者はほとんどいない。


「のんきでいいですね」


 千波はぶすっと口をとがらせていた。


 できるものなら草刈り鎌を部署の窓に向かって投げつけたい。残念ながらこの時期は窓を閉め切っているので自分に返ってきてしまう。


 バイオレンスなことを考えている千波とは対照的に、岳はちぎった草を指先でくるくると転がしていた。


「たまには変わった仕事がしたいじゃん? 」


「あんたがそんなに楽しそうなのが謎です」


「チナと一緒だからな。ラッキーだったよ、まさか来るなんて思わなかったから」


 そんなことを言われると返事につまる。


 岳は特に気にならなかったようだ。ゴミ袋が飛ばされないように、と重石代わりに置いていた草刈り鎌を手に取った。


「チナは中で仕事してる方が良かった?」


「んー……。どっちもどっちですね。中にいればウザいおばさんだらけだし、外は解放感あるけど寒いし」


 ずっとしゃがんでいたせいか腰が痛い。気分を紛らわせようと立ち上がった。腰に手を当て、体を左右にひねる。


「チナ。そのウザいおばさんが中から手を振ってるよ」


「え? ……あぁ。あんたに対してでしょ」


 千波はチラッと建物を見上げたが、岳が言ったものを無視した。ジャケットの裾を引っ張りながら再びしゃがみ込んだ。


 岳は隣で建物に向かって手を振っている。


「……前から思っていたんですけど、なんであんなのと仲良くできるんですか?」


 作業に戻った岳に、千波は顔を向けずに話を振った。


「別に仲良くしてるつもりはないけど……。強いて言うなら相手のいい面しか見ないようにしてるから? あぁいう人だったら特に、ね。どうせ仕事だけの付き合いだし部署違うし? 嫌な所は気にしないようにしてる」


「ふーん……」


「チナはさ、もうちょい人を好きになろうか? お前、信用している友だちはカヤちゃんとズッキちゃんだけじゃね?」


「別にそんなことは。会社の同期のコもまぁ仲いいですよ」


「あの二人ほどじゃないじゃん。人間嫌いになるようなことでもあったの?」


「……いえ、特に」


 過去の地元でのことがよぎったが、打ち消した。岳に話すことではない。話してドン引きされても嫌だから。


(バカみたい……。香椎さんからの反応気にするとか)


 千波は作業のスピードを早めた。頬が熱くなり、心臓がトクンとはねたのをごまかしたい。


 千波の心境などこれっぽっちも気づいていない岳は、草笛をピーと鳴らしている。そんな彼の脇腹に千波は拳を入れた。


「田舎の中学生じゃないんだから……」


「痛! ……くない、ごめんごめん」


 岳は大して反省していない顔色で軍手をはめ直す。


「何話してたっけ……。あ、そうだ」


 ブツブツと一人で話す岳のことを横目で見やると、彼は指をパチンと鳴らした。


「チナ、彼氏いる?」


「いないですけど」


「じゃあ好きな人は?」


「……いません」


 一瞬言い淀んでしまったのを岳は聞き逃さなかったらしい。目をキラン、と光らせた。


「いるのか? いたのか?」


 獲物を狩るような目……ではないが、ワクワクとした表情は”聞くまで逃がさない”と宣言している。


「……いた。香椎さんと違ってすっごくいい男ですけど」


「言ったなお前……。どんなヤツ?」


 千波は獣の視線から逃げるように草を掴んだ。


「なんで教えなきゃいけないんですか」


「いいじゃん、教えろよ」


「……背が高くて優しくて頭良くてアニメが好きなイケメン」


 どういうわけか話していた。もう昔の恋だと割り切っているのだろうか。会わずに三年も過ぎたのに、ズルズルと引きずっている相手のことを。


「ふーん……。チナは身長が高い人が好きなの?」


「特にそういうのはないです。好きになった人がたまたまそうだっただけで」


「何それ何気イケメンセリフじゃん……」


「はぁ……?」


 ”ていうかさ”、と岳は千波との距離をつめて肩を寄せた。突然の出来事に金縛りにあったように動けなくなる。この人のパーソナルスペースは狭いのだろうか。


 岳は雑草が抜かれた土を眺めながら、照れたような表情を浮かべた。


「身長が高い以外は俺に全部当てはまってんじゃん。だから俺と付き合わね?」


「付き合いません。香椎さんは嫌」


「なんだそれ!? 他の男だったら付き合うの!?」


「……さぁ」


「なんで? お前、実は男性社員の間でちょっと人気あるんだぜ? 可愛いのにちょっと無愛想でキツそうな所が」


「エセ情報どうも。あたしそろそろ休憩に行きます」


 千波は軍手を外しながら立ち上がった。後ろで"せっかくのチャンスあっさり捨てんな!"と喚いている岳を置いて。


(付き合おうはさすがに動揺しかけたわ……。やだやだ)


