19.手当て(1)
茜たちは、跡をつけていた女を追って角を曲がった。
「こっちの方って、屋敷に帰るには回り道じゃあねえか。」
志麻は、相手に聞こえぬように小声で茜にささやく。
「たしかに、そうね。中央の通りを歩いたほうが屋敷に近いし、治安もいいわよね。」
女が進む道は裏道で、人通りは中央の通りに比べるとかなり少ない。
茜たちは尾行に気づかれないように、慎重に女の跡をつけて、角をいくつか曲がると、小さな橋が見えてきた。
女は角を曲がった途端に、橋の方へ駆けて行った。
(あっ!)
茜は尾行が気づかれたのかと思い、女の方へ走って追いかけようとしたが、志麻がそれを止めて、角から隠れて橋の方を見るように言った。
志麻に言われたとおり、そっちを見やると、橋の前に、五、六歳ぐらいの男の子が一人立っていた。
女はその子のもとへ行くと、子供から何かを聞いて、急ぐように橋の先にあった一軒の家に入って行った。
(何かあったのかしら?)
茜と志麻も、橋の前にいる男の子の方へ行こうとしたら、逆にその子がこちらの方へ駆けてきた。しかし、子供は茜たちに用はないようで、そのまま通り過ぎようとしていた。
「おい、坊主。そんなに慌ててどうした?」
志麻にそう呼び止められた子供は、茜たちの方を振り返ると、目に涙を浮かべていた。
「ぶっ、奉行者の人、呼ばないと...、母さんが!」
子供はそう言うと、目をごしごし手でこすり、涙をはらった。子供の着物から見える腕には、所々、少し紫色に変色した痣が見えた。
「お母さんは、今、どこに?」
茜は子供の目線までしゃがみ込むと、子供を落ち着かせるように、背中を優しく撫でながら尋ねた。
「あっち!!」
子供は涙を必死に堪えながら、先ほど尾行していた女が入った、橋の先にある家を指差した。
(あそこは、さっき、薫子さんが入った家...。どういうこと?)
「坊主、運が良かったな。」
志麻は、そう言って、子供の頭をぽんぽんと撫でた。
「お母さんは、俺が必ず助けてやる。茜、その子のこと、頼むな。」
茜は志麻の言葉にうなずくと、志麻は、子供が指差した家へ駆けて行った。
子供は訳が分からず、ぽかんとしていた。
「きっと大丈夫。あの人、奉行所の人で、ここらでは1番強くて、頼りになる人だから。」
茜は優しく微笑むと、手拭いを取り出し、子供の目元を優しく拭いた。
(志麻さん、お願いしますよ)
志麻が家の前まで来ると、戸は閉まっているが、中から怒号を浴びせる男の声と、器か何かが割れる音が聞こえる。外には、急いで外したのであろう暖簾が無造作に置かれている。
(騒ぎをおこしている相手の男は、おそらく一人...。行けるな)
志麻はそう算段をつけると、修復から戻ってきたばかりの自分の愛刀を手で確認し、戸を勢いよく開けて中へ踏み込んだ。
すると、そこには、男が何か熱い液体が入った器を持ち上げて、それを、地面に転倒している、先程の子供の母親と思われる女にかけようとしていた。そして、茜たちが跡を追っていた女、薫子はその女を男から庇うように、女に覆い被さっていた。
「おい!」
志麻は、事態の深刻さを瞬時に察して、湯気がたっているものをかけようとした男を突き飛ばし、取り押さえた。器は、男の手から地面へすべり落ち、中身をぶちまけながら誰もいない方へ転がっていった。
「いってぇな、お前、誰だよ!勝手に入ってきて。ここは俺の家だぞ!」
志麻に取り押さえられた男は唸るように言うと、志麻を睨みつけた。
「俺は奉行所として、殺人を止めたまでだ。」
「“殺人”?笑わせやがる。あれは、出来損ないの女に躾をしてやったんだ。」
男は、にやりと笑った。女はそれを見て、ひいっと体を震わせた。
「あんなに熱いものをかけようとしたんだぞ。何が“しつけ”だ。あんなの浴びたら、死ぬぞ。」
