チョコのあとさき
『小説家になろう Thanks 20th』企画参加作品。
突如、対面に座って来た男に、喜佐子さんは「えっ」と声を上げた。別に不審者が乱入してきたとかそういう話ではない。「どうも」と会釈をするその男を、喜佐子さんは知っていた。
喜佐子さんが挨拶のその先の言葉を待っていると、男は「ア……ア……」とカオナシっぽく呻いた。やっぱり不審者ではあるかもしれない。
「……店、混んできたから」
ようやく絞り出された第一声に「はい」と頷く。本当に言いたいのは「で?」である。
「知り合い同士、席、詰めた方がいいかなって」
「はあ」としか言えない喜佐子さんである。
理屈はわかる。昼は定食屋、夜は居酒屋として営業する、初老の女将さんが一人でやっている小さな店だ。その割に客の入りは良いので、座れる席は多くあった方がいい。四人掛けのボックス席を喜佐子さん一人で独占するより、圧倒的に正しい。
正しいが、そういった窮屈さは喜佐子さんの苦手とするところである。できればお断りしたかったが、追い返そうにも他の席はもう埋まってしまっていたので、「おもしろいお喋りなどできかねますが」と言って受け入れた。男も「はい」と承諾の返事をして、実際、男が先にお会計をすると席を立つまで言葉を交わすことはなかった。もちろん、喜佐子さんのぶんまで男が払ってくれることもなかった。
それ以来、同じ店で、同じように混み始めると、同じようにその男が席を詰めてくるようになった。こうなるともう慣れたもので、お互いに「どうも」と言い合えばそれで同席が相成った。
――あんたたち、付き合ってるって噂になってるよ。
職場でそんな話を聞いたのは、軽い会話もするようになった頃だった。
*
あの男――いや、シャーロック・ホームズでもあるまいし、いつまでも「あの男」呼ばわりするのも喜佐子さん的には失礼だと思うので、そろそろ「尾国」という名で呼ぼう。
尾国は、喜佐子さんと同じ商社に勤めている。部署は違えど同期の桜、目の前で「ア……ア……」と呻かれても、初手で通報しない程度には見知った相手である。なお、下の名前は憶えていない。職場しか接点がなく、しかも部署の違う人間なんてそんなもんだろうと開き直る程度には、喜佐子さんは人付き合いが苦手だ。
ましてや、男女交際など。
「何でそんなことに」
「居酒屋で、同じテーブルで飲んでたら、そりゃそうなるよ」
それは誤解であると、そうなるまでの経緯を喜佐子さんは説明した。
「ふーん。で、どうすんの」
「どうすんの、とは」
「付き合うのか、付き合わないのか」
「……?」
「オイオイオイなにトボけた顔してんだ」
給湯室でお茶してる場合じゃねえとばかりに立ち上がった同僚に檄を飛ばされた喜佐子さんは、「あーうー」などと言っている間に「そういやもうじきバレンタインデーじゃんちょうどいいそこでケリをつけろ」と話を転がされ、バレンタインチョコレートを用意することになってしまった。
「なぜに?」
喜佐子さんは困惑した。付き合わないということになったらチョコレートが無駄になってしまうと思った。
「付き合わないなら、義理チョコにしてくれてやったらいい」
「そんなんなら自分で食べたい」
「その気持ちはわからんでもないけど。でもさ、尾国だって、がんばったじゃん。ゆっくりすぎるけど、あんたの迷惑になんないように距離つめてきてさ。その勇気には報いてやるべきだとは思わんかね」
付き合わないのなら、せめて、その旨と共にチョコレートで。要は「ただ断るだけよりかは印象がマシ」という、双方のダメージコントロールの意図を多分に含んだ、きわめて政治的なチョコである。喜佐子さんに政治はわからぬ。
*
方針は決まった。金はかけない。
予算が決まらない。そもそも高いチョコって何円からを指すのだろう。五百円くらいかな。五百円かあ。高いな。誰かにくれてやるくらいなら、それで居酒屋の料理を一品増やして自分の腹に納めたい喜佐子さんである。
チョコを作る。そう決め(させられ)はしたが、そのチョコをどう使うかはまだ何も決まっていない。チロルチョコを用意したところで、残念賞としてあげるならそれで充分だろうが、そうじゃない場合、チロルチョコではパンチが弱すぎる。何より「チロルチョコしか用意できない女」のレッテルを得るのはつらい。きっと、実家に帰省したとき実の母から「レンチンしかできない女」呼ばわりされたときくらいつらいだろう。ちくしょう、自分だってだいぶレトルトにお世話になったズボラーキングなのに家庭菜園を始めた途端に調子づきやがって。手作りがそんなに偉いのか。
いや、待て、なるほどそうか!
