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6.「やっぱり、私が悪かったわけじゃないッ!」

「とくに飲食店の場合だと、売り上げ不振により、開業三年以内に八〇パーセント以上の店舗が閉店に追い込まれていると言います。それは『いぬい』だって例外ではないと思ってください。ちょっとした油断、慢心でお客さまが足を運んでくれなくなることだってあります。お客さまは『ご意見用紙』に訴えてくれるだけならまだしも、突如として波が引くように客足が途絶えてしまうこともあるのです。どうか気を引き締めて」


 と、栗田主任は『いぬい』の従業員の前で声を張りあげた。

 朝のミーティングだった。

 栗田は宝塚の男役みたいに、後頭部を刈りあげたベリーショートの髪型が似合っていた。目力がみなぎり、同性から好かれるほど性格もさっぱりした三〇後半のベテランだった。一七〇を超えるほど背が高く、大学時代はバレー選手でならしただけあって指導には厳しかった。


 夫は地元大企業の公認会計士。それだけにきっちりした性格の持ち主であり、尾井川店長はもとより、『いぬい』のパート従業員の信頼も篤かった。


「会社やブランドの顔として、お客さまに『また来たい』、と思わせることができるかどうかは、レジの応対がスムーズだったとか、接客が丁寧だったという点にかかっている場合があります。挨拶はどんなに忙しくても、元気よく、感謝をこめて励行れいこうするように。お客さまは商品をお求めに来店されるだけではないのです。時にはお気に入りの従業員に会いたいがため、来られる方も少なくないのです。少子高齢化の波が日本全体に押し寄せています。ましてや地方都市のこの地域においては、消費者の三割強が高齢者の方だそうです。お年を召された方というのは、心のよりどころを失った人が多い。そんな方に寄り添うスーパー『いぬい』になるべきではありませんか」


 谷原や道上、佐伯たちは「はい!」と、言った。


◆◆◆◆◆


 ところが、である。


「影の薄い人っているじゃない。小学校のころから存在感の欠ける子はいるものよ。あの子もそういうタイプ」


 と、栗田は尾井川と二人きりになると、バターがとろけるような甘ったるい声でそう言った。


「たしかに谷原はさち薄そうな顔をしてるよな」と、尾井川はのどの奥で忍び笑いを洩らした。「おれとしては嫌いな子じゃないんだが。なにせ、あばずれレジ打ちどもと比べたら、ずっとマシだ。おれとしてはだな……『いぬい』のイメージをこれ以上落としたくないんだ。ただでさえ他の連中ときたら、いくら言っても厚化粧をなおさず、ホステスかなにかと勘違いしたような女ばかりだ。その点、あの子は清純だし、中和剤になってくれてる」


 栗田は腰に両手をあて、艶然と笑った。


「そのあばずれメンバーに、まさか私は入ってないでしょうね?」


「君は、昼間は貞淑ていしゅくにして、忠実なるおれの右腕だよ」


「だったら、夜はなによ?」


 谷原はあわてて引き戸を開け、書類をしまった小部屋に隠れたのだった。

 けっしてやましい理由があって忍び込んだのではない。五番レジの釣銭用の五千円札がなくなりそうなので、万札を両替してもらおうと事務所に訪ねたのだった。


 あいにく店長や栗田主任はおらず、室内でひとり立ち尽くしていると、昨日のことを思い出したのだ。道上と佐伯のやりとりを。


 ――自殺した盛田もりた まもるさんが、呪われた五番レジの元凶?


 にわかには信じがたい話だった。現に彼は生き生きとした存在感があるではないか。

 飄々(ひょうひょう)たる人物像。風のように現れ、仕事のことで行き詰まった谷原にシェードのような翳りがさしたとき、光をあたえてくれる好人物。

 ろくに友達もいない冷たい職場で、唯一心を開ける男性だった。――谷原の眼には、とうてい幽霊に見えない。


 そう言えば昨日の夕方、彼は現れなかった。今日もまだ姿を見ていない。

 彼は神出鬼没なところがあって、サッカーとして頻繁に手伝ってくれる日もあれば、さっぱり姿を見せないときもあり、行動パターンが読めなかった。


 考えてみれば、事務所のかたわらにあるカードラックに、『盛田 衛』と名前の入ったタイムカードを見かけたことがないのも、不思議と言えば不思議だった。特殊な雇われ方をしているものだから、勤怠の管理も他とはちがう形態なのかと思っていたのだ。いまさらながら、おかしいと感じてきた。

