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「旅のアイドルが来た」

 そこは酒場だった。どこからどう見ても場末の酒場であるし、断じて子供のアソビ声が聞こえてくるような場ではない。だというのに……


「みーなさーん! 皆のアイドル『リコリス』があなたの村にやってきました」


 どこからどう見てもまだおとなとは言えない少女が酒場の片隅で歌っていた。なんだこの酒場は……


「私は~旅の中で~」


 歌い出した……聞き心地の良い歌なのだが、どこの歌かは分からない。俺がエールを一杯飲みきるあいだに一曲歌いきって笑顔を振りまいていた。


「みなさま~! 先ほどの歌がよかったと思った方は心付けを……」


 そこで声が小さくなるのか……むしろ歌より代金の回収で強気になるべきだろう。金をもらうときは強気に出ないと損をするのは世の常だ。


「素敵な歌をどうもありがとう」


 俺は銀貨を一枚彼女の置いている箱の中に入れた。歌が良いのか悪いのかは俺には分からない。ただ一所懸命歌っている姿には心を打たれるものがあった。


「あああ……ありがとうございます!」


 その声に釣られた数人が遅れて銅貨を何枚か入れていた。俺は迷わず酒に向き直った。この少女もそれなりに苦労しているのだろう。今の世の中苦労していない人の方が少ない。


「火酒を一杯くれ」


 俺は世知辛いものを見るのに耐えきれずきつめの酒を頼んだ。あの少女にはこういう酒に溺れるような人間にはなって欲しくないものだ。俺みたいな人間は俺だけで十分だ……


「あ……あの!」


 そちらを見るとさっき見た顔が俺の前にある。酒のせいで誰だか判断がつかない。


「ありがとうございます! また明日もここで歌うのでよければ来てくださいね!」


 そう言って離れていく人影を目で追いながら、俺はふらつきつつ宿に戻った。


「ヴォエ……頭痛い」


 回復魔法を使えばなんとかなるのだろうが、自分の金で飲んだ酒で起きた頭痛を魔法で直すのは何か違う気がする。そういえば昨日の子、最後に俺に話しかけてたな……


 よし! 迎え酒といくか!


 酒には酒で対抗する、昨日は濃い酒を飲んで酔ったので薄い酒を飲めば体の中の酒が薄まるはずだ。医学的な見地にはまったく理解がないのだがそんな気がするので酒場に向かった。


「ちわーす、エール一杯頼みまーす」


 俺がそう言いながら酒場に入ると今日は昨日の少女が箱に乗って歌っていた。


「おはよー! 皆のアイドル、リコリスです! 名前だけでも覚えてくださいね!」


 今日は昨日より元気そうで安心した。そして足元に目をやると気になるものがころがっていた。


「酒瓶」


 小さい瓶だが、エール用の酒瓶が床に転がっている。これは……


「マスター……あの子に飲ませたの?」


 酒場のマスターは気まずそうに答える。


「えぇ……あなたが気持ちよさそうに飲んでいるのを見て一杯だけ飲みたいと言ったので渡したんですが……小瓶なら大丈夫と思ったんです」


 たぶんリコリスと名乗る女の子にエールは決して良い影響をもたらさないだろう。そうは思うのだが実際彼女の前に置いてある箱には銀貨が十枚くらいに、銅貨もいくらか入っていた。それを見るに確かに今日はエールを飲むのが正解の日だったのだろう。


「エールだ」


 目の前に置かれた一杯をグイッと飲み干す。体の中の酒が薄まるような気分で少し意識がはっきりしたような気がする。安い酒だが自分の金で飲むなら安い方が良いに決まっている。


「ら~らら~」


 歌声の聞こえる酒場というのも新鮮な気がする。心地よい歌で頭がぼんやりとしていく。


「お客さん、今日は良い肴が入っているんですがいかがかな?」


「ああ、もらいます」


 呆けた頭でそう答える。思考がもうすでに上手く回っていない。


 目の前には大きな肉塊が置かれている。躊躇う事無くそれを切って口へ運ぶと油が溢れて口の中にうまみが染み渡る。うん、コレはいいものだな。


 一切れ食べてからエールをあおるとまるで楽園に送られたような気分になってくる。不思議な感覚だ、いつものエールとただの肉なのに美味しいような気がしてくる。


「みんな! ありがと~! では次の曲いきまーす!」


 曲の合間に少しだけ酔いが覚めた。周囲には数個のジョッキが置いてある。こんなに飲んだっけな?


「私の~運命の~ひ~とは~」


 次の曲が始まった。リコリスの元にはまた幾らかの小銭が投げ込まれる。気持ちよさそうに歌っている少女とのんびり飲んでいるのは気持ちが良い。不思議と酒場自体が平穏な空気に包まれている。心なしか酒も美味いような気がする。


 この歌を聴いていると不思議と心地よくなってくる。この店の酒はあまり美味しくないものだったはずだし、酔えるという理由だけで安いこの店を選んだが、気のせいだろうか美味しいような気さえする。少なくとも肴はともかく酒の方は酔わせる事に特化した味は度外視の酒だったような気がするのだがまさか味までこだわったのだろうか? この店は奇跡のようなバランスだ。


「マスター、酒を変えたのか?」


 この店の酒は品質がよくなかったはずだが……ここまで心地よく酔えた事はない。


「いやあ、嬢ちゃんのおかげだな……」


 そう言ってリコリスの方に目をやった。よくは分からないが、確かにあの歌を聴いていると不思議と気分が落ち着いてくる。この酒場でつきものの喧嘩も起こっていない。


 やはり酒というのは良い環境で飲みたいものだ。敢えて気になる事と言えばリコリスという少女の元に金がどんどんと注ぎ込まれている事だろうか。平和な酒場というのも少し奇妙に思えるが、よくよく考えてみるとバーサーカーみたいな連中がたむろしている場など入りたがるのは物好きか同類だけだろう。心を落ち着けて飲むというのもいいものだ。


「マスター、なんで彼女を雇ったんだ? ここにはそぐわないだろう?」


 ふと疑問に思った事を聞いてみた。酒場は少女の来るような場所ではない。もっとも、少女の元に数本の酒瓶が開いている時点で彼女も同類だという可能性はあるが。


「いやあ、場所を用意してくれたら治安をよくしてくれるって言うもんでなあ……」


「……? 彼女は何か精神干渉でも出来るのか?」


 そう聞くとマスターは俺に近寄って耳打ちをした。


「彼女、先祖にセイレーンの血が入っているらしくってな……俺も半信半疑だったんだがこの様子だと本当なんだろうな……」


 なるほど、セイレーンなら歌で人を惑わす事も出来るだろう。酒場においておくには無駄に力の入った人材だとは思うがな。


 良い感じに視界がぼんやりしてきたので会計する事にした。


「会計を頼む」


「銀貨八枚だ」


「はぁ? そんなに飲んでないだろう?」


 いくら相手が酔っぱらいでもふっかけるにもほどがある。精々銀貨三枚くらいしか飲んでいないはずだ。


「お前さんに出した肴にしていた肉が銀貨五枚だ。確かに食べたのくらいは覚えているだろう?」


「……商売上手め……」


 バンと銀貨を八枚カウンターに置いて酒場を出た。彼女が受け入れられている理由はなんとなく分かった。アレなら確かに酒場の売り上げにも貢献できるな……


 そして俺は部屋でぐったりと寝転んで意識を落とした翌日にはリコリスは酒場を離れたそうだ。噂話だが『人を惑わす歌を歌ってぼったくりメニューを頼ませた』と文句を言われているのを聞いて少し気の毒に思う程度の情が俺に会った事に驚いたものだった。

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