男が持ち上げていた熱い液体が入った器は地面に転がっており、中身が溢れた地面からは、もくもくと湯気が上がっていた。熱い液体は、においからしておそらく、うどんか蕎麦の汁だろう。
「どこの誰だか知らないお前にどうこう言われる筋合いはない。俺の女だ。俺が好き勝手にして何が悪い?」
男に悪びれる様子はなく、取り押さえている志麻をはね除けようと体をもぞもぞと動かし始めた。
「...あぁ、そうか。」
ぐさり。
もぞもぞ動いていた男の動きは一瞬にして止まった。男がゆっくり顔を横に向けると、そこには一本の刀が地面に刺さっていた。
志麻が、男の顔の横ぎりぎりを狙って、刀を地面にぶっ刺したのだった。
「ごちゃごちゃと喚くな。もう一度、分かりやすく言ってやるが、お前を殺人未遂でしょっ引くって言ってんだよ。」
志麻の怒気の孕んだ声に、男はたらりと冷や汗をかいた。
「さっ、殺人未遂?冗談だろ?俺はただ、あいつに躾を、」
志麻は、そう言いかけた男の胸元をつかみ、引っ張り起こした。
「それが、度が行き過ぎだって言ってんだよ!あの痣や包帯を見ろ。それに、お前、自分の女房だけでなく、息子にも手を出してるだろ!」
志麻がそう怒鳴ると、男はびくっと肩を揺らした。
女には、顔にさっき殴られたと思われる新しい痣が見受けられ、腕や足には痛々しく包帯が巻かれていた。
「っつ...、あれはあの糞餓鬼が悪くて...、でもよ、俺たちは愛しあった仲なんだ。あいつには俺がいないと駄目なんだよ。なぁ、そうだろ?」
男は女の方を見て、穏やかな口調でそう問いかけた。
女は恐怖で声が上手く出せないのか、ただ嗚咽をもらした。女のそばにいる薫子は、女を男から守るように、男を睨みつけていた。
「ほら、な?嫌だと、言ってないだろ。だいたい、そこの女も、急に来て何だよ。また、手当てして、薬代やら包帯代をせびりに来たのか?」
(こいつ、全く反省してないな。それに、本当にあの奥さんが、今までの暴力を許したならば、捕縛したところですぐに解放されて意味はねぇ。)
男と離れない限り、暴力は永遠に続くだろう。最悪の場合、命を落とす可能性もある。
志麻が、この状況をどうするかと頭を巡らせていると、男をずっと睨みつけていた薫子が口を開いた。
「私は、薬や包帯などのお金は一銭も受け取っておりません。それに、あなたの奥さまは嫌だと言っていませんが、反対に今までのあなたの言動を“許している”とも言ってはいません。ただ、あなたに対する恐怖で震えて何も言えないだけです。」
「許す?許さない?俺たちはそんなのわざわざ言わなくても、分かるんだよ。」
男は、薫子を馬鹿にするように、ははっと笑う。
「何が”分かってる“ですか?奥さまは、息子さんにまでひどい暴力を振るうようになったあなたとの関係を断ち切りたいと思っているのですよ?大事な子供を守るために。あなたも、何回かそのお話を聞いてらっしゃいますよね?」
「いや、俺は...。」
「あなたは、奥さまがその話をする度に暴力で有耶無耶にした。ねぇ、そちらの奉行所の方、この証言だけでは、この男を捕らえることはできませんか?」
薫子は志麻の方を見上げて、言った。
「いやー、正直、第三者の発言だけじゃあ、五分五分だな。暴力を受けた本人からの訴えがないと、罪の立証は難しい。」
男はそれ聞くと、少しほっとしたような顔をした。薫子はそれを見て、悔しげな表情をして俯いた。
その時、顔を下に向けていた女がゆっくりと顔を上げて、志麻の方を見て、震える声を搾り出すように言葉を紡いだ。
「...言います、私、話します、全て。この人から、あの子を守るために。」
そう話し始めた女の声は弱々しかったが、彼女の目には“子供を絶対に守る”という母親の強い意志が宿っていた。




