4話 都合の良い話には裏がある
「……痛いってどういう事?」
「ま、待って?!そんな事より婚約者がいるってどういう事ですか?!」
良からぬ事を考えていると察してか、非常に爽やかな笑みを浮かべて問うたリーヴェスに、ユリアーネは鬼気迫る勢いで問い返した。
ユリアーネを愛人として買ったのに、婚約者が居ると言ったのか、この男は。
「そうだね」
紅色の瞳を細めて微笑むリーヴェスから、混乱しながらもユリアーネはズルズルとソファーの上で距離を取ろうとする。
ユリアーネの頭の中で、クズだの最低だのというワードが飛び交った。アンゼルムといい王子というのは、こうも女にだらしないのだろうか。
やはり、都合のいい話には裏がある。
ユリアーネは額を手のひらでおさえた。
「こ、このお話、降りる……事は……」
「出来るの?」
ユリアーネは無言で返事をした。借金の2文字が脳裏にチラついている。
「でもこれって、浮気ですよね?」
「まあそうなるね」
リーヴェスはアッサリと頷いた。少しも悪びれる様子などない。ユリアーネの罪悪感を分けたい位だ。
「でもさ、浮気ってどこからが浮気だと思う?」
「うーん、キスをしたら……でしょうか?」
手を繋ぐ位だったら、ダンスでよくある。一々浮気だのなんだの言っていたら、社交界なんて成り立たないだろう。
悩みながら結論を出したユリアーネの頬に手を当てて、リーヴェスは一気に距離を縮めた。掠めるようにして、ユリアーネの唇にリーヴェスのそれが触れる。
何が起こったのか追い付かないユリアーネに、リーヴェスは至近距離で意地の悪い笑みを深くした。
「これで――、浮気になっちゃったね?」
一拍の後にキスをされた、と理解したユリアーネは顔を真っ赤に染めた。口に手を当てて、言葉に詰まる。
(なんで?!なんでキスしたの?!)
言葉が出てこない代わりに、ぐるぐると頭の中では考える。本当はずっと違和感があったのだ。何故、リーヴェスがここまでするのか。
記憶を辿って、ユリアーネは額から手を離した。
先程よりも幾分か冷静だ。理由が分かったから。
「……ここまでしなくても、逃げません」
というか逃げられない、と言った方が正しいのだが。
リーヴェスは少しだけ目を見開いて、純粋な笑みを浮かべる。
「そう?それなら良かった」
少し安堵した様子だったので、どうやらユリアーネの逃亡を心配していたらしい。徹底的に逃げ道を塞がれている気がしていたのは、正しかったのだろう。
性癖とどっちが大変な話かと問われると、悩んで答えが出せない位には厄介な話だった。ド修羅場に自ら突っ込んで行くようなものである。
「キスまでしなくても逃げません……」
「そう?」
「そうです!大体、私はキス自体初めてだったんですよ!」
ユリアーネの言葉に、リーヴェスは不思議そうに目を瞬かせる。
「……君の前の男は、手を出さなかったのかい?」
「前の男……?居ませんよ」
(アンゼルム皇太子殿下は、コンスタンツェ様に夢中だったし……)
ユリアーネは遠い目になった。元婚約者は最早ノーカンのようなものである。
やや驚きの表情を浮かべていたリーヴェスだったが、すぐに気を取り直した。
「へぇ?それは良いことを聞いた」
その直後、リーヴェスはふざけていた雰囲気をパッと無くして、ソファーに座り直す。空気が変わったのを悟ったユリアーネも居住まいを正した。
「俺はね、婚約者と婚約破棄がしたいんだよ」
「婚約破棄……?」
「そう。別に婚約者とは恋愛関係にないよ。元々母親が俺に利があると結んできた婚約だ」
リーヴェスは立ち上がって、近くの棚からペンと紙を取ってくる。そして、書きながら口を開いた。
「このレームリヒト王国には、俺を含めて3人の王子がいる。俺が第一王子。そして、第二王子のコルネリウス、第三王子のヴァイス。全員母親が違うんだ」
さらに、それぞれの名前の傍に母親の身分を書いていく。