こういうときのために手作りがあるのだ!
わたしは「ていねいなくらし」に手を染めるぞ!
喜佐子さんは膝を打った。カスッ、と不発だったのが不満で、手をちょっと上にずらして今度は太ももを打った。ペチン。おお私の太もも、結構いい音出すじゃあないか。夢中になってペチンペチンと叩くうちに、スパンキングでもされたんかと思うほど赤くなった。なにやってんだ。
*
チョコレートを作っていることはもちろん尾国には秘密にしているが、尾国には会わねばならない。最終的に何チョコになるのかを吟味する必要があるし、何より尾国の行動を制限する権限が喜佐子さんにはない。よって、尾国は今日も居酒屋で席をつめてきた。
……尾国は噂のことをどう思っているのだろうか。
席を共にしているにも関わらず口数が少ないのは――これはお互い様だが――いつものことではある。でも、それにしたって、何か一言あっていいのではなかろうか。いっちょ噛みしないと爪痕も残せんぞ、尾国!
喜佐子さんの神通力が効いたのか、尾国は、喜佐子さんの目、ではなく、手元を見て「おやっ」と口に出して言った。
「飲まないんですか」
「……そっくりそのままお返しします」
尾国は、いつもお酒を飲まない。一品料理をだらだら食べながら、会社から持ち帰ったのであろう書類の添削をしている。「時間外はするな」という暗黙のお達しを愚直に守っているのだ、この男は。
喜佐子さんが「尾国はわたしに気があるのでは?」という発想に至らなかった理由もここにある。尾国は、書類を広げられるスペースを確保したくて、いつ・誰からの領土侵犯を受けるかわからないカウンターから喜佐子さんの席に移ってくるのだと解釈していた。
「でも、小山井さんいつも飲んでるから」
今更だが、小山井とは喜佐子さんの苗字である。喜佐子さん本人は、フルネームだと六文字も書かねばならないことにうんざりしている。
それはそうと、尾国の追及は「飲みたくないときもあるんですよ」と白々しい嘘でかわした。飲みたくない、どころでなく、飲むわけにはいかない。喜佐子さんにはこのあとにお勤めがあるのだった。それは、尾国のような持ち帰り残業などではなく……。
*
尾国を見送り、居酒屋の最後の客になるまで残っていた喜佐子さん。女将と目配せをし、営業中の札を引っくり返し、のれんを回収して店内に戻ると、女将に向かって頭を下げた。
「センセイ、よろしくお願いします」
喜佐子さんは、自宅でチョコレートを作ることを諦めた。どうせ料理はしないからと放置していた電熱ヒーター周りが、だいぶ悲惨なことになっていたからだ。掃除をすれば何とかなるだろうが、何かを始める前の掃除は悪手だ。掃除しただけで満足して、本当にするはずだったことには手を着けないまま終わる。喜佐子さんには未来が見えるのである。
「じゃあ、まずは湯煎からかね」
「ゆせん?」
人は、己の理解を超えた言葉に出会うと、本当に首を傾げて復唱するのだと喜佐子さんは知った。それを女将は信じられないものを見るような目で見ていた。喜佐子さんは「さっきのはちょっとかわいかったんじゃないか?」と思う自分を湯の中に沈めてしまいたくなった。恥じらいながらも「親指を立てた腕の形のチョコをお湯に沈めてみるのは楽しいのではないかしら」とどうでもいいことを考える喜佐子さんなのだった。
