34.聞こえていたはずの声
「ユウヤ!」
こちらへ駆け寄ってきたのはアイムだ。縋るようにユウヤの服を掴み、目が合って僅かに安堵したかと思うと、素早く視線を移す。
「けが、腕、血……!」
青ざめた顔でユウヤの体をあちこち確認するが、やがて首を傾げた。
「……もう、大丈夫なの?」
「ああ。アイリが治してくれた」
「よかったぁ……」
アイムはユウヤの手を握りしめ、大きく息をつく。随分と忙しく感情を動かすアイムを眺め、改めて助かったのだと実感する。
屋敷から飛び出したその後、攻撃の矛先は一瞬でこちらへと向けられた。
時には速度を緩めて的をずらし、時には跳躍で躱し、時には視界を逆さに回避し、を繰り返し、何とか開かれた障壁の中へ入り込むことができた。抱えていた少女を見やれば、目を回す直前といった様子で、降ろした後は足をふらつかせている。
明らかな疲弊を見てとったユウヤが視線を投げ続けていたことに気が付いたようで、微かな笑顔が浮かべられた。
「ユウヤさん、アイリはだいじょうぶー……」
問題なしとの、しかしぐったりとヒナリに背を預けながらの言葉をもらう。
胃がひっくり返った、と聞こえ、まあその通りだなと言葉通りの動きをしていたユウヤは思った。
そう言えば、既に昼飯を胃に収めていたのだった。一方、全て戻したユウヤは何ともない。その点だけで言えば問題はなかったが、体調はあまり芳しくはなかった。正直なところ、これまで普段通りの動きができていたかどうか、自信はない。
しかし、弱気になってはいられない。今やらなければいけないことは、目の前にあるのだから。
ユウヤは一歩前に進み出る。そのまま深く息を吸い、大きな音として発した。
「ーースズリ!」
攻撃は止んだ。視線が、こちらを刺すように降り注ぐ。
彼女はこちらの言葉を待っているようだった。しかし、いつまでも落ち着いて話が出来るという確証はない。現に、ユウヤは一度彼女を怒らせ、集中的に狙われている。
何があっても対応できるよう、神経を尖らせながら慎重に口を開いた。
「お前が虹ってどういうことだ」
「……あはは、聞こえなーい」
ぱっと笑顔を見せながらの返答は、あまりに不真面目なものだった。やはり、まともに話す気はなかったのだろうか。
それでも、知らなければならないことだ。
「だから、お前がーー」
「人とお話しをする時は声が聞こえる距離で、ちゃんと相手の目を見て。当たり前でしょ?」
説教のようなものに話を遮られ、ユウヤは口を噤む。
距離が問題であるということか。しかし、あちらの声は聞こえており、ユウヤは小さな声で話したつもりもない。
それならば、と大きく息を吸った時、声が聞こえた。
「知りたいんでしょー? 私が虹になった理由」
「……聞こえてんじゃねぇか」
それは、初めに彼女が『聞こえない』と切り捨てたはずの問い。お互いの声が不足なく聞こえているのは明白だった。
「ユウヤさん、こっちにおいで? もちろん、一人でだよ」
「オレ、一人で……」
逡巡に足が地面を擦り、土埃を舞わせる。
指名はユウヤただ一人。しかし、言葉にし難い何かがユウヤを躊躇わせていた。
「行っちゃだめ!」
嫌な予感を押し留めて進もうとする考えは、ユウヤの強く腕を引くアイムに妨げられる。
「でも、オレが行かないと……」
「スズリ、すごく怒ってる。ユウヤのこと、ずっと狙ってるんだ。だから、行ったら大変なことになっちゃう」
彼はユウヤの選択に首を振り、必死に訴えかける。
ユウヤにだって、何かあるだろうことは分かっていた。それでも、という考えが先に走るが、アイムの手の力でかろうじてその場に踏みとどまる。
「来ないと教えてあげないよー?」
こちらの反応を受け、掛けられた声。先程とは打って変わって機嫌が良さそうなそれからは、アイムの言う『怒り』は微塵も感じられない。
ただ、弄ばれていることは分かる。腕を引き続けるアイムをどうすべきかと思案していると、隣に並ぶ影があった。
「あれ、行ったら確実に死ぬよ。見たらわかると思うけど」
タクヤは自然なまま、ユウヤが取るであろう行動のその先を口にする。
強く響く嫌な予感は、『死』だった。
ユウヤがアイムに従って一歩下がると、安堵の息が聞こえる。そして数瞬の後、空気が冷えるのを感じた。
「来ないの?」
スズリの声色が変わる。始めにユウヤに向けられたものと同じだ。
アイムの言う通り、冷たい怒りの声。
「さっきから、あれしろ、これしろってばっかり。こっちの言うことはひとつも聞いてくれないくせに。そういう人は嫌われますよ?」
彼女が徐々に怒りを剥き出しにしていく。最後の一言には、侮蔑の笑い付きだ。
「どうして、オレなんだ」
再び質問で返したユウヤだが、彼女は機嫌を損ねるでもなく、また上向きにするでもなく、一つ瞬きをした。
「来たら教えてあげる」
影がぶわりと膨らみ、スズリを囲う。笑顔ではあるが、もはや隠そうともせずにユウヤの未来を消さんと準備を進めている。向かえばただで済まないことは明らかだった。
