9話 愛人の期限
王城の端、あまり人気のない庭で、ユリアーネは本を真剣に読み込んでいた。中庭は人通りが多くて、読書には落ち着かないと思ったからだ。
アマーリエとコルネリウスが嵐のように来た日から、既に数日。その日の出来事が嘘だったみたいに、平穏な日々を送っている。
とは言っても、あまり人と会う機会がないのもある。リーヴェス自身が思ったよりも忙しそう、という事も原因の1つだろう。
それよりも、リーヴェスが愛人の噂が広がるタイミングを見計らっているような気がしている。
現に。
(見られている……)
ユリアーネは座っているベンチの背後から、ビシビシと視線を感じていた。後ろに付き従っているイルゼとパウラのものではない。
中庭に行ったら、さらに人の目が多いだろうと思ったが――、ここもそう変わりはないようだった。
(……王妃様は遠方の王女様とは聞いていたけれど、ヴァイス様のお母様の第一側室様は元侯爵令嬢、リーヴェス様のお母様である第三側室様は元子爵令嬢だったのね)
手元の分厚い本――貴族名鑑には、リーヴェスの話していた内容を補填するかのように情報が詰まっていた。
コルネリウスとアマーリエには既に会ってしまっているが、他の貴族に会う前に事前情報を知るのと知らないのとでは、大きな違いがある。
(というか、アマーリエ様の侯爵家ってかなり長い歴史があるのね……。国内の有力貴族の一つ……)
明らかにリーヴェスの母親の身分が低いから、後ろ盾としての侯爵家なのだろう。ユリアーネという愛人を作ると、本当に腑抜けた王子という立場である。
本人はその立場に敢えてなっているが。
考え込んでいたユリアーネは、近くに人が来た事に気付かなかった。無意識に寄っていた眉間の皺を人差し指でつつかれる。
「やあ、随分と熱心だね」
「リーヴェス様!」
いつの間にかすぐ傍にいたリーヴェスに、ユリアーネは目を丸くする。堅苦しい政は無いのだろう。随分とリラックスした格好だ。
「険しい顔をしているけれど、覚えるのは大変?」
「そうですね……。すごくややこしい所もありますが、でも頑張って覚えます」
「勤勉だね」
とリーヴェスはニコリと柔らかく微笑んだ。ユリアーネも釣られて微笑む。
「リーヴェス様の役に立つためですから」
リーヴェスはその微笑みを見て、目をパチクリとさせた。次の瞬間には元の調子に戻って、ユリアーネの隣に座る。そして、ユリアーネが開いていた貴族名鑑の一部をトントンと人差し指で指さした。
「武官か文官かどうかも一緒に関連させると、勢力的には覚えやすくはあるかもね?」
「関連?……なるほど」
「でも、こんなのどこの国の王侯貴族も似たようなものなんじゃないかな?」
更に険しい顔になるユリアーネに、リーヴェスは更に顔を近付けた。声を潜める。
「そうでしょう?」
紅色の瞳を細めて、リーヴェスは口元に笑みを刷いた。ユリアーネは訝しげな表情を浮かべる。
(え……?今のどういう意味……?私の正体に気付いてる?いや、そんなまさか)
内心やや動揺しつつ、ユリアーネは貴族名鑑に視線を落とす。
「どこの国の王侯貴族も泥沼なんですね……」
リーヴェスはユリアーネの返答に、やや意味深気にニコリと笑みで返事をした。
「さて、お勉強はこのくらいにして……」
リーヴェスはユリアーネの手から本を取る。彼女は小さく声を上げたが、特に取り返したりはしなかった。リーヴェスは本をベンチに置き、ユリアーネを抱き寄せる。
背中にしっかりと手が回って、リーヴェスの胸に顔を埋める格好になったユリアーネは、やや居心地悪そうに身動ぎをした。その動きを、リーヴェスは悪い方向に捉えたようだった。
「……俺とこういう事をするのは嫌?」
すぐ近くで聞こえた小さな声は、ほんの少しだけ掠れていた。それが今まで見せていたリーヴェスの姿とは違うようで。
(少し、弱っている……?)
ユリアーネは腕の中で、瞳を瞬かせた。表情は見えない。あくまで声の調子だけ。だから、ユリアーネの想像かもしれない。
「こういう事に、慣れていないだけ、です」
おずおずとリーヴェスの背中に腕を回す。気を抜くように、リーヴェスが笑ったのを感じた。
「なら良かったよ。みんなに見られているからね。突き飛ばされたりしたら、どうしようかと」
「もー、しょうがないじゃないですか……。今までこんな事したことなかったんですから……」
リーヴェスの腕の中で、ユリアーネは口をとがらせた。
「まあ、嫌って言われても……、俺が手離せないかもしれない」
(また、そんな事を言って……)
ユリアーネの頬にリーヴェスの手がかかる。
(お金で買った私に、裏切らない人間である私に、)
キスしようとしているのだと分かり、ユリアーネは埋めていた胸から離れて上を向いた。ユリアーネの紫色の瞳が複雑そうに少し揺れる。
(この人はいつまで――、)
近付いてくる気配を感じて、ゆっくりと瞳を閉じる。陽の光で浮かび上がった影が、重なった。
(愛人をさせるのだろう?)
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「やっぱり、手馴れていると思うのよね……」
色とりどりの花々が咲き誇る中、ユリアーネは深々と溜め息をついた。中庭に設置されたテーブルに頬杖をついて、出されている茶菓子に手を付けようともしない彼女の様子に、傍にいたイルゼとパウラはお互いに目を合わせる。
「リーヴェス殿下の事ですかっ?」
元気よく、ユリアーネの言葉にパウラは踏み込んだ。
「ええ……。女性の扱いに慣れていらっしゃるみたいで……」
「そこまではないと思うのですが……」
イルゼは不思議そうに首を傾げる。
「そうです!リーヴェス殿下は今まで、浮いたお話は無かったんですよ!だから、最初は愛人様を迎えられると聞いて驚きました」
パウラの言葉にイルゼも同調するように頷く。ユリアーネは半信半疑、といったように口元に手を当てた。
「そう、なの?」
その時、複数人がこちらに向かって足音が聞こえて、ユリアーネと侍女達は自然と口を噤んだ。人の気配はずっとしていたが、接触は初めてになる。餌になった甲斐があるというものだ。
程なくして姿を現したのは、長身で黒髪の美丈夫。伴を2人付けている。武官らしく腰に剣を佩いていた。
彼の方はユリアーネ達に驚いたようだった。あまり表情は動かさずに紅色の瞳を僅かに見開く。
「そうか……。貴女がリーヴェス兄上の愛人殿か……」
(リーヴェス様の事を〝兄上〟と呼ぶなんて、コルネリウス様の他にはもう1人、この人は……)
ユリアーネはすくっと立ちあがる。そして、ドレスを摘んでお辞儀をした。
「ユリアと申します。お初にお目にかかります。――ヴァイス様」
(第三王子のヴァイス様しかいない)