7.ハロウィンの特売日
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やがて、ハロウィンの日がやってきた。
言うまでもなく、毎年一〇月三十一日に行われる、古代ケルト人が起源とされている祭である。
本来は秋の収穫を祝い、先祖の霊を供養し、現世の悪霊を追い払う宗教的な行事であった。現代ではアメリカで民間イベントとして定着し、宗教的な意味合いはほとんど鳴りをひそめてしまっている。それが日本にも普及するや、テーマパークや店舗における、単にお祭り騒ぎするだけの限定イベントとして都合のいいように捻じ曲げられてしまった。
『いぬい』も例外ではなく、この日、特売日企画として開催することになっていた。
儲け度外視した、ばらまきセールである。こういった記念セールは、集客できるわりに、さして店の売り上げは見込めないものだ。イベント当日はもとより、前日の準備からイベント後の片付けにかけて従業員らが総力戦となり、そのときの苦労たるや計り知れない。
レジ打ちのメンバーは、魔女のとんがり帽子をかぶらされ、紫と黒色の衣装に扮していた。
下は短めのスカートに黒タイツをつけていた。本社の方針なのだという。おおかたのパート従業員はイヤイヤ着せられた感がまるだしだったが、道上だけはまんざらでもないようだった。
「どお、似合うでしょ? 女子はいつまでも可愛く見られたいの」
と彼女は言って、片脚を蹴りあげるようにうしろへあげた。
黒いピンヒールの踵が、まるで凶器にも見えた。四十三にもなって女子もあるまい。
「こんな短いスカート、いかがなものかと思うけど」と、佐伯は顔をしかめた。「幹部の趣味がわかるわ。テレビ甲府に流れてるCMも、例の落ち目の女優さんを起用してるじゃない。かれこれ八年以上もよ。大物プロデューサーと舌禍事件やらかして以来、とんと仕事を干されて都落ち。あの女優さんを使い続けるのも、幹部の好みなのよ。実は愛人になってたりして――」
一番レジはあいにく不調のため休止。
二番から五番レジまではチェッカーとキャッシャーの二人体制か、サッカーとのコンビを組ませ、臨戦態勢が整っていた。
ふだん裏方の者たちまでがかり出されていた。五番レジはいつものごとく、谷原と盛田がスタンバイしている。
「なるほどねえ」と、赤い帽子と赤いオーバーオールに身を包み、鼻の下につけ髭を貼った盛田が、さもありなんといった顔で言った。やせ型のマリオとはいえ、なかなか板についていた。「どうりで昨日からあんたの様子が変だと思ったら、そんなことかい。どうも僕ぁ、嫌われてるようだね。よかれと思って、あんたの補佐をやってたつもりだが、現実はそんな甘っちょろいものでもなさそうだ」
「ごめんなさい、疑ったりして」
と、谷原は言って頭を垂れた。とんがり帽子の先端が盛田の胸に触れそうだ。
「ほら、僕を見てごらん。ナイロンみたいにすけて見えるかい? 脚もちゃんとついてら。現に、こうしてものをつかんでみせる。この物理法則はどうやって説明するのさ?」
「ですよね。じっさい、サッカーしてるときも、ちゃんと袋づめできてるわけだし、清算カゴの回収もしてくれています。現れたり消えたりする、気まぐれ幽霊に雑用はできない」
「佐伯さんは、たしかに僕だと名指ししたのかね。だとしたら、人聞きが悪いったらないね」
谷原は手を口もとにそえ、小声で、
「きっと、勘ちがいしてるんだと思います。佐伯さん、いい加減な情報を真にうけて、早とちりしちゃうことが多いんです」
と、言った。
「やれやれだ」盛田・マリオは腕組みしたまま肩をすくめた。「典型的な、朝の下世話なスクープ報道に踊らされてるクチってわけかい」
他のレジ打ちたちは懸命に客をさばいているさなか、こんな話を交わすことができるほど、五番レジだけは閑散としていた。
どうやら、これだけは断言できそうだ――盛田はまちがいなく、生きた人間であり、五番レジに客が並ばない原因ではない。
だとすれば、やはり谷原が生理的に嫌われているから、お客さまが並んでくれないのだろうか? 谷原は思いつめた顔で店内を見た。
顔も魅力的ではないし、性格もどちらかと言うと根暗だ。尾井川が指摘したように、十九にしては覇気がないのは認めざるを得ない。昼間、道を歩くときも、常にうつむいてばかりいた。もっと背筋を伸ばすべきだ。
お客さまにとって、たとえレジの清算ですら関り合いになりたくないようなオーラでも醸し出しているのだろうか?
