夜を歩きて
夜空に浮かぶ月が彷徨える民たちの道しるべになっている、ということを知る者はどれぐらいいるのだろうか。
今日もひとり、男は誰もいない道をゆっくりと歩く。
漆黒の闇の中にある、ただ一筋の光。
その先にある何かを目指して、誰もいない荒野を独り進む。
かつて、男に対して、ひとりの幻獣が語ったことがある。
月の裏側には我らの起源ともなる場所があった、と。
少年の日の思い出。
それ以来、月の裏側を目指すことが男の生きる目的となった。
そこにあるかも知れないという理想郷を目指して――――。
眠らないということ。
眠れないということ。
男はある特性を抱えていた。
それは。
生きていく上で睡眠を必要としない、という素養だった。
ある視点から見れば利点とも呼べるような、男の素養は。
また別の視点から見れば、その本質をがらりと変える。
男はその資質を得たことにより。
日の半分の孤独を得ることとなった。
人の倍する時を自在に渡ることができる資質。
されど、それは同時に眠りという甘い夢を奪い去る煉獄に過ぎず。
男が剣士として名を馳せ、強者として名を称えられるのと引き換えに、どこまでも虚ろな孤独を身に受ける結果となってしまった。
今日もひとり、誰もいない道をゆっくりと歩く。
行く手を塞ぐ妖魔は斬り捨て、不意に生じる自然の害は斬り裂き、ただ、その歩みの先は、まだ知れぬ月の世界へ――――。
だが――――。
その夜は少し普段の夜とは異なっていた。
「とんとんとん、とんからり」
「……は?」
男の前に姿を現したのは、巨大な狐の姿見をした妖怪変化だった。
金毛九尾の化け狐。
意味不明な言葉を投げかけてきたそれに対して、男は困惑の表情を浮かべた。
「何者だ――――と問うには有名に過ぎるな、お前」
「あら……くく、いやね、私のこと、ご存じ?」
「師匠から聞いた。古来より、国や種を傾ける『傾城』の化け狐だろ?」
「化け狐とはご挨拶ね。これでも妖怪の中では真っ当なのよ? 『天狐』ですもの。くくく、まあ、『傾城』ではなくて今の属性は『傾世』なのだけれどね」
「より駄目だろ」
「ふふ、私も成長しただけじゃない。もっとも、好き好んで世界を傾けようとは思っていないわよ? だって、それをすれば私も死んじゃうじゃないの」
「国はいいのか?」
「くく、その程度で滅ぶなら、その程度の国でしかないの。その証拠にきちんと乗り越えて成長している国もあるじゃないの。大事なのは成長。その次の段階へと歩みを進めることができるかどうか、それだけよ?」
私だけのせいじゃないわ、と化け狐が笑う。
一瞬、問答無用で叩き斬るか悩み、ややあって、男が問う。
「それで、俺に何の用だ?」
「別に。ちょっと興味深かったから、ご挨拶に来た、というところかしら」
「何だそれは」
やっぱり斬るか、と逡巡する男に対して、化け狐が笑って。
「まあまあ、落ち着いて、ね? まったく、沸点が低いわねえ。冗談も通じないのかしら? まあ、だからこそ、私がやってきたのだけどね」
「……何がいいたい?」
「このままだと、あなた、世を倦んで壊れちゃうから。それだともったいないじゃない。せっかくのめずらしい能力なんだから」
「お前――――」
「はい、ストップ。再三言ってるけど、落ち着きなさいって。そもそも、あなた月の裏側を目指してるって話じゃない。そこに何があるかわかってるの?」
「幻獣の起源の都だろ? 俺みたいなやつにとっての理想郷だ」
「違う」
どこか薄笑いを続けていた化け狐が、そこで初めて強めの否定をして。
「あなたにその話をした幻獣は、単に感傷に浸っているだけよ。そこにあるのは滅びた都の残骸だけ」
「…………」
「月は夜に明かりを照らすだけよ。それも月が自ら発した光じゃない。それでも『放浪の民』たちにとっては救いになったけどね。でも、あなたはそうじゃないわ。年老いた幻獣の感傷に付き合う必要はないわ」
「…………お前の言うことを信じると思うか?」
「信じるも信じないもあなた次第だけどね。でも――――あなたは信じるわ」
「……何を根拠に?」
「だって、私があなたにとっての月だもの」
「――――は?」
自信満々に含み笑いをする化け狐に呆気に取られる男。
あまりにも、根拠のない自信。
にもかかわらず、どこまでもその言葉を信じているであろう化け狐の笑みを見て。
思わず、毒気を抜かれた。
不意に、怒ることすら馬鹿馬鹿しくなっている自分に男が気付いて。
「つまり、何か? お前が俺にとっての道しるべだ、って言いたいのか?」
「そういうこと。だけじゃなくて、私は誰にとってもそうであろうとしているわよ? ひとが次へと進むための道標。そのためにだったら何だってするわ」
「国を亡ぼすことも、か?」
「もちろん。必要とあれば、ね」
壊れてやがるな、と男が内心で苦笑して。
だが、そんな化け狐の唯我独尊な物言いに、どこか惹かれている自分もいて。
もしかすると、それ自体が、この化け狐の能力なのでは? と疑いつつも。
「俺を殺すことも、か?」
「まさか。そんなもったいないことはしないわよ、くくく」
もったいない、か。
相変わらずの物言いに、だが、すべてを信じたわけでもなく。
それでも少しだけ、目の前の化け狐に興味が湧いた。
すべてに無関心になりつつあった、自分にとって、意外であることを受け止めつつも、男は化け狐に対して笑って言葉を返す。
「いいだろう。その代わり、裏切った時は叩き斬るぞ?」
「ふふ、望むところね」
「それで? 俺に何を望むんだ?」
「ええ。ちょっと『学園』で学生をやってほしいの」
「…………は?」
…………。
これは、男が勇者として歩み始める最初の物語。
こちらの作品は、秋月忍さん主催の「夜語り」企画のために書いたものです。
プロローグのみでおしまいです。
続きは、そのうち、機会があれば書くかも……?
(他の皆様の作品を拝見しました。『うーん……まずい、自分のだけ系統が違いすぎる……』 ですから、端っこの方で静かにしてますね。こういう企画ものは初めてでしたので、個人的にはドキドキで楽しかったです)