ティーダのファルス気持ちよすぎだろ~削除されることによって伝説になるという仕組みについて~
消したら増えるんだよな。
題材がすでに不適切かもしれないけれど、ニコニコ動画で『おとわっか』という動画が爆発的に流行った。
内容としては、往年の名曲をブレンドして、ファイナルファンタジー10のワッカというキャラクターにフィーチャーしたものだ。
つまり、ワッカというキャラクター及びファイナルファンタジー10に対する二次創作的な側面も有している。
その中で、ワッカというキャラは同性愛的な属性を持つ者と解釈されていて、同作のティーダとカップリングになっている(ワッカ→ティーダであり、ティーダはノンケかもしれんが)という構図だ。
そして、魔法少女まどかマギカのオープニングである「コネクト」の音源にのって、ワッカが歌うのが
『ティーダのチ〇ポ気持ちよすぎだろ』というセリフなわけである。
〇をつけたのは、高度に政治的な配慮なので赦してほしい。わたし、幼女作家にも限界はあるんだ。
これは世のお姉さま方が好きなBLとは性質が異なり、ニコニコ動画内でも根強い人気を誇る『淫夢動画』のカテゴリに入るだろう。
淫夢動画とは、説明が難しいが、いわゆるホモビデオをネタにした一連の作品群のことである。
そのコミュニティの中では、いくつかの原典(ホモビ等)が参照され、いくつかの言葉が符丁のように飛び交っている。
「胸にかけて胸に」「いいよこいよ」「おまえのことが好きだったんだよ」これらのセリフを聞いたことがないだろうか。無理に見ろとは言わないので、そういう文化がニコニコ動画では根強く続いてきたということを頭の片隅にでも置いておいてもらえればいい。
ところで、いわゆる昔からオタクと呼ばれている人種は、言葉のサイン化が大大大好きな人種たちである。
日本のアニメやマンガなどに浸ったオタクたちは、それらの文化がハイコンテクストなものであることから、言葉をサイン化してしまうのだ。
例えば、二次創作の界隈では、ジョジョネタや、少し前なら(今もか?)鬼滅の刃の〇〇の呼吸とか、そういうのが流行っていた。
そして、ここなろうも二次創作の延長線上にあるのはまちがいない。書籍化するためには都合が悪い面があるので、少しは抑えられているものの、ここでもある種の符丁がとびかっている。よく考えれば『悪役令嬢』なるものも、おそらくなろう内で発生した比較的新しい概念であり、序盤にさらりと説明されているが、なろう内の符丁としての意味合いが強くないだろうか。つまり、なろうを読むということは、少なくとも日本の文化に相当程度触れていなければ理解できない部分もあるということだ。オタク的教養が必要なのである。
そして、その閉じられたコミュニティにおいて符丁が飛び交うというのは、ツーといえばカーということであるから、コミュニティ内の他者の距離は近づく。
要するに、ヌクモリティを感じる(死語くせえな……これ)。一般的な用語に直すと、仲間意識が強くなるということである。
画一化され、無個性化され、チューニングされたコミュニティ。それが淫夢動画に拘らず、オタク的なコミュニティの特徴であるといえる。彼等の創作物に対する態度は、したがって、デチューニングされることをひどく嫌う。純文学や詩などにおける異化効果、本来不快なモノに対する耐性が低いからだ。
少し話が逸れたので、おとわっかの話に戻る。
そんなわけで、おとわっかは淫夢動画の系譜であるという事実の確認がとれたと思う。では、なぜ淫夢動画が流行ったのか。
まず、この世の中の大多数の人間は異性愛者であるということである。
そこで、淫夢動画をおもしろがっている層はおそらく解剖学的な男が多いと思われる。
ホモビを見るというのは、異性愛者にとっては『緊張』を強いられる行為であることは想像に難くない。
他者に逢うということを想像すればよい。
知らない人と逢うとき、緊張を強いられる。
同じ人間どうしという広いくくりは同一だけれども。
例えば、初めて白人を見たときの日本人の反応をイメージする。
カルト宗教の一員と相対したときの自分をイメージする。
彼等が自分と異なる属性を多く持っていれば持っているほど、緊張感は高まるだろう。
異性愛者である彼等は、ゲイ=ホモを恐れているのである。
簡単にひとことで済ませるなら異性愛者達はホモフォビアなのである。
ではそれをネタ化するとはなにか?