そういえば、佐伯 充子はこう言っていた。
二〇年まえ、盛田が病気を苦に自殺して以来、五番レジがいわくつきとなったと。
昨夜、尾井川と栗田が乳くりあっているときに洩らした証言と照らし合わせると、まんざら思い込みの烈しいベテラン店員の先走りでもなさそうだ。
それ以降、五番レジを担当する者は、退職の連鎖が続くとのことだが……。
たしかに半年つとめた谷原も、人間関係に悩み、接客業に不向きなのではないのかと落ち込み、なんど辞めようかと頭をよぎったことか。このままだと遠からず、先人とおなじ轍を踏みそうな予感がした。
そもそも盛田が自殺した男の亡霊でないのだとしたら、いったい彼は何者なのだ? まさか同姓同名のはずはあるまい。
彼は飄々とした様子で、鼻歌を歌いながら作荷台を拭いている。
こうなったら、単刀直入聞き出すしかない――。
そう決心したのもつかの間、怒涛の勢いで客が『いぬい』になだれ込んできた。
一番レジは休止中として、二番レジ、谷川と水守。三番、佐伯と赤井、四番、道上と長谷川の体制である。
たちまち、それぞれのレーンに長蛇の列ができた。
各パート従業員がハロウィン特売品めあての客を笑顔でさばいていく。
来客に対する感謝の言葉を並べつつ、内心早くこの激戦区を終わりにしてほしいと店を呪い、ひたすら事務的に、機械的に、客を右から左に送り出していく。
はじめのうちこそ、丁寧に挨拶していたが、夕方のピーク時を迎えるころにはそれもおざなりになり、早くも疲れが見えはじめ、顔じゅう汗で光っていた。魔女のとんがり帽子がずり落ちてきて、邪魔になってしかたがない。
なのに、谷原はそんな先輩たちを援護することができない。
客はポツポツとしか流れてこず、やがて途絶えがちになり、すぐに暇を持て余してしまう。
そもそも、まったく客が並ばないわけではなく、少ないながら、ちゃんと五番レジに来る人もいる。この客の並ぶ並びたがらないの心理の違いはなんなのか? 単にマイノリティな思考回路の人たちなのか?
「盛田さん、どうして五番レジはいつもお客さまが並んでくれないんでしょう。まるで、お客さまの眼には五番レジだけが見えないみたい……」
と、かたわらの盛田に言った。
盛田は腕組みし、うなった。
「わからないね……。まさかほんとうに僕がいるせいで、お客が嫌がるのかねえ。せっかくマリオの恰好をしてるっていうのに、子連れの親子さえ来てくれない。おかげで、てんで浮いちゃってるよ」
「いや……やっぱり、私がブレーキをかけてしまってるんじゃ」
「そんなに思いつめなさんな。いつか客が流れてくるようになるさ。気長に待ちなよ」
と、盛田は慰めてくれた。
しかしながらこの構図は、谷原のアイデンティティーそのものを否定されているかのようだ。
栗田主任が言っていたように、そんなに私は影が薄いんだろうか? お客さまの鼻にも引っかけられないほど。たとえ寂しい独居老人が客だとしても、回避したい店員に映るのだろうか?
「お客さま、五番レジがあいております。会計いたしますので、こちらへどうぞ!」
どれだけ気丈にふるまっても、声が震えてしまう。
道上のレーンに並んだメガネをかけた青年が谷原に一瞥をよこした。
が、一瞬だけ身じろぎしただけで、列から離れるそぶりは見せない。
――なぜ来てくれないの!
青年の次に並んだ身なりのよい老夫婦も、大量の食材がつまったカゴをさげているにもかかわらず、五番に流れてこようとはしない。岩場に張りついた牡蠣じゃあるまいし、列にしがみついている。
――待っているだけじゃダメだ。積極的にこちらから迎えにいかないと。
谷原は五番レジを飛び出した。
背後で盛田がなにか言ったが、聞き取れなかった。
「お客さまのレジカゴをおあずかりしますので、五番レジへどうぞ!」
と、マタニティドレスを着た、おなかの大きい女性客に言った。もはや谷原に笑顔はない。
カートの上にのせた買い物カゴを取ろうと手を伸ばした。
女は尻込みし、悲鳴をあげた。あからさまな拒絶の色を示した。
「けっこうです。こちらのレジでしてもらいますから!」
「でも……どうしてですか? 妊娠されてらっしゃるじゃありませんか。こちらで清算すれば、無理して待つ必要はないのですよ?」
谷原は負けじと力まかせに引いた。
女は歯を食いしばり、カゴを奪われまいとカートに戻した。
「いいんです。道上さんの知り合いですから、こちらで……」
四番レジの道上は仕事に没頭しつつも、谷原を見たが、あえてとめはしなかった。眼の前の客をさばくのに忙しすぎた。
「お願いします、五番レジで清算させてください。お客さまの力になりたいんです!」
「けっこうと言ったでしょう!」と、女は眼をつぶったまま言った。「私はあなたのレジなんか、見たくないの!」
谷原は必死の形相で食いさがった。
「お客さま、どうかこちらへ来てください! こちらにもちゃんとレジが存在するんです! 私だって一従業員なんです! 私の存在そのものがいらないなんて言わせない!」
無理やりレジカゴを奪おうとする。
――こうなったら力づくでもレジまで引っ張っていってやる!
「ちょっと、あなた……。やりすぎよ!」
「どうか私を嫌わないでください! これでも一生懸命やってるつもりです。精一杯お客さまに尽くしますから!」
妊娠した女は頭をふった。
「イヤです! そっちは寒いし、だいいち、臭うの!」
「臭う? なにが臭うっていうんですか……」
谷原にはなにが臭うのか、理解できなかった。むしろ子供のとき、乳臭い体臭がするという理由で、男児たちからいじめられた記憶がよみがえった。
――五番レジは、なんにも臭わないはずだ! 私自身だって!
谷原のなかでなにかが切れた。
「清算させてください! やらせてください! お願いします!」
「よして! 私は身重なんですよ! なにするんですか!」
乾いた音がした。
周囲の店員や客たちが凍り付いた。
谷原は女から平手打ちを受けたのだった。
鈍い痛みが左の頬全体に広がり、じんじん痛んだ。
それで我を取り戻し、カゴを奪うのをやめた。