1.森の記憶と路地裏騒動
プロローグにポイントが!
本当にありがとうございます。一人でにやにやしてました。
このまま一気に投稿したい、という気持ちもありますが、それはストックの少ない自分の首を締めることになるので我慢します。
現時点では取り敢えず十日間は大丈夫そうです。
それでは、第1章スタートです。
少年は悩んでいた。
周辺を木で囲まれた木製の家の中。
暖かく、柔らかな日差しが差し込んでいる。
少し開けた窓から入る風に、光が吸い込まれそうなほどの漆黒に染まる髪がさらさらと揺れた。
家の外で屋根の高さを超えてなおすくすくと育っている樹木のような深緑の目は伏せられている。
未完成ながらも大人らしさを内包させた端正な顔立ちだ。
それは見る人に、頭の中ではどのような高尚な考えを巡らせているのかと唸らせるほどのものであった。
さて、実際に考えていることと言えば。
「昼メシ、どうするかな」
何とも人間臭い、至極普通のことであった。
そしてこの少年、案外口が悪いのである。
少年は一通りの家事を終わらせ、外出の準備をする。
硬貨の入った皮袋を持ち上げ、ずっしりとした重みを確認。それを腰から下げ、玄関へと向かった。
ーー次の瞬間、意図せず体が前のめりになっていた。要するに、コケた。
少年は片足を踏み出すことで、何もないところで急に転んだという事実を亡き者にする。
その弾みで首から下げていたペンダントが服の中から飛び出した。
革製の紐に繋がる小さな赤い石が光に当たって輝く。
反射した光が眩しく、少年は目を細めた。
このペンダントはある男からの貰い物だった。
大して高価なものではないと話していたが、少年にとっては何より大切なものの一つだ。
ーーあの男が少年に残した、数少ない形のあるものだったから。
ーーかけがえのないあの日々の存在が嘘ではないと証明することができる、数少ないものだったから。
少年は玄関で立ち尽くしていた。
誰に言われるでもなく我に返り、扉に手をかける。
「いってきます」
軋む音を立てながら内開きの扉を開く。
家主を送り出し、無人となった部屋の中には静寂が広がっていった。
◆◇◆◇◆
少年は森の中、緩やかな下り坂をざくざくと進む。
陽気に包まれるこの季節もあるのだろうか、自分の背丈の何倍もの大きさの木が数え切れないほど育っていた。
少年が歩いているのは獣道のようなもので、何年も無理やり歩いてようやく人が一人通れるほどの道になった。
昔は顔面に枝が当たり、よく引っ掻き傷を作ったものだ。
幸い、その傷は綺麗に消えている。
今は背丈も随分と伸び、枝が当たるのは腹のあたりだ。
枝を踏んだようで、大きく音が響いた。すると辺りがガサガサと少し騒がしくなる。
どうやら少年と同じくこの森を住処にしている動物を驚かせてしまったようだ。
少年は特別に動物と仲がいいという訳ではない。
動物に囲まれ、肩に乗せ楽しくお喋りをしたり、という物語のようなことは一度も体験したことがないのだ。
たまに気が向いて家の外に木の実を置いてみると、それがなくなっている。そして稀にお返しと言わんばかりにまた木の実が置いてある。
その程度の関係だ。互いに敵対せず、だからといって干渉しすぎることもない。これからもそのつもりだ。
まるで巨大なアーチのような木々の先に、一層明るい光が見えてくる。
その光へ飛び込んだ少年は、目の上に手を翳した。
辺り一面の草原はそよ風に吹かれ、靡いている。
その気持ちのよい風に乗り、鼻腔に青臭さが届く。不快さはなく、むしろ心地よさを感じさせる風だ。
丘のようなその場所からは、遠く離れた市場が見えた。
上から眺めていると、豆粒ほどの大きさの人が蠢いているように見える。
その光景を瞳に映しながら、勾配がさらに急になった坂を下った。
◆◇◆◇◆
市場は程よく賑わっていた。
少年はいつも通り、まっすぐあの店に向かう。
「あら、いらっしゃいユウヤくん!」
少年ーーユウヤが訪れたのは八百屋だった。
これまで市場で見てきた中で一番新鮮な商品を取り揃えている。値段も良心的だ。
そう確信してから、ユウヤはこの店の常連となった。
優に三年は経過しているだろう。
八百屋なのにたまに料理も売っていたりする。
店主の手作りだそうだ。前に一度、興味本位で買ってみたら本当に美味しかった。
「今日は何にする? 料理はまだできてないんだけど。ーーそうだ! 今日は良い果物が手に入ってね! よかったらどうだい?」
そう言いながら、彼女は赤い果実をずいっと押し出してくる。
答える前にぽんぽんと言葉を投げかけるせっかちな彼女に苦笑しながらそれを手に取った。
「…本当だ。質がいいな」