 千波は目を閉じて頭を振った。心が揺らいだことを忘れたくて。





 午後からは中の業務に戻った。


 寒さでかじかんでいた手はいつもの体温に戻り、難なく動くようになってきた。


 指サックをはめた手でパラパラと書類をめくっていた時のこと。


「若名さん、新しい仕事教えるから来てくれる?」


「……はい」


 人の仕事の邪魔を考えないタイミング。千波はため息や舌打ちしそうなのをぐっとこらえた。声をかけてきた三十代の先輩をチラッと見やり、静かに立ち上がる。


 先輩のデスクに来てパソコンを眺めるが、この人は聞き取りにくい早口。せっかく持ってきたメモ帳には、走り書きの読めない文字しか残せなかった。


 ”じゃあやってみて”と椅子に座らされたのはいいが、覚えきれていなくて途中で止まってしまう。


「……もういい。さっきの仕事に戻って」


「……はい。すみません」


 マウスが止まった千波に、先輩はわざとらしい大きなため息をついた。


 謝ったがもちろん返事はなし。千波が離れると、キャスター付きの椅子が荒い音を立てた。


 自分が悪いから無視されるのも仕方ないか。


 千波は悔しさで眉根を寄せ、自分のデスクに戻る。仕返しのつもりでメモを投げ置いたが、弱々しい音しかしなかった。


(教えるのは一回だけ、覚えられないならもうやるなってか……)


 ボールペンとメモを引き出しの中に戻し、先輩の方へ振り向く。


 その隣にはお局様がいて、二人で千波の頭からつま先を往復してコソコソと話している。かすかに聞こえるそれは低い声で、明らかに悪口を言っているトーンだった。


 ”こんなこともできないなんて”と、目元が意地悪く笑んでいた。


 先程の三十代の先輩はお局様に嫌われている。彼女は何人かと仲良くしているようだが、その”何人か”にも疎ましく思われている。


 なぜそんなことを知っているのかと言えば、彼女たちが千波の前で堂々と悪口を言っていたからだ。早口で泣き虫、うまくいかないことがあればすぐ泣き、午後からいなかったこともあったよねー、と。


 そんな関係ばかりだ、この部署は。仲良くしているようで陰では悪口が止まらない。


 それを後輩の前で話すのもどうなのだろう。食堂ではほかの部署の人がいても構わずに悪口合戦だ。


 随分とバカにされたものだ。千波は深く息を吐き、目を伏せた。


 あからさまにあんな風に見られるとさすがに堪える。うつむいていると泣いてしまいそうだ。


(ひどい顔……。鏡で見せたらそんな風に笑ってられないだろうね)


 千波はパソコンの画面に目を向け、あふれてきそうな涙の存在を忘れようとマウスを手にした。






 終業時のごみ捨ては常に千波の担当。先輩やお局様はいつもサッサと帰ってしまう。


「いつもありがとね。お疲れ様です」


「いえ……。お先に失礼します」


 ここの部署で唯一、上司にだけは恵まれた。いつもニコニコとしていて決して怒らず、苛立った様子を見せることもない。


 千波の仕事の取り組み方や、誰もやろうとしない雑用を進んでやることを褒めてくれた。


 彼のおかげで、見ていてくれる人は見ていて認めてくれるのだと、少し救われた。


 ネックと言えば、彼はお局様たちにはあまり強く出られないこと。


 あの人たちさえいなくなればこの部署も良くなるだろうに。あんな面倒な女たちがいて苦労も耐えないだろうに。


 一切言う事を聞かない、完全にナメきっているというわけではないのだが、独断で人の業務内容を変えることがある。お局様たちのせいで千波が混乱したのは二度三度のことではない。今日だってそうだ。


 ”いい方向になるように考えたことだといいけどねぇ…”と、歳の近い先輩はぼやいていた。


「あ~……。疲れた……」


 誰もいないことをいいことにつぶやく。思わず声に出てた、という気もするが。千波は二つのゴミ袋を持ち上げ、廊下に出た。


 身体は何ともないが心は重い。


 あとどれぐらいこの会社にいようか。入社して三年目になったが、そろそろ我慢の限界が来そうだ。というかあんな人たちに囲まれてよく耐えられるものだと、自分でも感心する。感覚が麻痺しているのかもしれない。