さて、亀の甲より年の功、類稀なる忍耐力でインストラクションを施した女将は、喜佐子さんが初めて作り上げたチョコレートをして、しみじみと「子どもが作ったチョコレートだねえ」と評した。それは、型抜きを使ったにも関わらず、何だかジャギジャギしていた。
喜佐子さんはそれがどうにも満足できなかった。喜佐子さんは気づいていないが、この時点で、チョコの用途は「ただの義理」からはだいぶ離れていると言っても過言ではなきにしもあらず。
「大人っぽくできないかなあ」
その発想がすでに子どものそれ。
「大人といえば……お酒か」
連想がもうオヤジのそれ。
「そういえば、尾国が酔ったところ見たことないなあ」
「まあそもそもお酒を注文することが珍しいからね」
喜佐子さんは兎も角、女将が言うならそうなのだろう。何のために居酒屋に来ているのだろうか。喜佐子さんにとって度し難い暴挙である。と、思っていることを女将に伝えれば「いやちゃんとお行儀よくお金払ってくれてるから別に構いやしないよ」と窘められるのだが、心の中で思っているだけなので無罪である。思想信条の自由は守られた。
――よし、酔わそう。
その思想は是非とも声に出して女将から「ハラスメントだ馬鹿野郎」とどつかれていてほしかった。人によって酒が苦手だったり健康上の理由で控えていたりすることもあるから、騙し討ちのように酔わせるのはやめようね。
喜佐子さんはチョコレートに入れるためのお酒を掌の上でポチポチ検索した。あまりのヒット数に途中でめんどくさくなって「焼酎甲類は何にでも合う」という情報の上辺だけを掬って試したところ「ぐええ」と呻くことになるのは別の話。ボトルで買ってしまったじゃあないか。
*
オフィスレディには群れでランチをする習性がある。これは自己防衛の一環であり、職場のデスクでお弁当なぞを食べていようものなら、昼休憩をぶち壊す無礼者がかけてくる電話をとらねばならないからで、それから逃れるためのランチ外出も群れで大移動すれば止められる者はいないだろうという目論見がある。水牛とかそういうのに似ている。
一方、喜佐子さんはひとりメシ派である。人付き合いが苦手なので、他人の様子を窺いながら食事するストレスと、もしかしたら鳴るかもしれない電話のリスクを天秤にかけて、後者に賭けることを選ぶ勝負師なのだ。狼に似ている、と言いたいところだが、狼だって群れるのが普通の生き物なので、ただのぼっち狼である。
そんなぼっちの喜佐子さん、今日はなんとランチのお誘いがあった。尾国ではない。彼と同じ部署の、後輩何某からである。正直、受けるかどうかかなり迷った喜佐子さん。日頃付き合いがないので人となりがわからないし、何より、社会的立場として喜佐子さんの方が上なのでもしかして会計を持たなければいけないのかと、恐れた。それでもお誘いに乗った理由はひとつ。「尾国さんのことで」と切り出されたからには、知らぬ顔をしているわけにはいかなかった。
「小山井さんは、尾国さんと同期なんですよね」
特に答えに迷うような質問ではなかったので、喜佐子さんは「そうですね」と述べた。
「尾国さん、優しいですよね」
それは喜佐子さんの知ったことではないので「どうでしょう」と答えた。後輩何某子ちゃんは、いったい何の用なのだろう。
「尾国さんって誰にでも優しいんですよ。だから、勘違いしちゃいますよね」
あっ。思わず、そんな声が出そうになった。何某子ちゃん、尾国に気があるんだ!
