彼の日常、ミニマル生活①
県立百合が原高校の昼休み。
学校中の至る所で、生徒たちの楽しそうな笑い声が響き渡っている。
しかし、省介の昼休みは他の生徒とは異なり、喧騒から外れた超個人空間、便所の個室の鍵をかけるところから始まる。
いわゆる、便所メシというやつだ。
いつも通りにイヤホンを装着し、購買の菓子パンをかじる。
「おーい」
つい立の向こう側から声がし、ガチャガチャと扉の鍵が音を立てた。
「なぁなぁー、俺だよ、オレ」
心底嫌な表情でため息をつき、省介は個室の扉を開く。
そこに立っていたのは、パッと見体重百キロはくだらないであろう、横に面積の大きな男子生徒だった。
「……なんだ、デブか」
「い、で、べ! 下は福山雅治と同じ、『出部雅治』だって、何度言ったらわかんだよ!」
出部が、贅肉をぶるぶる震わせながら抗議する。
「わかるとか、わからないとかじゃなく、デブは通称だ。クラスの奴らにもそれで通ってるのにホント、……不必要だな」
「ほらまた、すぐそうやって『不必要』『不必要』って。そんなんだから便所メシなんだぞ、比田っちはー」
「な、俺は別に……」
「『……別に、友達が出来なくて毎日ここに来てるわけじゃない、出来ないんじゃない、必要ないんだ』だろー? わかってるってー。……けど傍から見たら、ボッチだってことにはあんま変わんなくね?」
「……やれやれ、全然わかっていない」
肩を竦め、省介が反論する。
「俺が不必要な人間関係を避けるのは、必要な人間との関係強度を高めるためだ。どうでもいい人間に気を遣うエネルギーを、大切な人間との時間に温存しておく。そんなエコ極まりない生活を、上辺だけの付き合いで満足している連中と比較されるとは……」
「またまたー、そんなこと言っちゃってー」
出部はワックスで散らした自らの長髪を揉みこみ、ため息をついた。
そんな出部を睨みつけながら、省介は個室からの退散工程をこなしていく。
確かに出部の言うように、省介には友達と呼べる者はいない。
ただそれは学校で誰も話す人がいない、という意味でのボッチではない。
利害の一致などで普通に会話する、知り合い程度の人物はいなくはないのだ。例えば、この出部もそうだ。
変にネガティブでも非協力的でもなく、クラスメイトとして最低限の交流は問題なくこなせるため、別段省介が嫌われ者というわけでもない。
しかし、省介自ら友達と思うヤツは一人もいない。
省介自身が友達というもの自体を、不必要と思っているから。
ミニマリストに友達は不要、それが省介の流儀だった。
「……それで?」
個室から出た省介が、小便器の前で用を足しつつ尋ねる。
「……まさか何も用が無いのに、優雅な俺の昼休みを邪魔しにきたわけじゃないんだろ?」
出部は「フッ」と得意げに鼻で笑い、「まぁ、そう焦らしなさんな比田っち」と喉を鳴らすような色めいた声を出して、省介の背後に位置取る。
「……なぁ、デブ、小便中に人の背後に立つなよ」
「んだよ比田っち、俺が信用できないのか?」
「そういう問題じゃなくて……」
「ポニー、テール」
重低音で出部が発する言葉に、ハッ、とした省介は動きを止める。
「……な、お前、それまさか……」
「ああ。ついに念願のこの日がやってきたぞ、比田っち」
「ウソだろ信じられない。……こんなに早くあの伝説の?」
「そうさ、比田っち。急がなければ、昼休みが終わっちまうぜ?」
「しまった」
省介は腕時計を確認し、昼休みがあと半分しか残っていないことに苛立つ。
「どうして早く言わなかったんだこの豚野郎ッ!」
「え、いや驚かせようと……」
「不必要だバカッ! ほら、何してる行くぞッ」
「おいおいー、待ってよ比田っちー」
急いで男子便所を後にし、廊下の喧騒をすり抜けて走る。そんな省介の後ろ姿を出部が苦しそうに追いかけた。
「……天使だ」
「……ああ、まったくもって天使としか言いようがないよな」
百合が原学園、図書室。
大の男子高校生二人が机に突っ伏し、読書を隠れ蓑にある人物へ熱い視線を送る。
長い黒髪をポニーテールにまとめ、制服の上にエプロンを着けて書庫の整理をしている女子生徒、花桐弧雪がその視線の的である。
「……コユたん、やっぱ、あの清楚な感じがたまらないよなぁー、なぁ比田っち」
「てめぇ、デブッ。何がコユたんだ、ふざけるなッ。――花桐先輩だろうが、この無礼者ッ」
「ええー、図書委員とか二年の間では、コユたんで定着してるんだしー、別によくねー?」
「ダメだ。不必要だ」
「比田っちに禁止されても別にねぇ」
「くッ、デブ、てめぇ」
「だれが図書委員だったおかげで、コユたんのポニテが見られたと思ってんの?」