「チナ?」


 なんでこんな時に。千波はけだるげに振り向いたが、相手は疲れが一気に吹き飛んだような笑顔をパァッと浮かべた。


「あ、やっぱり~。仕事終わりにチナに会えるとか最高かよ」


 岳だった。なんでこんな時に現れるのか。


 ただでさえ泣きたい時に。


「……意味分かんないこと言ってないでサッサと帰ったらどうですか。はいお疲れ様でしたー」


 千波は顔を背け、スタスタと歩いていく。


「ちょっ、おい。つれないな……」


 岳は千波に走り寄り、その手から大きなごみ袋を奪い取って彼女の横に並んだ。反対側の手にはビジネスバッグ。彼も帰るところなのだろう。


 結局、ゴミは岳と一緒に捨てた。


「ありがとうございます。頼んでないですけど」


「最後に可愛くないなー!? そこは先輩優しい~とか言えよ」


「そんなことあたしが言うと思います?」


「……思わない」


 ふざけた調子の岳に冷ややかな声を放つ。


 自分のバッグを取りに戻った千波を岳は待っていた。建物を出て駐車場まで二人で歩いた。


 千波の頭の中では昼間のことがぐるぐると回っていて、岳と話す余裕はなかった。


「……チナ」


 歩きながら名前を呼ばれた。返事をする代わりに顔を向けると、彼はいつもと違う瞳で見下ろしていた。


 悲哀、とまではいかないが痛みをたたえた瞳。


「大丈夫だった?」


「……何がですか?」


「中に戻ってから先輩にいじめられたんだろ」


「いじめられてはないですけど……。なんで香椎さんが知ってるんですか?」


 今まさに考えていたことをなぜこの男が。思わず不審なものを見る目つきになる。


 岳はその視線に思いっきり手と頭を振った。


「違う違う違う! 様子見てたとかじゃない! 防犯カメラの映像見に行ったとかじゃない! 偶然知っただけだから!」


「防犯カメラ……」


 千波の会社の各部署に設置されている防犯カメラ。


 噂によるとそれは、社長が録画したものを時々見ているらしく、いじめ発覚に役立っているとかなんとか。本来は不正や違反行為の監視のためのものだが。


 その明るい性格で誰からも好かれる岳は、社長とも気軽に話す間柄らしく、”社長のスパイ”と呼ばれることもある。


「見に行ったんですね?」


「うっ……。はい」


 千波のジト目に負けた岳はあっさりとうなずいた。


 彼女はため息をつく気にもなれず、視線を落とした。


 そんな彼女を気にしてか、岳は声だけは明るく話した。


「お前んとこの部署、教えるの嫌いな先輩多いからなー。よく泣かずに頑張ってるよ、チナは。他のコなんて会社で泣いたこと何回もあるからな」


「……うん」


 少しだけ心が暖かくなった。だが、素直にお礼を言えないのは千波らしい。


 彼女は肩にかけたバッグを持ち直し、毛先をいじる。


 ふと、その手を握られて岳に引き寄せられた。


「な゛っ……!?」


「泣いていいよ、今なら。俺しかいないから」


 ささやかれて目頭が熱くなる。その声が、握った手が優しい。


 涙がじわじわとたまってきて唇をかんだら、岳に背中に腕を回され────


「香椎さんの前で泣くと思います?」


 今ので涙が引っ込んだ千波は、岳を突き放すとバッグを身体の前で抱きしめた。


「全く……」


 岳は首をすくめ、スーツの襟を直した。


「ていうか前から思ってたんですけど、香椎さんってスーツ着ても制服着てるみたいですよね。本当に二個上ですか?」


「なんだよその話の流れ……。まぁいいけど。チナはスーツ似合いそうだな。大人っぽくて。今日のも珍しいけどかわいいよ」


「老け顔ですから」


「またそういうこと言って……。チナは自分が嫌いなの? もっと大事にして自信持てよ」


 岳の言葉に何も言えなくなる。


 子どもの頃から刷り込まれた周りの評価のせいで自分に自信が持てなかった。


 千波はバッグを持つ手にギュッと力を入れ、岳に向かって頭を下げた。


「……お先に失礼します!」


「おう。お疲れ」


 投げやりに言い捨て愛車へ逃げ込むと、ハンドルに力なくもたれかかった。


「……バカみたい」


 心が岳に揺らぎつつあることに。


 岳の言動に胸をときめかせたことに


 一緒にごみ捨てをしてくれ、千波のことを心配し、手を握って抱きしめられそうになったこと。


 表には出さないようにしていたが、本当は嬉しかった。お局様たちに対する優越感もあった。


(バカだ……。なんで────)


 突然スマホの通知音が鳴るまで、千波はハンドルの上でうなだれていた。

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