どう動くべきか、判断を下すことが出来ない。この場における最善は、ユウヤの命は、と大きすぎる思考材料が頭の中を渦巻いていた。
どちらを優先させても、必ず何かが失われる。それだけは、はっきりと理解できてしまっていた。
ユウヤの考えを知ってか知らずか、アイムが手の力を強める。その表情は眼前の藍色に怯えるものではなかった。広大な世界のあちこちに散りばめられる宝玉の色をもつ瞳が、確かな意志を持ってユウヤを見上げている。ーー向こうには行かせない、と。
「スズリ、いい加減になさい! 虹などと、訳のわからないことを言って、一体、何のつもりですか!」
ヒナリの怒号を聞き、スズリの動きが止まる。
ユウヤもアイムも、静かなやりとりを捨てて思わず彼女に視線をやった。
スズリは興味をユウヤから移し、言葉の主を確認して目を細める。
「ひょっとして、冗談だって思ってる?」
「当たり前です! こんな馬鹿げたことを信じられますか!」
笑みを収めて目を細めたスズリに対し、ヒナリは一歩も引かない。静けさの広がる中、彼女は続けた。
「あなたは虹などではない! 桃の里の巫女で、私の妹のスズリでしょう!」
スズリの顔から消えていた表情が浮かび上がる。あれは、ユウヤの記憶喪失を嘲笑った時と同じ笑顔だった。
「あはは、わからないよね。姉様には、絶対にわからない。わかるはずない」
は、と息を吐き、言う。
「いらないなって。こんな場所」
ーーしん、と静まり返る。影も静寂を助けるように鳴りを潜めていた。
いくらか続いたこれを打ち破ったのは、一人の細い声だった。
「こんな場所って……あなた、里を何だと思っているのですか!? あなたの生まれ育った場所だと言うのに!」
拳はわなわなと震え、声は次第に荒げられる。対するスズリの言葉は、あまりに虚しいものだった。
「そうだね、姉様。こんな里に生まれてくるんじゃなかった」
「そんな……!」
里を否定し、拒絶する彼女の表情は、使われた言葉に対してあまりに清々しい。これこそが答えだとでも言うように、衝撃を滲ませるヒナリを見据えていた。
「どうして……一体、どうして!!」
彼女の問いかけに、スズリは静かに瞑目する。
「……私だって、頑張ったんだよ」
ぽつりと告げた言葉。その声は、微かに震えていた。
「ずっと頑張ってきたのに。頑張っても頑張っても頑張っても、頑張っても! 姉様にもアイリにも追いつけなかった!」
堰を切ったように溢れ出る言葉。それは、あまりに悲痛な響きを伴って繰り返される。
「どうして、二人みたいにできないの? どうして、里の外から来た人に勝てないの? 私には才能のある人の血が流れているはずなのに、どうして私には才能が無いの? ねえ、どうして!」
「スズリ……!」
リズが息を呑み、顔を歪めた。
恐らく、ユウヤも同様の表情を浮かべていたことだろう。
ユウヤにとって、彼女の心からの叫びは聞き覚えのあるものだった。
それは、どれもつい先程ユウヤにこぼした言葉だ。
「皆、私のこといらないって、邪魔だって言った。私は、里に必要なかったの。桃の巫女は、二人で十分だった!」
「誰もそのようなことは言っていません! なぜ、そこまで自分を卑下するのです!」
「私の目の前で、私に聞こえるように言ったじゃない!」
スズリはなおも叫ぶ。それも、恐らくはユウヤの知っている話だった。
「私よりも弱いくせに! 私より努力もしてないくせに! どうして、私より弱い人たちに、頑張ってない人たちに、そんなこと言われなきゃいけないの!?」
ーー平気なはずはなかったのだ。
いつか、スズリに対しての不満の声が聞こえた時。
あの時、彼女は一言でも、『大丈夫』と言ったか。
否、『慣れている』と言ったのだ。
そんなことを言われて、平気でいられるはずはない。
スズリはただ、押し隠していただけだった。ひたすらに押し隠して、耐えていたのだ。
「だから、今度は私の番」
悲鳴のように続いていた彼女の叫びから一転、妙に落ち着き払った声音が場を支配する。
誰もが固唾を飲んで、その声に聞き入るように、その様子を食い入るようにして見ていた。
だからこそ、この場の全員が目撃する。
ーー彼女が口の端をゆっくりと吊り上げていく、その様を。
「ーーみーんな、いらない」
スズリの手の平が、真正面を捉える。それはこちらを標的とした動きではない。
目標は、その先にある。里の人たちが避難している屋敷だ。屋敷が破壊されたのなら、恐怖に震えた彼らが露出してしまう。そうなればーー。
どうやら、彼女の意図はほとんどの人間に届いたらしい。しかし、あまりに突然の出来事であり、気づいた者はその顔色を青くすることしか出来なかった。
ーーたった一人を除いて。しかし、その一人でさえ、動くことは出来なかった。出来たことは、声を上げることだけ。
「やめて、スズリねえさまぁぁぁぁぁぁぁ!!」
アイリの叫びは届かぬまま、無数の影が飛び出していった。




