2話 愛人契約
謹慎中、公爵家の城の隠し通路から脱出した。
全く謹慎も反省もしていない行動ではあるのだが、王族に危害を加えた人間は良くて死罪。悪くて――、口にするのもおぞましい目に遭わされる。
生きる為には逃げる一択である。
途中、賄賂として装飾品を渡し、隣国に密入国出来たはいいものの、身分と本名を隠した身元不詳人を雇ってくれる場所などほとんどない。
だが、運がいいのか悪いのか、城下町の酒場のウエイトレスの職を得て少しは生活が安定した――と思いきや、
今度は同僚の借金の連帯保証人にされていた。
肝心の同僚は逃げた後の話である。
婚約破棄されて逃亡し、逃亡先で借金を背負わされ……、自分の不運さが恐ろしい、とユリアーネは思ったものの、嘆いていても仕方がない。
借金は少しずつ返してはいるのだが、元の額が多すぎて返済が追い付かないとは感じていた。
(でも、職場の酒場まで取り立てが来てしまうなんて……)
酒場は静まり返り、先程まで顔を赤らめて大騒ぎをしていた酔っ払い達も固唾を飲んで見守っている。
ユリアーネは困り顔で、先程とんでもない2択を突き付けてきた男を見た。
星屑を集めたような金髪。紅玉のような瞳。白い肌は手入れがされているのか、シミ一つない。大層目を惹く容姿の男は、余裕そうな表情で椅子に腰掛けている。
場の雰囲気を全て持って行った男に、高利貸しは気分を害したように眉を上げる。そして、男が座っているテーブルを叩いた。大きな音が鳴る。そして、凄んだ。
「まずテメェは誰だよ?いきなり部外者が入ってくンじゃねぇ」
ウエイトレス姿のユリアーネは、お盆を両手で抱えたままオロオロと高利貸しと、派手な容姿の男を見比べる。
「まあまあ、落ち着いてよ」
そんなユリアーネの狼狽は他所に、金髪の優男はゆったりと微笑む。
「君にとっても悪い話じゃないと思うけどなあ」
男はユリアーネを片手で示した。
「彼女が俺の愛人になったら、君は彼女が作った借金を全部回収出来る」
ユリアーネが作った訳では無い。
そんな事情を知らない男は、もう片方の手で高利貸しを示した。
「彼女が俺の話を断ったら、君は当初の予定通りに彼女を娼婦として連れて行くことが出来る」
そして、やや目を細めて、緩い弧を口元に浮かべる。
「ほら、損なんて無いだろう?」
男の有無を言わせぬ気配に、高利貸しは僅かに怯んだ。金髪の男はユリアーネの方へと向き、首を傾げる。
「それで?当事者の君はどうするんだい?その身体を俺一人に明け渡せば、三食昼寝、衣食住付き。報酬として、給金も払うよ」
テーブルに頬杖をついて、男は僅かに身を乗り出す。ユリアーネは戸惑ったように視線をさ迷わせた。お盆を持つ手に力が入る。
「えっ……と。初めて会ったのに、何故私を愛人に……?」
「そうだな……。ちょうど探していたから、と言った方が正しいかな」
やや思案するように、男は一瞬遠い目をした。
ユリアーネは愛人を?と若干ジト目になる。その派手な容姿だと、いくらでも見つかりそうな気はするが。
「それで、肝心の給料だけど、毎月これくらいを考えているよ」
男は、ユリアーネの目の前にヒラリと契約書を見せる。受け取ったユリアーネは恐れ慄いた。
「こ、こんなに……?!」
(酒場のウエイトレスの10倍……!)