「遠くの国の王女だった王妃陛下の子供が、第二王子。俺の母親は身分の低い貴族出身で側室の末席。第三王子の母親も側室の一人だけど、国内の有力貴族だよ。
今は各王子の後ろ盾の貴族が争っている状況」
ユリアーネは眉をひそめる。
(どこの国の貴族も、派閥争いなんてものはあるのね……)
「第一王子だから、優勢という事はないのですか?」
「優勢だよ」
リーヴェスは頷いた。
「レームリヒト王国は長子が王太子になるから、今は俺が王太子だね。王太子という事もあって、文官にも武官にも派閥貴族は多いよ。まあ、長子だからと言って王太子になるのは納得がいかないと考える者たちもいるんだ。特にそういった者や、己の利の為に俺以外の王子の派閥に付く者達もいるし、外戚になりたい者達もいる」
リーヴェスは肩を竦める。
地味に苦労してるんだな、とユリアーネは他人事のように思う。どこの貴族も一部は厄介のようだ。
「第二王子のコルネリウスは、外交官をやっているだけあって、文官の貴族が派閥に多い。そして、第三王子のヴァイスは、軍の役職に就いているから、武官の貴族が派閥に多い」
そこまで聞いて、ユリアーネは首を傾げた。
「それが、婚約者様との婚約破棄にどう関わってくるのですか?」
これだけでは婚約者との婚約破棄ではなく、王位継承権争いである。
「婚約者であるアマーリエ侯爵令嬢の侯爵家は、俺の派閥の一員なのだけれど……、どうやら本人が俺を裏切っているようなんだよね」
「う、裏切り……?!」
不穏なワードにギョッとしたユリアーネとは対照的に、リーヴェスは爽やかに頷いた。
「そうそう!まあ、表面上は上手くやっているけれどね」
(つまり、裏ではかなり仲が悪いって事なのかしら……)
逆によく王太子を裏切れるな、と感心してしまう。
「まあ、俺は品行方正で完璧な王太子で有名だから、婚約破棄の理由が向こうには見つからないんだろう」
自分で言うなと思ったが、話がややこしくなるのでユリアーネはスルーした。
そして、リーヴェスは腕を組んで悪い笑みを浮かべる。手を伸ばして、ユリアーネの髪をひと房掬い上げた。
「だから愛人に現を抜かす」
掬い上げたユリアーネの髪に口付けを落とし、上目遣いで不敵に微笑みながら続けた。
「間抜けな王太子になってみようかなって」
「間抜けな王太子……」
片膝をソファーに乗り上げ、ユリアーネの顎に手をかけて、上を向かせた。
「君は大きな釣り針なんだ。俺を追い落とそうとする奴らを釣ってくれさえすれば良い」
ずっと浮かべていた人当たりの良い笑みはどこにもなかった。ユリアーネはしばし黙った後に。
「……つまり、今は敵と膠着状態だから、私という存在で状況を無理に動かしたい……という事でしょうか……?」
ある程度の情報から、ユリアーネなりに冷静に分析をする。
「話が早くて非常に助かるよ。流石、と言うべきか……」
「え?」
助かるよ、の後に続けられた言葉は小声で、ユリアーネの耳にはよく入ってこなかった。
「アマーリエ嬢の協力者が、中々尻尾を掴ませてくれなくてね。だから、お互い行き詰まっているんだよ」
ユリアーネの顎に手をかけたまま、指の腹で頬を撫でた。まるで、大事な大事な壊れ物を扱うかのように。細められた紅色の瞳が爛々と輝く。
「せっかく君を買ったんだ。しっかり返してもらうよ。――その身体で」
ユリアーネは、ゴクリと喉を鳴らした。
(そうだ。この人は私の事を助けてくれた。お金を貰っているからには、ただの愛人じゃなくて、プロの愛人……)
ユリアーネは両手に拳を作って、意気込んだ。
「分かりました!立派な愛人になれるように頑張りますね!」
「いや、立派な愛人って……」
ふは、と気を抜いたようにリーヴェスは吹き出す。リーヴェスの笑い等気にならない程、ユリアーネはもう1つの問題についても再度決意した。
絶対に賞金首だとバレないようにしなければ。