不安という感情は、未知であることから生ずる。他者も未知であり、異なる属性を持っているものは未知である。未知なるものとは、曖昧なもの、不確定なものである。そして当然の理として、不安な状態は不安定であるから除去したい。安心したいと考える。不安の根源が未知にあるのであるから、未知なもの‐曖昧なもの‐不確定なものを確定したい。
ネタにするというのは、未知なるものを確定するということである。名づけ、定義づけすることである。
先に述べたように、淫夢動画においては異性愛者がその構成員であり、そのほとんど全員がホモフォビア的な性質を持っている。その中で、ゲイ=ホモという本来は未知なるもののイメージが、異性愛者の男の間で共有される。そして大量の符丁を創り出すことで、コミュニティの団結力を高める。
なんとなれば、この構図というのはホモビに映し出されたゲイ=ホモをイケニエとして差し出し、異性愛者男性間のホモソーシャルを創り出すものなのである。
少し言葉がズレるかもしれないが、未開の部族に遭遇した我ら異性愛部族が、やつらはとるに足らないものであるというふうに笑った。よくよく見れば、彼等は数も少ないし、異性愛者が脅かされることはないだろうというふうに確信を持った。緊張が弛緩した。だから笑ったのである。
こうしてみると、淫夢動画はゲイへの差別だという指摘はもっともなことであるし、昨今のLGBTやグローバルスタンダードな人権意識からすれば、否定されるべきものであろう。
ただし、人類皆兄弟であるという意識は、全体性への幻想を抱かせるという意味では非常に魅力的である反面、そこから零れ落ちる者たちにとっては地獄である。定義において人類皆兄弟であるがゆえに人類に定義されない者は人間ではないとなるからである。
もっと卑近な話をすると、例えば、誰かの悪口を言い合うことで連帯感が生まれるというのは、誰しも体感しやすいことだろう。そこで悪口自体を完全に封じたらどうなるか。仲間であった他者が未知なるものに逆戻りする。主体は不安な状態のままということになる。悪口や嘲笑など、不快の共有において連帯感を得るというシステム自体が棄却されるべきなのかという話である。しかし、それを棄却するというのは、非常に困難であろう。人間を棄てろというのに等しいから。
その点を語るには、また別項を設けるとして、いまはおとわっかの話に戻りたい。
精神分析においては、たびたびファルスという概念がでてくる。意味としては(シンボリックな)ペニスのことである。なので、『ティーダのチ〇ポ気持ちよすぎだろ』というセリフを『ティーダのファルス気持ちよすぎだろ』と言い換えてもさほど問題あるまい。
ファルスというのが何かを語る前にもうひとつ重要な概念を導入する必要がある。それは『去勢』である。人間は成長過程において母子一体の全能感をあきらめる必要が生じてくる。母子一体のすべてが叶う神さまのような状態から、父親が現れることで母子一体から切り離されてしまう。それを精神分析の文脈において去勢と表現する。ファルスは去勢された証として、去勢痕として、そこに屹立されるものである。透明なおちんちんである。
したがって、ファルスとは、対象の不在をあらわしている。
人はファルスを求める。というのも去勢されたゆえに、人は神ではなくなったからだ。万能感を強制的に棄てさせられ、人間として生み落とされてしまった。言葉を得て象徴界に参入したなんて言い方もする。言葉というのは、他者から与えられたものである。言葉が勝手に自分の中から湧いたわけではない。必ず誰かによってインストールされたものだ。だから、言葉を覚えるということは、他者を自己の中に組み入れることでもある。煩悩に感染することである。
ところで、このファルスだが『無い』のである。去勢されて無くなってしまった万能感なのだから当然だ。したがって、人間の欲望は無いものを求めるということになる。
そこで、ファルスを追い求めていくわけだが、ファルスが魔王的な立ち位置だとしたら、四天王として対象аという概念がある。対象aの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組であるといわれている。
このあたりになってくると、ちょっとムズカシイって感じもするけど、対象аっていうのは、本当に欲しいのは美少女魔王様なんだけど、魔王様に辿り着く前にとりあえず四天王を口説き落としていくみたいなイメージかな。
なので、対象аというのは、まがいものである。
本当に求めているものではない。その代償として人がどうしても求めてしまうものである。
ここでようやく、タイトルの『削除されることによって伝説になるという仕組みについて』語ることができる。もともと、おとわっかについては、スクエニからの削除申し立てで削除されてしまったのであるが、そのときニコニコの代表がおとわっかのことだとは明言こそしないものの、おそらくそうであろうことをほのめかしながら『伝説になったんだよ』と発言したらしいです。
わたしは、ここで「対象аじゃん」と、ストロングゼロをぐびびっと飲みながら考えました。
対象а、失われてしまったファルスの代償物。
わかりにくいなら、愛でもいいです。愛と呼んでおけばだいたいわかるから。
おとわっかが削除されてしまったことで、視聴者は『ティーダのファルス』を失ったのです。
そこで、視聴者は対象аを求めます。ファルスの代替物としてのソレを。
伝説というのは、決してそれが手に入らないことを知りつつ、また見たいと思うことでしょう。
そこにあった体験や、コミュニティの暖かさを含めて、もう一度手に入れたいと思うでしょう。
しかし、対象аとは欠如そのもので構成されている。
したがって、絶対に正解が手に入らないものなのです。
視聴者は失われたティーダのファルスを求めて、それに類似した動画が次々と作られていきます。
オリジナルをそっくりコピーした動画も投稿されます。
これらはすべて対象аを求める視聴者の欲望によるものです。
わたしがこれらの現象を俯瞰するに、そういえば似たことがあったと思い出します。
キリスト教です。
キリスト教において、イエスキリストは最終的に処刑されました。
処刑され、失われたことによって、キリスト教が爆発的に広がることになりました。
聖書はキリストというファルスを対象にした、同人誌であることにお気づきでしょうか?
マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ。あといろいろ。
彼等が、失われたファルスを求めて代替物として対象аを求めた結果が聖書です。
であるならば、おとわっかは、キリストと同じく削除されて伝説になったと言えるのではないでしょうか。
あ、言い忘れてましたけど、これ全部ネタです。




