3.谷原の守護天使
道上はあのとおり、厚化粧だが目鼻立ちはととのい、髪の毛はホステスばりに盛っており、耳のまわりを巻き毛にしていた。
四十三歳にしては若々しく、一見するとセレブ風の奥さまが暇を持て余し、パートに出てみました、といったゆとりを感じさせる。が、そのじつ夫はただの電気屋にすぎない。おっとりした性格も相まって、誰とでも気さくに話せることから人気があった。とくに男性客のファンが多かった。口紅がいささか赤すぎるのが気になるところだったが。
尾井川店長はああは言ったが、谷原は胸のうちで吐き気をもよおしていた。
道上のレジにばかり並ぶ例の男性客は、いかにも好色そうな、地面を這いずる爬虫類そのものの顔つきが特徴的だった。
自身の番になると、道上が一心不乱でレジの作業をしてるというのに、しきりに今度、食事にでも行かないか、と口説いているのだ。ロッカールームで道上は、いつも迷惑していると愚痴をこぼしていた。
挙句の果て、谷原は先週、見てしまったのだ。
◆◆◆◆◆
大雨が降った日だった。
客はまばらだった。件の男性客が濡れそぼったまま来店し、例のごとく四番レジのレーンに並んだ。男のあとに客はいなかった。
男の清算時になると、道上を口説きにかかった。
「どしゃ降りの日は客も少なかろうね。なら、疲れもたまってないだろ。今晩こそ、いっしょにメシでもどうだい? 旦那には適当にごまかしてさ。最近、三丁目にしゃれたイタリアンの店ができたそうだ。いまから行ってみないか。おごるよ。今月はロト・シックスでツイててね」
道上ははじめのうちこそ適当にあしらっていた。
男は鼻の下をのばし、しきりに周囲をうかがうように、眼玉だけをキョロキョロうごかしている。
そしてなにを思ったか、ズボンのポケットに両手を突っこみ、股間のあたりをまさぐり出したのだ。
谷原は偶然見てしまった。――汚らわしいったらない!
男は道上が嫌がらないのをいいことに、ズボンの布ごしに自分自身をいじりまわし、ニヤニヤ笑っている。
道上は耳まで赤く染め――五番レジの谷原からは、四番レジの道上は後ろ姿しか見えないので、表情まで読み取れない――、下を向いて商品のバーコードをスキャンし、商品を清算カゴにおさめているが、手つきはいつもよりなめらかではない。
そのとき、助け舟が現れた。
谷原の守護天使――サッカーの盛田 衛だった。
「香織ちゃんの天敵がまた来てるねえ。ホント、懲りない男だよ。ありゃ被害届を出した方がいいね。じゃないと、ストーカーに発展しちまう」
と、谷原のうしろのスペースに入ってきて、買い物カゴを回収しながら言った。いつもすき間風のように入りこんできて、心を見すかすような発言をする人だった。
「盛田さん、また手を貸してやってくれませんか。さすがに助けないわけにはいきません」
「だよね」と、盛田は舌を出して答え、「……あんたの頼みとあればやぶさかでない。いっちょ懲らしめてやりますか。ま、見てなさい」
と、言って四番レジの方へ向かっていった。歩くたび、ひょこひょこと右脚を引きずる癖があった。
盛田は六〇すぎのアルバイト従業員だった。
元長期距離トラックの運転手だったらしく、東名高速で事故をおこして大怪我して以来、後遺症で右脚が不自由なのだという。だから転職を余儀なくされ、流れ流れて『いぬい』に来たそうだ。
主に重量物の荷物を運んだり、裏方の仕事ばかりさせられているようだが、手があいたときや、レジが混雑する時間帯などは、サッカーとして手伝ってくれることがあった。袋づめは迅速かつ丁寧。この陽気な助っ人は、もっぱら五番レジへ突然顔を出して援護射撃してくれるので、谷原は内心頼りにしていた。そばにいてくれるだけで、精神的な支えになってくれた。
言うまでもなくサッカーとは、スポーツの蹴球のことではない。商品の袋づめ担当のことをさす。
基本的に商品の袋づめは客の作業だ。とはいえ、混雑する時間帯において、作荷台で手間取る人がいると、清算を済ました他の客が待たされることがあった。作荷台が円滑に使われることを考え、レジ内で袋づめ要員が投入されることがある。この役をサッカーと呼ぶのだ。
ちなみにバーコードリーダーでスキャンし、会計をする担当をチェッカーと呼び、金銭のやり取り担当をキャッシャーという。
盛田は股間をまさぐる男性客に、そっと近づいた。
が、男はよほど道上にご執心なのか、忍び足で接近する盛田に気づかない。
谷原は眼をまるくした。
盛田は忍者さながら男の背後に近づき、膝カックンを与えた。
男はみごとに体勢をくずし、尻もちをついた。
「???」男はぶざまに床に座りこんだまま、「……なんだいまのは? 誰がやった?」
と、眼を白黒させた。
男は周囲を探したが、盛田はいたずらっぽい顔をして、山となって築かれたカップラーメン特売品売り場の向こうに姿を消したところだった。
谷原は心中快哉を叫んだ。