9.「やっぱり、一枚足りない」
潮が引くように客はいなくなった。アガサ・クリスティの小説のように、誰もいなくなった。
店内はかき入れ時だというのに、もはや開店休業の状況で、陽気なBGMだけが場ちがいに流れていた。
「そんなはずはありません。……だって、盛田さんはちゃんと生きた人間ですよ? 幽霊だなんて、失礼です!」
と、谷原がつめ寄った。
「なんのことだ?」
尾井川は眉をひそめると、赤い衣装姿の盛田 衛が、つけ髭をはずし、
「……その件だが、少々誤解を招くことをしでかしてしまったようだ。谷原さんのためによかれと思い、ちょっとしたサプライズのつもりだったんだ。今思えば不謹慎な冗談だったかもね」と、言った。谷原が眼を瞠り、なにか言いかけたが、盛田は手で制した。「とにかく、弁解はあとでする。まずは尾井川店長の話を聞かせてもらおう」
尾井川は咳払いをした。
「では、ご説明いたします――」
座り込み、作荷台にもたれかかった尾井川のまわりを、谷原をはじめ、盛田、栗田主任の他、道上たちパート従業員たちが取り囲んだ。
柱の異様な人影を眼にしながら、観念した様子で、尾井川は次のようなことを話した。
◆◆◆◆◆
ちょうど二〇年まえ、柴野前店長は、こんな体験をしたとされている。
――元長距離トラックの店員が自殺してからというもの、『いぬい』に異変がおきるようになった。
というのも閉店したあと、五番レジで死んだはずの盛田の姿を見かけるのだと。数人の店員が目撃しており、その怯えようから、嘘をついているとも、見間違えとも思えなかった。
盛田は持ち場であった五番レジで、なにやら躍起になって数を数えているのだという。
このまま放置するわけにはいくまい。
店員がいらぬ噂を広め、士気の低下にもつながる。
柴野は亡霊と接触することにした。いくらこの世ならざるものになったとはいえ、もとはと言えばスタッフであり、長年つれそった部下だった。どうにか消えてもらわないことには、あらゆる面で支障をきたすことになる。責任者としてのつとめだった。
閉店し照明を落とした、真っ暗な店内に踏み込んだ。
一面ガラス張りの窓。
外の駐車場の常夜灯から差し込む光だけが頼りである。
――いた。
たしかに、五番レジにはうしろ向きの盛田が佇んでいた。
しきりに手を動かしてなにかを数えている。
しかしながら、そのうしろ姿は異様だった。
キリンのように首が伸びきり、人外の空気を醸していたのだ。五分刈りにした頭部がまるで玩具の首ふり人形のように揺れている。冷静に考えれば滑稽な眺めだったが、柴野に笑いはこみあげてこなかった。
今さらながら店内に足を踏み入れたのを悔いた。あれに接触をこころみるのは無謀だったかもしれない。
このまま引き返し、家へ帰りたい。布団にもぐり込んで難を逃れようか。明日になれば、ふだんどおりの日常がくり返されるはずだ……。
が、恐怖にがんじがらめにされながらも、店の最高責任者としての使命感が撤退を許さなかった。
ここまで来たのなら、声をかけるしかない。
じっさい、柴野はそうした。
「盛田、そこでなにやってる」と、柴野店長はうわずった声で言った。「なにか問題でも起きたのか? なぜいつまでも居残ってる?」
盛田は一瞬、感電したように背中を震わせた。レジスターのあたりで両手を使って、なにやら勘定していた仕草をとめた。
各レジスターについたキャッシュドロアーと釣銭、売り上げは、閉店とともにレジ締めをおこない、事務所の金庫に保管される。だから盛田が現金を数えているのは理にかなっていないのだが……。
手つきを見ると、あきらかに札を数えているように思えた。それも不器用な札のめくり方だ。しかし柴野の眼には、札は見えない。
盛田は背中ごしに、
「足りないんです」
と、言った。声帯に砂でもつまっているかのような、ざらついた声だった。
「なにがだ」
「一枚、五〇〇〇円札が足りないんです。どうしても見つからない」
「違算が発生したのか?」
盛田はうしろ向きのままうなずいた。首ふり人形の頭部は反動がつきすぎて、文字どおりバネ仕掛けのように揺れた。大型トラックのシフトレバーみたいだと、柴野はぼんやり思った。
「いっそのこと、店長も確認をお願いします。もう一度数えてみますので」と、盛田は泣きそうな口調で言い、一枚一枚丁寧に数えはじめた。札は見えない。「一枚、二枚、三枚、四枚……」
店内に、うつろな声がこだます。
「なあ、盛田。現金の過不足はレジチーフである立花に報告すべきじゃないか――」
と、口をはさんだとたん、