「く、……」
「分かればよろしい」
出部のご満悦な顔に省介は歯噛みをする。
巷で図書室の天使、と称される花桐に省介は恋していた。
恋と言っても、直接会話したことがあるわけでもない、ただ遠くから眺めるだけの淡い片想いだ。
ある昼休みに図書室で見かけてからというもの、気付けばずっと目で追い続けていた。少しでも長く視界に入れようと、偶然を装って図書室に通うようにもなった。そこで知り合ったのが、図書委員の出部だ。
お節介焼きな出部と、情報や接点を求める省介の利害が一致し、花桐について何らかの情報が入るたびに、出部は個室にやってくるようになった。
「比田っちも、図書委員入ればいいのにー」
「……そ、それは……」
「なに恥ずかしがってんのー。『大事な人と過ごす時間のために』って、さっき自分で言ってたじゃーん。温存してんでしょ、エコなんでしょ? なら使わなきゃ。早くしないと誰かに取られちゃうぜ? ……結構いるんだよな、コユたん目的で入ってくるヤツー」
「……何、そうなのかッ?」
「だから別に、比田っちだっていいじゃん、レースはとっくに始まってるんだぜ?」
唇の先を尖らせながら出部が主張する。
そんな出部に、省介は静かに言い返す。
「……でも、ダメだ」
「なんでよ?」
「花桐先輩は、本当に本が好きだから。……だから、ダメだ。図書委員ってのは従来生粋の本好きか、誰かがやらなくちゃいけなくてなるヤツが多い、みたいな感ないか?」
「まぁ、ないことはないね。……言われてみれば」
「てことはだ、じゃんけんで負けて仕方なくとかじゃなく、志願して図書委員になるヤツは、多かれ少なかれ本に対して思い入れがあるヤツ、というのが普通だろ? ……お前だって図書室にエロいラノベを入れるためだけに、図書委員になったんだったよな?」
「その通り。俺はまさしく、そのことのためだけに生きているような漢だからなッ」
済んだ瞳で出部が言い、
「……」
省介は目を伏せ、手元の本に視線を落とす。
「――とにかくだ。俺は本なんかどうでもいい。頭の中は花桐先輩のことで常に一杯だ。そんな状態で図書委員になるってことは、花桐先輩の『新しい本仲間が出来るかも』という期待を裏切るってことになる。かといって、にわかを装って近づくのだって、彼女の本への思いを踏みにじるようなものだ。そんな真似俺には出来ないし、したくもない。……だから、俺は図書委員になりたくないんだ」
「うわー。めんどくせー」
「……う、うるさい」
「まぁでも、そのめんどくささこそが、比田っちの良さなんだけどなー」
言い終えた出部がむーん、と獣のような伸びをして、
その直後だった。
「あのー」
省介の耳に届いたのは、美しく透き通ったソプラノボイス。
……こ、この声はまさか。
「お話中ごめんなさい、ちょっとだけダメ、かな?」
強張った身体でふり返ると、すぐ近くで図書室の天使が、眉をハの字にしていた。
至近距離で視線が交わる。
「ええッ、おおお俺ですかッ!?」
「うん。……あの、突然なんだけど、お願いしたいことがあるの」
「ふぁ、っっえ、えッ?」
突然の出来事にパニックになり、思わず出部の顔を指差す。
「あ、あのッ、図書委員のコイツに、の、間違いではッ?」
「ちょ、比田っち! 絶好のチャンスに何言ってッ……」
「あ、ううん、違うの」
花桐は焦ったように、手を振って否定する。
「いつも助けてもらってるけれど、今回は出部くんじゃないわ」
ペタ、と音を立てて、花桐の上履きが一歩近付いた。
「……比田、くん、だよね?」
「……え、どうして」
呆気にとられる比田に、花桐が微笑む。
「時々、本を借りてくれてたでしょ? いつも図書室に来てくれてるし、……なんかね、いつの間にか名前、覚えちゃったの」
「あ、えと、……そう、でしたか」
言いながら省介の頭の中は、喜び一色に染まる。
(うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!)
……は、は、花桐先輩が、俺の名前をッ!
「それでね比田くん。……もしよかったら、ちょっと手伝ってもらえないかな? その、迷惑じゃなかったら」
「迷惑だなんてとんでもないッ。もちろんです、何でも言ってくださいよッ! 変な遠慮とかは不必要ですからッ」
「……本当? とっても助かるわ」
再び向けられた花桐の笑顔に、省介の顔が赤くなる。
……やべー、なんて綺麗なんだ、花桐先輩の笑顔。
(もしかして、ここは天国か何かか?)
「……あの、じゃあ、こっちへ」
花桐に導かれ、比田は図書室奥の書庫へ向かう。
振り返ると出部がニヤニヤと親指を立てていた。
学校回続きます。。