18.同じ二人
「ごめんなさいね、後片付けなんてさせちゃって」
泡を皿に乗せ、流水にさらして汚れを落とす。
一連の作業を繰り返すユウヤの横で、ハナコが申し訳なさそうに笑った。
その手元、ふつふつと煮立つ鍋の湯気が僅かに視界を遮る。
「やることもねぇし、このくらいはさせてくれ。……逆に落ち着かねぇんだ」
あとは水気を拭うのみ。
かちゃ、と積み上げた食器の音を最後に、一度顔を向き合わせた。
ハナコは最後の仕上げと塩をひとつまみ加え、蓋をする。
ユウヤの様子に気づき、火から目を離さないまま会話が始まる。
「ユウヤさんは、今おいくつなの?」
「歳か。多分……スズリくらいじゃねぇか」
多分、と不思議そうに言葉を繰り返すハナコに失敗を悟った。
以前、ユアに話した時にも同じような反応があったことを思い出す。
ユウヤとしては特に気にするところではなかったが、あの時は随分と気を遣わせてしまった。
そんな出来事を何度も繰り返す必要はあるまい。
「いや、自分の歳知らねぇだけだ。それより、アイリ来てるぞ」
誤魔化しと取られてはいけないと多少早口に済ませ、顔を逸らしつつ話題を転換させる。
反対にこちらに目を向けたハナコはぱちりと瞬き。
「え? ーーあら、本当だわ。アイリ、お願いがあるの」
「そ、それはいいんだけど……ユウヤさん、なんでわかったの? 母様、いつもは肩を叩かないと気づかないのに」
話しかけられては仕方がない。
振り向いた先、大きな目が一度、二度と瞬き、ユウヤを捉えた。
「足音が聞こえた。軽い音だったから、なおさらわかる。それに気配だってあった」
「本当? 私には聞こえなかったわ。普段も水を流す音でわからなくて……本当にすごいのね、あなた」
ユウヤの答えに返ってきたのは少しの驚愕、そして余りある賛嘆の言葉だった。
日常、それもほぼ無意識となっている行為を褒められるのはむず痒いものがある。
丸い目をこちらに向ける二人。
その驚きの様子のあまりに似通っているところに親子を感じた。
「ユウヤさん、かくれんぼ強そう」
どこかずれた感想を述べるアイリ。年相応の幼さに微笑ましさを覚える。
ユウヤはちょっとした思いつきを口にした。
「やってみるか?」
「ほんと? やったぁ、楽しそう! いつやる? 他の子も誘っていい?」
想像以上の喜び様に、後には引けなくなってしまう。
しかし、別段不都合がある訳ではない。目を輝かせるアイリに、笑みを含ませつつ答える。
「いつでもいいぞ。好きなだけ誘え」
「えっとね、えっとね……明日、午前中はお稽古があるんだけど、午後からは自由なの。だから、その時に遊ぼ!」
「ああ、いいぞ」
「約束だよ! 呼びに行くからね!」
ユウヤの了承を聞き、アイリはその場で飛び跳ねて嬉しさを表現。
くすり、と息を漏らしたハナコも愉快げに目を細める。
「あらあら、先を越されちゃったわね。それなら、私も日が暮れた頃に声をかけるわ。少し大変だけど、大丈夫?」
「任せろ」
「ふふ、明日は大忙しね。ーーそうだ、いけない」
笑みを浮かべていたハナコははたと視線を移動させ、火を止める。
開けた鍋に匙を入れ、立ち上る湯気に息を吹きかけて口へと運んだ。
一つ頷き、用意されていた盆に鍋を置いて息を吐く。
「アイリ。離れの方にお粥を持っていってあげて」
「はーい! ……おわ、ちょっと重い。あ、ユウヤさんも一緒に行く?」
ハナコから受け取った盆を手に、アイリは何気なくユウヤを誘った。
「あー、いや……これが終わってからにする」
残りは皿を拭くだけ、そう時間はかからないだろう。
それを終えてから向かっても遅くはならないはずだ。
手早く片付けてしまおうと皿に伸ばした手を、ハナコがそっと押しとどめる。
「いいのよ。ユウヤさんのおかげでほとんど終わってるわ。こっちのことは気にしないで行ってらっしゃいな」
「ね、母様も言ってるし、行こ?」
一度盆を置いたアイリがユウヤの手を軽く引く。
実質両手を取られた状態で、ユウヤはハナコに目を向けた。
「……本当に、いいのか?」
「ええ。……きっと心細いだろうし、様子を見てきてあげて」
瞳に憂いの色を携えて、ハナコはユウヤの確認に頷く。