「だろう! 買うかい? 安くするよ!」
ユウヤは思考する。
途中、ちらと視線を上げると彼女の大きな目がこちらを捉えていることに気がついた。
目があった途端、にかっと聞こえてきそうな豪快な笑顔が放たれる。
「……買った!」
彼女の勢いに押され、ユウヤは笑いながら財布を出した。
「毎度あり!」
予定外の買い物をしてしまった。
彼女は本当に商売上手だ。
他の野菜を購入する旨も伝え、代金を支払う。
彼女はテキパキと紙袋に商品を詰めていった。
「はい! どうもね! オマケも入ってるから!」
想像していたよりもずっしりとした重みで、彼女が大量に『オマケ』してくれたことがわかる。
「こんなにいいのか?」
「いいさ! お得意様だもの!」
彼女はよく通る大きな声で笑った。
大声であるにも関わらず、不思議と不快感を与えないその声には、快活な彼女の性格が表れている。
「またおいでね!」
ぶんぶんと音がしそうなほど手を振る彼女に応えながら次の店へと向かった。
◆◇◆◇◆
八百屋で買い物をした後、肉屋へ行ったり、切れていた調味料を買ったりと市場をぐるっと一周。
そして現状、両手いっぱいの荷物を抱えていた。
どう考えても、一人分の量ではない。
「ーーまたか」
どうやらまた二人分を買ってしまったようだ。
あの男のことを考えた日にはよくあることだった。
「……もう、三年も経ったのにな」
もういないことは理解しているはずだった。それなのに。
首を振って思考を散らす。
今日はどうにも調子が出ない。いつにも増して昔のことを考えてしまう。
だが、今はこの食料をどうするかだ。甘く見積もっても、今日明日の分は優に超える量がある。
お世辞にも設備が整っているとは言えないユウヤの家では、この大量の食料を余らせて駄目にしてしまう。何とか消費しなくては。
「……じいさんの所に行くか。どうせ暇だろうし」
ユウヤは数少ない知り合いのうちの一人に思い当たる。
あの老人も店を営んではいるが、客が入っているのを見たのは片手で数えられるくらいだ。
突撃したところで、邪魔にはならないだろう。
店に向かって歩いていると、賑やかな声に隠れていつもとは違う何かが聞こえた。
それは意識しなければ聞こえないほどささやかなものだったが、ユウヤの聴力は人一倍優れていた。
何となく気になり、耳を澄ませる。
どうやら会話らしい。
男が複数人、女は一人。
男の声はほとんど聞こえない。かろうじて会話が続いていることが分かる程度の音量だ。
それでもなお集中していると、一人がその場から走り出した。
続けて数人が後を追う足音が聞こえる。
そして、決定的な一言が耳に飛び込んできた。
ユウヤは勢いよく顔を上げ、周囲を見回す。
「悪い! 少しの間、この荷物預かっててくれ!」
一番近くにあった店の店主に強引に荷物を預ける。
突然大量の荷物を渡され、目を白黒させている店主を尻目に、声の聞こえた方向へ走り出した。
昼時で混雑する市場。
客の間をかい潜り、路地の前で急停止する。
そして仄暗いその中へと溶けていった。
ユウヤが聞いた声。
それは走りながら呟いたのであろう、荒い呼吸の隙間に聞こえた声。
『助けて』
か細く震えた、小さな声だった。
◆◇◆◇◆
ユウヤは曲がりくねった路地を全力で駆けていた。
声は近くなっている。
空ユウヤは静かに、それでいて確実に距離を埋めていった。
そして、ようやく人影が見えてくる。
ユウヤは近くにあった木箱に身を隠し、様子を伺った。
その場にいるのは男が三人に、少女が一人。
少女は自分より頭二つ分ほど大きな男に囲まれている。
そこに上を遮るものはなく、路地裏の中でも明るい場所となっていた。光がちょうど少女に向かって差し込んでいる。
少女は大きめの外套のフードを目深に被っており、顔が確認できない。
「嫌だって言ってるでしょう!」
少女の一際大きな声が響く。
どうやら、言い争いのようだ。
「いいじゃねェか。一緒にお茶くらい」
なあ、と男が下卑た笑みで仲間に同意を求めた。
「そうだぜ、お嬢ちゃん。こんな所で一人は危ないよ?」
下品に笑いながら、男は少女に近づいていく。
「お、大声出してもいいの?」
少女は少し声が震えているものの、気丈に振る舞っていた。
それを嘲笑うように吐き出される、男の言葉。
「いいぜ、好きなだけ出しな。どうせ誰も来やしないけどなァ!」
男たちの笑い声が響き、少女が顔を背けた。
聞くに耐えない、下衆な笑いだ。
「ほら、こっち向けよ!」
男の一人が少女のフードを強引に剥ぎ取る。
少女の鎖骨の辺りまである髪が露わになり、ふわりと靡いた。
雨上がりの夕焼けのような黄金色の髪は、陽光を浴びてきらきらと輝いている。
