13.「そうよ、きっと飛んでみせる!」
「よしてください、主任! なにを血迷ってるんです!」と、道上が栗田の両脇に腕を入れて、引き離そうとした。
「これはこれは――様子がおかしいですね」と、桂木。
栗田が般若の形相で道上の搦め手をふりほどいた。あえなく道上は突き飛ばされ、うしろにひっくり返った。スカートがまくれ、青い下着があらわになった。
「柴野店長は手を抜かず、店員の面倒を見てくれた。どんなに忙しくても、僕が死んだあとも祀ってくれた。だから僕は、その好意に報いようと五番レジを守り続けた。なのに、あんたときたらどうだ? 店員の風紀の乱れはきつく注意できないし、ベテランの言いなり。おまけにあんた自身、不倫にうつつを抜かし、店のサービスまでおざなり、数字は落ちる一方だ。それもこれも、あんたがだらしないからだ。自分に甘く、特定の他人には厳しいくせに――」
「わ、わ、わ……」と、尾井川は泡を食った様子でどうにか栗田を払いのけ、「……ま、まさか盛田さん?」
「あんたが店長になったとたん、『いぬい』の評判はガタ落ちだ。なぜそれがわからん!」
「私が悪うございました!」
「いいかげん、眼を醒ませ、尾井川!」と、仁王立ちになった栗田に罵られると、尾井川は姿勢をただし、土下座した。
「申し訳ございませんでした! つきましては心を入れかえ、職務に取り組みますので、なにとぞ……なにとぞ、お許しを!」と、髪の毛が後退し、額の広くなった頭を地べたにこすりつけた。尻はプリッと突き出し、まるで交尾をせがむ動物のようだ。
すかさず憑依された栗田は尾井川の尻にまわりこんだ。
彼女は右脚を思いっきりふりかぶった。
ピンヒールの尖った爪先が、鈍い音をたてて尾井川の尻にめりこんだ。
尾井川は前のめりになって突っ伏した。尻をおさえてうめき、床のうえで身をよじって悶絶した。
「栗田主任に憑りついているのは盛田さんでしょ!」と、谷原は真正面から対峙した。「もう、許してやってください。店長は反省してくれます。時間はかかるかもしれませんが、『いぬい』をきっと立て直してくれるはずです。だから――盛田さんはもう引っこんでください!」
「引っこむ」と、栗田は白眼をむいたままおうむ返しに言った。「僕はなにも災いをおこすために、ここに居座ったわけではないんだよ、谷原さん」
谷原は負けじと、つめ寄った。
「ですが、いまあなたがよかれとやってることは、災いと大差ないことをしでかしています。不幸なことですが、もうあなたは亡くなったはずです。尾井川店長にチャンスをあたえてやってください。きっと、『いぬい』は再建できると思います。どうか信じてやってください!」
白眼の栗田は谷原をにらんでいたが、やがて気を取りなおし、態度を軟化させた。
「……そうか。いささか出しゃばりすぎたかな。真実を突きつけるだけで充分だったか」と、猫背の姿勢で言った。「なら、谷原さん、あんたも力を貸してやってくれるか。そこのみんなも」
谷原や道上、佐伯らは無言でうなずいた。
「盛田さん、あなたの『いぬい』を想う気持ちは痛いほどわかりました。あなたにかわり、私たちが協力してこの店を盛りあげていきますので、どうぞ安らかにお眠りになってください」
「……そうだな。僕も、僕がうけもった五番レジも新しい世代に託さなくちゃなるまいね。いいかげん、すなおに世代交代すべきか」
「ドンとこいでしょ、谷原さんならやってくれるわよ」と、佐伯が言った。
「だったら、谷原さん、あんたにまかした。僕はそろそろ完全引退させてもらう」
「でしたら、盛田さん」道上が乱れた髪をなおしながら言った。「そんな谷原さんに助言してあげて。どんな店員をめざすべきか――」
「わかった」と、栗田は谷原に向きなおり、「……谷原さん、肝心なのは、自分にもっと自信を持つことだ。あんたの接客はちょっと元気が足りないが、それは自信のなさからくるものだ。あんたはけっして器量が悪いわけではない。もっと笑顔をつくって、お客さまと真っ向からぶつかっていくんだ。あんたはもともと魅力的な女性なんだ。そこに気づいて、胸を張って生きな。そしたら、なんだってできる。あんたならうまくやれるさ」