ユウヤは再びお盆を手にしたアイリについて部屋を目指した。
◆◇◆◇◆
廊下を歩く、二つの足音。
ゆっくりと歩く者をもう一方の足の回転を速くする者が追う形だ。
「あのお兄さん、記憶喪失だったんでしょ?」
「ああ、らしいな」
盆を運びつつ、疑問形でありながら答えの決まった質問に相槌を打つ。
それなりの重量となった盆を手にしたアイリの時たま足をもたつかせる危うげな様子を受け、ユウヤが交代を申し出たのだ。
アイリが持っていた時に発生していた硬質な音はユウヤに変わると一転、そのなりを潜めている。
慎重に、かつアイリを置いて行かないような足運びを心がける。
諸々同時進行をこなすユウヤの返事は少しおざなりなものになった。
しかし、一度頭で繰り返し、噛み砕いた会話の内容にアイリを見る。
「きっと、すっごく辛いよね。アイリだったら泣いちゃうもん。今までいっぱい治療してきたけど、記憶喪失なんて初めて。どうすればいいのかな……」
「普通でいいだろ。同情されたっていうのはわかるもんだぞ。気ぃなんて使ったらなおさらな」
悲しげに表情を曇らせるアイリに、ユウヤは自らの経験則を語る。
記憶がないこと明かすと、大抵の人間は同じ顔をする。
ーー驚愕、そして憐れみ。
自身が特に気にしていないということもあり、ふとした拍子にこぼすことがあった。
そして一度、体験した。
善意から来る、ユウヤの否定を。
覚えていないのは辛いだろう、と。
両親のことさえ思い出せないのは悲しいことだ、と。
悲しくなんてなかった。
顔も知らない両親など、想うことはなかった。
失ってから、積み上げてきた記憶があった。
少なくはあるが、周りには温かな人がいた。
最近は例外にばかり当たっていたが、その者曰く、ユウヤは『かわいそう』な人間らしい。
人との関わりが極端に希薄な分、受けた反応ーー特にその一回は、はっきりと記憶に刻まれている。
その上で、ユウヤは思う。
自分は、決してかわいそうな人間ではないと。
以前はどうだったか知らないが、ユウヤは今を生きている。
過去の自分は関係ない。
今、ユウヤはここにいるのだ。
これはとうに解決した問題である。
「そうなの?」
まるで自分が通った道であるかのように話すユウヤに、アイリは首を傾げながらも納得の様子を見せた。
実際に通った道であり、それ故に説得力が発生しているのだが、アイリはそれを知らない。
事情を説明するか否か。
僅かな逡巡と部屋への到着、勝ったのは後者だった。
「ご飯持ってきたの。……お兄さーん! 入るね!」
ユウヤを指差し、外に立つ男に用件を端的に伝えると、アイリはその勢いのまま入室する。
アイリ越しに覗くと、布団にくるまっていたアイムが寝返りを打ったところだった。
「ーーアイリ? あれ、ユウヤも?」
頬の赤みは高熱に浮かされたそれではなく、健康な色を取り戻しつつある。
先程よりも明瞭に話す様子に安堵し、アイリと共に腰を下ろした。
「母様がお粥作ってくれたんだけど、食べられそう?」
「うん、大丈夫。ただ、あまりお腹が空かなくて……」
「無理はしなくていいけど、できるだけ食べてね。今は体が弱ってるんだから、とにかく何か食べなきゃ」
アイリは上体を起こしたアイムの膝に盆を乗せ、半ば強制的に食器を持たせる。
手を握り込まれたアイムは戸惑いつつもお粥に手をつけた。
くるくると冷ますようにかき混ぜ、緩慢な動きで口へと運ぶ。
おいしい、と一言、アイムは緩い咀嚼を繰り返す。
それきり黙って食べ続けるアイムを、ユウヤは静かに見ていた。
むぐむぐと動く口をぼんやり眺めていると、ふいにアイムの手が止まる。
「ぼくは、どんな人だったのかな」
ーーそれは誰に向けた問いでもない。
憂いも無ければ、怒りも帯びていない。
発した音は、巡り巡って自身に還る。
「なんで、こんなことになったのかな」
二人が答えられずにいると、アイムはようやく気づいたように付け加えた。
「ごめんね。ただ、気になっただけなんだ。ずっと考えてるのに、どうしても思い出せなくて」
未だ半分ほど残る鍋に食器を置き、アイムは天井を仰ぐ。
「お父さん、お母さんも……ひょっとしたら、弟とか、妹とか、いるのかなぁ。……友達だって、いるのかも」