「うるさい、気が散る! また最初から数えなおさないといけないじゃないか!」
「……落ちつけ。どこかそのへんに落としたんじゃないのか? 冷静になれ」
「もう一度、はじめからいきます。クソッ……一枚……二枚……三枚……四枚……」
と、盛田は不器用な手つきで数えた。
「なんだか、番町皿屋敷のお菊の亡霊みたいだな」
思わず柴野が水をさした。
「気が散ると言っただろ! 数えてる途中で口出しするんじゃない!」
「悪い。今度はちゃんと黙ってる」
「クソックソックソッ!……一枚……二枚……三枚……四枚……」
柴野は腕組みして首ふり人形然とした盛田の作業を見守った。
家族も作らず、仕事ひと筋だった盛田は死んでもなおレジ清算業務に没頭していた。その仕事ぶりは、柴野を精神的優位に立たせていた。
生前は接客に関しては口下手で、レジスターの扱いもたどたどしかった。だが、ことサッカーにかけては迅速かつ丁寧で知られていた。清算済みのカゴに商品を収納する際は、寄木細工のパズルを組み合わせたかのごとく、きっちり納めることができた。たびたび客から称賛されたことがあった。高い空間認知能力のなせる職人芸として、柴野は重宝したものだ。
その盛田は死んだ――死んだはずだ。
自殺だった。前立腺ガンが見つかったころには、手のほどこしようがないほどになっていた。骨にまで転移し、余命宣告を受けていたという。それを悲観し、自宅で首を括ったのではないか。
「六枚……七枚……八枚……九枚……」盛田は見えざる五〇〇〇円札を数え、やがて手をとめた。両手がわなわなと震えている。「――やっぱり、一枚足りない」
柴野は懐中電灯の光を盛田に向けた。
わずかに見えるあごのライン。紙のように白い色をしており、無数の青い静脈が稲妻のように浮き出ていた。
「なあ、盛田。こうしよう――五〇〇〇円の不足分は、特別におれが立て替えといてやる。おまえには長年世話になったからな。それでチャラにしよう。だから今日のところは帰ってくれないか。家に帰ってゆっくり休め」
「いくら僕がレジ打ちは得意としていないからと言って、レジ内の現金とPOS記録は一致してるはずなんです。……ですが、単純な打ちミスでしょうか? 今となっては自信がありません。POSレジを導入してからポカミスはかぎりなくゼロに近くなったはずなのに……。もちろん、けっしてネコババしたわけじゃありません。信じてください!」
POSレジのPOSとは、『Point Of Sales』という英語の頭文字を取ったものだ。
客と金銭のやりとりをした時点での販売情報を管理するシステムを搭載したレジ端末である。Wi-Fiなどのネットワークを通して、レジから販売情報を集計。その結果、蓄積・分析されることでサービス・商品を改善でき、店の売り上げ向上や戦略変更の一助となる。現在においては一般的に流通したレジスターであり、従来のレジスターより清算ミスが減り、担当者の不正防止にも役立つとされている。
「ああ、そうだな、信じるよ。ネコババするにははした金にすぎない。まさか責任感の強いおまえが不正するなど思っちゃいないさ。おまえはそんな男じゃない」と、柴野は慰めた。「立花チーフには相談したのか? 立花はお堅い人だからご立腹だろうが、さっきも言ったように、おれが五〇〇〇円ぐらい――」
盛田が勢いよくふり向いた。
顔は真っ黒で表情は読み取れない。ただ、両方の眼球だけが突出して、爛々と輝いていた。白眼にも毛細血管が血走っていた。
「そうだよ! その立花チーフに怒鳴り散らされたんだ! POSレジを使ってて違算が発生するとはなにごとか。あんたがパクったんじゃないかと! 事務所に報告しにいくと、すぐさまポケットのなかを調べさせられた。ご丁寧に財布の中身まで! あいにく万札しか入ってなかったがね! まるで強制収容所に入れられる前の検査のようだ!」
柴野店長は手で制した。
「それで深夜まで居残ってたわけか。どうりで生真面目なおまえらしい」
盛田はヒステリックに髪をかきむしろうとした。が、キリンみたいに高い位置に頭部があるため、手が届かない。ぶざまになにもない空間をかきまわしただけだった。
「そのあとも立花チーフに責められた。五〇〇〇円一枚が足りない! たった一枚のために僕は責任を感じ、自分を殺した! そうとも、僕はたった五〇〇〇円一枚のために、死をもって償った!」
「なんだって――てっきり、病気を苦にしたんじゃないかと思ってた」
「柴野店長、とくと見よ。これが僕なりのやり方だ。死の抗議だ!」