契約書を持つ手に少しだけ力が入る。
このままでは、借金は返しきれない。高利貸しが乗り込んできた以上、職場にこれ以上迷惑掛ける訳にもいかない。
(初めて会う人だけれど、この人の提案を呑むのが一番良いのかもしれない――)
「ね?悪い話じゃないだろう?……それに、」
一拍区切って、男はチラリと高利貸しを見た。
「君に返せない借金を作らせた人達よりも、俺の方が信頼出来るんじゃないかな?」
「そう……ですね……」
それ以上に、ユリアーネには大きな利点があった。
逃げ続けなくて済む、というメリットが。
不特定多数が出入りする酒場では、隣国の婚約破棄の出来事を知っている人間がいるかもしれない。そうした環境の中で仕事をするのは、中々に神経をすり減らす事だった。
勿論、バレたら即刻辞めるつもりではいたのだ。だが、次の仕事先が見つかるかは、全くの未知数。
それならば、愛人という立場ではあるものの、生き延びる為には一番確実な手段である。
それが決め手、とばかりに前のめりになったユリアーネに、男は凄く良い笑みを浮かべる。そして、どこから取り出したのかも分からないペンを差し出した。
「そう言ってくれると思っていたよ」
男からペンを受け取ったユリアーネは、サラサラと自身の名前を契約書に書く。
「これは、素直で逆に心配になるな……」
ボソッと呟いた男の言葉を拾えなかったユリアーネ「え?」と一瞬顔を上げる。
そんな声を男はなんでもないよ、と誤魔化した。
書き終わった所で、先程までの話の行方を見守っていた酒場の女将さんが、不安そうな表情でユリアーネに声を掛ける。
「ユリア。見る事しか出来なかったアタシが言うのもなんだけど、そんなに簡単に契約書にサインして良いのかい?」
問いに答えたのはユリアーネではなく、ユリアーネを買った男だった。よくよく考えると、まだこの男は名乗ってすらいない。
「心配しなくていいよ。悪い条件じゃない」
「だけどねえ……」
「まあ、彼女は俺の愛人になる事を決めたわけだし、この酒場の従業員を引き抜く事になるから、君達にもある程度補償はするよ。――まあ、まずはこっちかな」
渋った女将さんに男は懐から小袋を取りだした。見るからに重量のありそうな見た目のそれを、高利貸しに渡す。
「はい。これで彼女の返済は全て終わった訳だ」
高利貸しは受け取ったものの、確認とばかりに袋の金貨を取り出す。ある程度枚数を数えた後に、ちゃんとと額があることを認めたのか、小袋の口をキュッと閉めた。
なんとも言えない、複雑そうな表情で。
「確かに受け取った。――額は合っていたが、兄ちゃんは一体何モンだ?」
高利貸しの疑問には答えず、男はニコリと微笑む。そして、そのまま続けた。
「これで、もう彼女にちょっかいは出す理由は無いだろう?」
高利貸しは一瞬グッと黙って、「フン、分かったよ。これで引いてやる」とヒラヒラと手を振り、注目を浴びながら酒場から出て行った。やっと張り詰めた酒場の空気が緩み出した所で、ユリアーネもホッと肩の力を抜く。
力を抜いたのも束の間、ユリアーネに向けて手が差し出される。その手と男の綺麗な顔を見比べたユリアーネに、彼はニッコリと人当たりの良い笑顔を向けた。
「俺は君をお金で買ったからね。付いて来てもらうよ?」
「は、はい……」
半ばおっかなびっくりしながら、ユリアーネはそろそろと差し出された手に自身のそれを乗せた。
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「それにしても……、どうして街の騎士団に相談しなかったんだい?借金の連帯保証人は、明らかに不正手段だっただろう?」
馬車に揺られながら、男は足を組んで座席にゆったりと座る。対面のユリアーネは固くなりながら膝の上の手を固く握り締めていた。
「え?あ、え……っと、わ、私、貧民街の人間ですし……、相談しても……駄目かな……って」
騎士団に相談出来なかった理由は、ちゃんと別にある。言えないだけで。
ユリアーネの顔に冷や汗がダラダラと流れる。そんな彼女の反応に、男は僅かに眉間に皺を寄せた。
やや紅玉のような瞳が細められる。手元の借用書には法外の利率が記載されていた。
「不正は不正だろう?貧民街だからと言って、この国の法が及ばない訳はないよ」
「そ、そう、そうですよね!」
ユリアーネが何度も首を縦に振ったのと同時に、馬車が止まる。御者が外から到着を知らせた。
エスコートされながら、馬車から降りたユリアーネは唖然とした。馬車に揺られてやって来た屋敷は、思っていたよりも随分と立派だったのである。
「あ、あの、酒場でも、この馬車もそうですけど……、貴方ってもしかしてすごいお金持ちですか……?お貴族様とか……?」
使用人が男を出迎えて、一斉に頭を下げた。酒場のウエイトレス姿のままのユリアーネをジロジロ見る等といった者もいない。よく教育されている。
何より使用人の服装も、かなり上質そうだということが見て分かった。
「貴族では無いけれど……、お金持ちというのは正しいかな?」
屋敷にも使用人がいて、2人を出迎える。圧倒されていたユリアーネに綺麗な顔立ちの男はニコリと微笑んで、続けた。
「そういえば自己紹介がまだだったね。俺はリーヴェス・レームリヒト。このレームリヒト王国の第一王子だよ」
ユリアーネは空いた口が塞がらなかった。返す言葉が見付からないユリアーネの手を男――リーヴェスは取る。
「本当に知らなかったんだね。でも、契約書にはサインをしているんだ。――逃げられないよ?」
手の甲にキスを一つ落としたリーヴェスは、紅玉のような瞳を細めた。
「その身体で払ってもらうからね」
ゴクリ、と緊張からユリアーネは喉を鳴らす。
(どうしよう……!)
その場で頭を抱えたくなった。
(私、隣国の賞金首なのだけれど……っ!)