喜佐子さんは、自分の身にふりかかっていることにようやく気付いた。この女、鞘当てをしにきているのだ。いや、もはや肩パンである。いやいや、リュックサックを正面に構えて突進してきたようなものだ。
「わたしも、よく助けてもらうんです。なかなか手をつけられなくて、締切ギリギリになっちゃった提出書類の手直しをしてもらったりして」
ああ、この子か。尾国に、居酒屋で書類を添削させているのは。
――自分の仕事じゃなかったんだ。
「小山井さんもそんなことあったんでしょう?」
ねえよ。
「でも、わたしは、勘違いしてもいいと思ってるんです」
「……というと?」
何某子ちゃんは、白けたような溜息をつくと、
「わたし、尾国さんに告白します」
だから手を出すなと、言外ではっきり伝えてきた。それを読み取れないほど、部外者のつもりではない喜佐子さんであった。
*
仕事終わりに居酒屋にも寄らず、まっすぐ帰宅した喜佐子さんは、冷蔵庫を開いてろくに買い置きがないことを確認すると、夕飯をどうするかうだうだ考え、すぐに考えるのをやめて、ただ、呼吸をするだけの存在と化した。
喜佐子さんは母親のことをぼんやり思った。学校の宿題で自分の名前の由来を訊ねたとき「あんた、人を喜んで助けられる人になるんだよ」と言っていた。幼い喜佐子さんは「そんなの当然じゃん」と高をくくっていたが、だいぶ考えが甘かった。
「それっていいように使われるってことじゃないか?」
そんな疑念が大きくなったのは、新入社員の頃、飲み会で「酒に強いやつ」だと目を付けられ、泥酔した者の介抱を任されたとき。そして遂には「人との付き合いを減らせば助けなくてもよくなる」境地に達した。否、堕ちた。
だから尾国を受け入れつつあったのだ。
居酒屋に持ち込んでいるのが彼自身の仕事でないことは何となく気付いていた。だいたい、自分の仕事なら他人が見てわかるように丁寧に添削するものか。
他人に頼られ、助けている様を、同じテーブルで見せる尾国に、喜佐子さんは「わたしだけはコイツを助けてやろうじゃないか」と優越感を抱き、自尊心を保っていた。尾国が「たすけてくれ」と言ってきたら、それは「アイラブユー」だと理解する準備まであった。
――本当にそうか?
尾国がたすけてくれと言ってきたら、それを担保に、見返りにわたしを助けさせようとしていたのではないか?
何某子、あれは尾国の傍にいてはいけない女だ。
でも、わたしよりはマシかもしれない。
見渡せば、何かに使えるんじゃないかと捨てないでいる紙袋、貰うだけ貰って消費が追いつかずたまっていくポケットティッシュ、気が付けば読むことすら忘れて平積みしている本、エトセトラ、アンドモア、ウィズミー。
わたしは自分のことすらきちんとできていないではないか。
一歩譲れる、それも勇気ではないのか。
まったく片づけられない部屋の中心で、もはやどこが中心かもわからない部屋の中心で、無用なモノと一緒になって喜佐子さんは咽び泣いた。
いいかげんお腹が空いてきた。ぼんやりして頭が回らない。
なにか食べるものないかな。そうだ、ちょうど糖分があるじゃないか。
「でゅわーっ!」
奇声を上げながら、喜佐子さんは作っておいたチョコを湯煎に沈めた。そして焼酎をボトルからだぼだぼと注いだ。焼酎のホットチョコレート割りのできあがり。
度数は、ド高い。
*
尾国が居酒屋で「今日は小山井さん来ないかな」などと思いながら後輩が作成した資料の誤字脱字に赤ペンを入れていると、その喜佐子さんがやってきた。ただし、バーン!と扉を開け放つような勢いで。
まばらな客が啞然とする中、のっしのっしと店内を歩く喜佐子さん。尾国の姿を視認すると、ぐるんと首を動かした。ゴジラの如し。
そのまま尾国の真向かいに座り、彼の手元に目を落とす。そこにあるのは、添削中の書類である。
「おいカオナシ」
「は、はい? あ、僕ですか」
「欲しがる女で満足するな、アホ!」
ゴジラが咆えた。ゲ……熱線を吐く様子はないので、まだ蒲田ぐらいだと思われる。
やりたい放題の喜佐子さんだが、対して、尾国は冷静だった。
――ああ、久々に“成った”か。
実は喜佐子さん、お酒に強いことは間違いなく、ある一定の量まではまったく酔っていないように見えるのだが、その一線を超えると豹変するのである。その事実を知っているのは、飲まないせいで同じく最後まで介抱する側に回っていた、尾国だけであった。少なくとも、会社の中では。
さて、尾国を一喝した喜佐子さんは徐に立ち上がり、そのまま店を出て行こうとする。尾国は女将と目配せし、女将から「勘定は後日でいいから今はヤツを野放しにするな」という意図の頷きを受け取って、怪獣対策班として出動した。
ちょっと出遅れただけだというのに、喜佐子さんはすでに電柱にしがみついていた。これはとんでもない戦いになりそうだぞ――腹を括った尾国である。
「どうした! 抱きしめ返してみろ!」
電柱に腕はない。
とりあえずひっぺがそうと試みる尾国だが、ヒールで蹴ってくるのでなかなかうまくいかない。酔うなら凶器を履かないでほしい。業を煮やした尾国が、身を守るために蹴り出された脚をぴしゃりと叩くと、喜佐子さんは「うぐぅ」と呻いた。なんだこれ、弱点か?