「お兄さん……」
アイムの言葉に、アイリが悲痛に顔を歪めた。
しかし、ユウヤの心は悲しみを叫ばない。
これは、彼にとって必要な作業だ。
アイムは、何もわからない。
わからないから、口に出す。
口に出して、疑問を形にする。
形にして、思い出そうとする。
巡る思考にもがく彼に対し、ユウヤが口を挟むことはしない。
アイムには、記憶を取り戻したいという強い気持ちがある。
目を伏せ、必死に記憶を探している様子から見てはっきりと理解できた。
ーーしかし、それが実るかどうかは別の話だ。
「なんにも、思い出せないんだ。……ちょっと、寂しいな」
ため息と共に諦め、アイムは力無く笑む。
思考を収めてしまえば、後に残るのは喪失感のみ。
ユウヤとてこれまで一切の記憶を失ってしまえば、こうも余裕を見せることはないだろう。
今の自分がこうしてあるのは、ひとえに周囲のおかげだ。
アレンから生きる術を学んだ。
タナバから知識を得た。
同情から起こる優しさではなく、純粋なそれに囲まれた。
今、目の前にいる人物は、恐らく過去の自分と似ている。
ユウヤは口を開いた。
「オレとなるか」
「え?」
「オレが友達になる。それなら、少しは寂しくなくなるだろ?」
「そ、そうかもしれないけど……どうして?」
突然の提案に、アイムの理解は及ばない。
ユウヤは肩をすくめつつ言った。
「オレもお前と同じ、記憶喪失ってやつだ。八年以上前のことは、全く覚えてねぇ」
「え!? ゆ、ユウヤさん、どどどういう……!?」
思った以上の狼狽を見せるアイリに、ユウヤは宥めるように手で制す。
「アイムと同じだ。オレの場合はかなり時間が経ったから、そこまで影響はねぇけどさ」
「お、落ち着きすぎじゃない?」
「そう言われてもな。ないもんはない」
はっきりと言い切ったユウヤに、アイリは驚きのまま停止。
「……あ、だからお揃いって言ったんだね」
「似たような境遇の奴といたら、少しは楽だろ?」
ようやく納得の表情を見せたアイムに、ユウヤはその意図を伝える。
諦念から来るものではない笑みを浮かべ、アイムは言った。
「……友達ってこんな風にできるものだっけ」
「そうか? 友達いねぇからわかんねぇんだよ」
「ユウヤさん、それ言っていいの?」
アイリが気まずそうにこちらを見上げるが、理由がわからない。
一方、アイムからの視線はアイリと違い、疑問のそれだった。
「他の人たちは、友達じゃないの?」
「友達ってよりは……仲間だな」
三人に対しては、友達というには深すぎる感情を抱いている。
一緒に戦った仲間。それが一番しっくりくるだろう。
「だから、お前がオレにとって初めての友達だ」
「ぼくにとっても、初めての友達だね」
ユウヤが差し出した手を見て、アイムは嬉しそうに自分の手を重ねる。
ユウヤと何一つ変わらない、血の通った温かさだ。
「ーーああ!」
「どうした、急に大声出して」
驚いた拍子に震えたアイムの手を離し、アイリに問う。
彼女は答えず、素早く廊下に出て男と何かを話し始めた。
「……時間?」
聞こえた単語をそのまま呟いたユウヤに、アイムは首を傾げる。
二言、三言で会話を終え、ユウヤの隣に戻ってきたかと思うと、アイリは慌てたように手をぶんぶんと振った。
「お風呂、早くしないと閉まっちゃうよ!」
「閉まるって、どういうことだ」
「家にお風呂がついてないから、みんな外に入りに行くの。お昼にスズリ姉様が言ってなかった?」
怪訝に眉をひそめたユウヤに、アイリは早口で説明。
風呂がないとは聞いた。そして、大浴場の位置も示された。
ーーしかし。
「……閉まるとは、言ってなかったな」
「ありゃ。でも閉まっちゃうから、早く早く!」
「そうだよー。早く行こうよー」
この場にいるはずのない者の声に、ユウヤは勢いよく振り返る。
「お前、いたのか」
「みんないるよ」
片腕を挙げたタクヤの脇から、ユアとリズが顔を出した。
まだ万全ではない体調を考慮し、ここらが潮時だと腰を上げかけ、アイムへと向き直る。
「それじゃ、また明日」
「うん。また明日」
最後に言葉を交わし、四人は共に足早に外へ向かう。