少女はその紺碧の双眸で男たちを睨みつけた。
不思議と迫力を感じられる少女に、男たちは僅かに後退する。
ユウヤもその場で呆けてしまった。
ーーなんて綺麗なんだろう、と。
家の建つ森周辺の世界より他を知らないユウヤでさえ圧倒されてしまうほどの何かが、この少女にはあった。
「は、はは! お嬢ちゃん、すごい美人だなァ! ……オイお前ら! コイツ連れてくぞ!」
少女の右腕が掴まれる。
とうとう、強硬手段を取るらしい。
「離して!」
片方の手で男を振り払おうとするも、力の差は歴然だ。
少女の細い手首に嵌るバングルが揺れる。
暫く膠着状態が続いたが、やがて少女は俯いてしまう。
少女の左腕がだらりと下がった。
「へへ、ようやく諦めたか」
ーー今だ。
ユウヤは木箱の陰から飛び出す。
それと同時に僅かな違和感を覚えたーーが、中断するにはもう遅い。
そのままの勢いで男たちへ突っ込んでいく。
まず、一番近くにいた男の鳩尾に拳を放つ。
男は呻き声を上げ、膝をついた。
そしてぐるっと反対を向き、その力を利用して背後の男の空いた横腹に回し蹴りを入れる。
「な、なにーーぐふっ……!」
目視できなかったらしく、回避行動を見せなかった男。床で一度バウンドし、壁に激突して動かなくなる。
さらに鳩尾を押さえながらも立ち上がろうとする先ほどの男の足を払い、顔面から転ばせる。
「な……!」
ユウヤは残りの男に視線を向けた。
少女の腕を掴んだままの男はだらしなく口を開け、呆けている。
少女は目を見開いてこちらを見ていた。
「離せよ。嫌がってんだろ」
ユウヤは努めて普段よりも低い声を出した。
「て、テメェ! い、一体……!」
「聞いてんのか。手を離せ」
「く、クソがああァァァ!」
男は激昂し、少女を掴んでいた手を振るようにして離してこちらに向かって来る。
その弾みで少女は尻餅をついた。
ユウヤは一瞬、少女に気を取られてしまう。
はっとして視線を戻すと男が目前に迫っていた。
ユウヤは自分よりも一回り大きい男の影に隠れてしまう。
「残念だったなァ! クソガキィィィ!!」
男が拳を振り上げる。
その拳がユウヤの顔面を捉えたーー瞬間、男の目の前からユウヤの姿が消えた。
男の拳が当たる寸前で屈んだのだ。
股の間をすり抜け背後に回って首に手刀を入れる。
男は倒れ、その大きな体は地面を揺らした。
ユウヤは深く息を吐く。
もし拳を避けられていなかったら、と思うと背筋が凍る思いだ。
誰が相手でも油断するなとあれだけ教わったにも関わらず、詰めが甘かった。
反省はさておき、ユウヤは少女に目をやる。
少女もこちらを見ていたようで一瞬目が合ったが、距離を詰めると勢いよく逸らされた。
「立てるか?」
手を差し伸べるユウヤに、少女はその体を硬直させる。
しばらく躊躇していたようだが、やがて恐る恐る手を取った。
軽く引っ張り上げ、その場に立たせる。
「怪我は?」
ユウヤが尋ねると、少女は首を振った。
「あの……ありがとう」
少女の口から鈴を転がすような音が紡がれる。
「どういたしまして」
その一言で会話が終わってしまい、気まずい空気が流れる。
どうすればいいのだろうか。
女性との会話経験が八百屋の店主のみのユウヤには難しい問題だ。
それすらも彼女主導で行われている始末である。
少女の様子を伺うと、微かに震えているのが見て取れた。
それもそのはずだ。普通に暮らしていればこんな経験をすることはまずないだろう。
何とか安心させなければ。
必死に頭を回転させ、考えた結果。
「……名前は?」
古今東西、どこにいても通用する当たり障りのない質問になった。
それ故のつまらなさには目を瞑ろう。
これなら自己紹介から会話が広がるはずだ。
人付き合いという言葉とは無縁のユウヤから飛び出した奇跡的な一言。その効果や、いかに。
「……え」
少女は答えない。その目には僅かな驚きと動揺の色が浮かんでいた。
どうやら失敗のようだ。
初対面の状態で最適な質問とは言え、女性にいきなり名前を聞くのは失礼だったのだろうか。
ふと、人に聞く前にまず自分が名乗れ、と本で読んだことを思い出す。
「オレはユウヤ。怪しい奴じゃ、ね……ぇ」
言葉の途中で、明らかに怪しいと発言をしていると気がつく。
怪しい奴ほど、自分は怪しい者ではありませんと言うものだ。
万策尽き、うんうんと唸りながら頭を抱えるユウヤ。そこに、くすくすと笑う声が聞こえた。
顔を上げると、少女が口元を押さえている。
訳がわからず、ユウヤは首を傾げた。
少女は一頻り笑った後、顔を上げる。
「私はユア。助けてくれてありがとう」
少女ーーユアは綺麗な笑みを浮かべて答えたのだった。