 この件については、直接彼に問いただしてみる必要があった。いや、せっかく事務所に寄ったのだし、尾井川に聞いてみよう。


 尾井川が店長に昇格したのは八年前のことだ。『いぬい』自体には足掛け三〇年在籍しているらしいので、盛田のことを知らないはずがない。じっさい元トラック運転手の男が五番レジを担当し、自宅で自殺したのかどうかを聞くべきだ――と、決意したときだった。


 事務所の外で気配がした。通路を誰かがやってくる。

 谷原は身を硬くした。

 尾井川にちがいない。誰かと親しげに話をしながら、こちらにやって来ようとしている。栗田主任の笑い声がした。


 以前、谷原は事務所を訪ねたはいいが、店長が不在だったことがあった。まごまごしていると、そのうち店長が帰ってきて、


「君はおれがいないのをいいことに、まさか不正するつもりじゃなかったろうな。白状したまえ!」


 と、情け無用で糾弾されたことがあった。

 すかさず谷原は、


「そんなつもり、ありません。レジの精算業務をしたら、一〇〇円が余分になったので、報告しようとしただけであって――」


「売り上げの過不足は、まず栗田に伝えるのが先のはずだ」


「その栗田さんが、マネージャー三級の研修に出かけていて、いらっしゃらないんです」


 尾井川は、ぴしゃりと額を叩いた。


「ああ……。忘れてた」




 そんなやりとりがあってからというもの、事務所でひとりたたずんでいるのはいけないような気がしたのだ。

 だから、とっさに隠れてしまったのだった。

 尾井川たちが事務所に入るのと、谷原が書類収納室の戸をぴしゃりと閉めるのは、ほぼ同時だった。


 これで尾井川たちが出ていってくれないことには、出るに出られなくなってしまった。

 谷原は引き戸を少し開けて、事務所内をのぞき見た。

 乱雑に書類が山積みされたデスクの前で、椅子に腰かけた尾井川に向かいあって、馬乗りになる形で栗田主任がまたがっていた。


 栗田の緑色のエプロンが尾井川の野太い指ではずされた。

 やおらキュロットスカートを脱がしにかかった。たちまち栗田のパンティがあらわになった。サラサラの生地の紫色。スーパーの店員にしては卑猥ひわいすぎた。


「あの子、もたないと思う。いままで五番レジをつとめた人と同じパターンになってる。心ここにあらずって顔を見ればわかるの。じきに落ちるわ」


 うしろに束ねた髪を解きながら、栗田は言った。


「落ちる? どういうことだ」


「五番レジのジンクス。あのレジは呪われてるってことを、店長だって耳にしてるはずよ」


 尾井川は紫のパンティをはぎ取りかけて、手をとめた。


「おれもそれに関しては、最初のうちこそ笑っていたが」栗田の脂ののりきった臀部でんぶを揉みしだきながら言った。指の間から肉がこぼれそうだ。「五番レジの担当が休んだとき、数時間だけ代わりに入ることがある。たしかにあそこは居心地が悪いのは否めないな。妙にあそこだけうすら寒く、腐った魚か肉の臭いが立ちこめてるんだ。消臭スプレーをまいても臭いがとれない。そこにきて、なぜか客が並んでくれないだろ。みんな、一番から四番のレーンには列を作るくせに、五番にだけ移動してくれないんだ。よほどこちらから導いてやらないかぎり、なかなかバランスよくはかせることができない。奇っ怪な話だよ」


 谷原は息を飲んだ。眼のまえのもやが一瞬にして晴れるようだった。


 ――私だけじゃなかったんだ、客が流れてこないのは。


 継子扱ままこあつかいされているような気がしてきたが、店長をもってして、そう感じさせるのだ。とすれば、谷原の接客に落ち度があったわけではなかったのだ――。


「まるで川の流れみたい。五番レジにだけ、見えないダムのような障害物があって、うまく水が流れ込んでこないみたいな」


 と、栗田が言い、尾井川のはえ際が後退しつつある頭に唇をつけた。


「ああ」と、尾井川は腫れぼったい眼でこたえた。「言わんとすることがなんとなくわかる。見えざるなにかが邪魔してるんだ。あそこにだけ特殊な磁場ができていて、物事が思いどおりにいかない。考え方までマイナス思考になりがちになる。だからおれはできるだけ、長居しないようにしている。……これも盛田衛の怨念のしわざなのかな」


 谷原はカビ臭い小部屋で、天敵におびえるリスのように震えていたが、しだいに腹が立ってきた。

 意を決して、引き戸を開け放った。


「やっぱり、私が悪かったわけじゃない!」


 と、言って谷原は飛び出した。

 まさか書類収納室に人がひそんでいたとは夢にも思わなかったのだろう。

 乳くりあっていた尾井川と栗田は、液体窒素を浴びせられたかのように凍りついた。

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