スカートが捲れ、露わになっている脚を見れば、尾国が偶然にも叩いてしまった場所は、何故か強くぶたれたように赤くなっていた。これは自宅を飛び出す前の喜佐子さんが「うぃーうぃるろっきゅー!」などと歌いながら自分をドラムにして叩いた跡なのだが、そんなこと知る由もない尾国は「僕にこんな力が……?」と慄いていた。そうはならんやろ。
「尾国ィ! たすけてって言えェ!」
「たすけてください」
とりま、この状況から。
*
ところで尾国は困っていた。
今の状況も充分困っているが、それとは別に懸念があった。
仕事のできない後輩がそろそろ告白してきそうなので、それの穏便な断り方や断った後のことを考えると気が重かったのだ。ここまで散々お人好しとして描写してきたが、仕事で迷惑をかけられている相手とプライベートなお付き合いにまで発展するのは普通に嫌なのである。人間ってそういうもんだよ。
しかしその懸念は、きれいに消えてなくなった。
尾国がいつも通っているという居酒屋を聞きつけ、覚悟を決めてやってきた何某子ちゃん。店の前でなんか酔っ払いが騒いでるなぁいやだなぁと足を止めて遠巻きに見ていると、なんと尾国さんと小山井喜佐子さんではないか。
何をしているのかよくわからないが、尾国さんは小山井さんの足をぴしゃりと叩いており、外灯に照らされた小山井さんの足は、激しくスパンキングされたように腫れている。加えて、何やら「たすけて」という声まで聞こえてくるではないか。
「け、ケーサツ」
警察沙汰、が脳裏を過ぎったが、よくよく聞けば「たすけて」と言っているのは尾国の方だし、喜佐子さんとの関係を勘繰る噂が流れたとき、それを知った尾国が「ああ、まあ、いいよ」と何か煮え切らなかったのを何某子ちゃんは憶えている。あれは、優しい人だから、だと思っていたのだが。
あれは、好きでやっているのだ。
「……なるほどですね」
それはそうと、あんなゴタゴタに巻き込まれるのは御免なので、連中にこちらの気配を気取られる前に、何某子ちゃんはフェードアウトすることにした。捨て台詞は「ああはなりたくないな」であった。
翌日、何もかも忘れて自宅で目覚めた喜佐子さんが「チョコレートはどこへ消えた?」と題して謎に挑むことになるのは、また別のお話。
「あっ、焼酎もない」
答えはすべてあなたの(腹の)中に。
*
後日談。
休日、喜佐子さんがふらりと立ち寄った蕎麦屋に、偶然、尾国がいた。奥の座敷席にひとり正座している。まあわざわざ声をかけることもないかな、と喜佐子さんが離れたテーブル席に座ると、間もなくどやどやと家族連れがご入店。尾国は店の人を呼び止めると、こう言った。
「あの、僕、別の席に移りましょうか」
まーたやってるよと呆れる喜佐子さん。店員は「は?」とその意図を汲めず、尾国は「ご家族にはお座敷に座ってもらってもらった方が……」とばつが悪そうに説明する。
「ああ、そんなの気にしなくていいっすよ。ていうか、そういうの店の方でやるんで」
店員の対応は実にさっぱりしたものだった。
「お兄さん、なんか、生き辛い性格してるっすね」
勇気を出して申し出た客に、なんと無礼な店員であることか。しかし、言われた尾国はへにゃっと笑っているし、盗み聞きしていた喜佐子さんも内心「そのとおりだ!」と得心し、太ももをペチンと打った。知らないうちにいつの間にか腫れていた場所が、じん、と痛んだ。