「盛田さん」
『いぬい』のレジの向こうは一面ガラス張りで、駐車場が見える。左側にはダンボール工場が建ち、煙突のついた建物が屹立していた。
そのはるか彼方は、雪化粧をほどこした青い山並が見渡せた。南アルプスの威容である。
しょせん谷原はカゴのなかの鳥だった。
いままで谷原の世界は狭すぎた。くだらない人間関係にとらわれ、客が並ぶ並んでくれないで一喜一憂していた。接客にも自信がなかった。
……が、いまあの山脈を見ると、思わずにはいられない。なんてちっぽけな人間だったんだろうと。
「もう金輪際、あんたや店の邪魔をしない。誓うよ――」と、栗田は言うと、へなへなと床にくずおれた。
尾井川が栗田を抱きおこそうとした。完全に気を失っている。かるく頬を叩いた。
ほどなくして、栗田は眼を醒ました。なにごともなかったかのようにもとの彼女になっていた。
桂木はあたりを見まわした。
さっきまで取り巻いていた怒れる盛田が放つ不穏な空気は消えた。店内に流れるBGMがはっきりと聴きとれた。
「どうやら彼はぶじ去ってくれたようですね」と、桂木はみんなの中心に立ち、言った。「盛田氏の願いどおり、明日から店の再建に望もうじゃありませんか。『いぬい』は落ちるところまで落ちた。ある意味、リセットされたのです。さ、あとは上をめざすだけですよ」
尾井川がうなだれて、
「申し訳ございません。みなさまにはご迷惑をおかけして……」
「店長、やるしかないじゃないですか」と、谷原は言った。「私もお客さまに並んでもらえるような人間になりたいんです。これで本当の私自身の実力がためされるなら、私は挑戦してみたいんです。明日から頑張りましょう!」
「谷原……ありがとう。おまえのようなスタッフがいてくれたことを誇りに思う」と、嗚咽を洩らしながら言った。
桂木がその様子を見て、唇の端を吊りあげた。
「――ではよろしいですかな? これにて、一件落着ー!」と、桂木が言った。
おかしな状況なのに、一同爆笑した。
失敗に終わったハロウィン・イベント。片づけをすませたみんなは店外へ出た。
たわいもない会話をして笑った。また明日から、平凡な日常がはじまるはずだ。が、今度こそ、谷原の真価が問われるにちがいない。
谷原は疲れ果てていたが、ひんやりした冷気が火照った頬にあたり、心地よかった。
風とは空気の流れ。ならばその涼やかな吐息の出どころを見てやろうと、ななめ上に眼を向けた。
鋸刃のような南アルプスが広がっていた。はるか彼方の白い山並から深山颪が吹きかけてくるのだ。
「私はなにを小さなことにこだわってきたんだろう」と、彼女は言った。緑色のエプロンの紐をはずした。「私はカゴのなかでもがいてた鳥だった。きっと明日から飛んでいける。そうよ、きっと飛んでみせる!」
谷原は言うと、エプロンを真上に放り投げた。
了
★★★あとがき★★★
苦しかったとしか言いようがない。苦しいのは毎度のことだけど、本作に関してはひときわ苦しんだ。せっかく前半はノリがよかったのに、後半の落としどころで、やけにもたついてしまった。意図的に伏線をばらまいたはいいが、うまい回収の仕方が見つからず、何度も書き直しするはめになった。これでも説教臭い紋切り型のセリフを刈りこんだつもりだが、まだ鼻につくような気がする……。
次回作のつなぎ兼はずみをつけるべく書いたつもりが、ちっとも気楽に書けず、勢いもつかず、結果的に自分自身で首を絞めてしまった感がある。なんだかミイラ取りがミイラになった気分。予定20000文字が40000文字まで膨れあがり(この計算外の膨れあがりはいかがなものか)、集束のさせ方がいささかメロドラマに偏りすぎたかも。
サブテキストとしてアイディンティティー・クライシスを盛り込んだつもりだが、これもピンボケな気がする。
キリンのような首長の盛田氏に関しては、『恐怖と笑いは知覚領域が隣接しているかもしれない』という、僕なりのホラー哲学を出せたと思っている。だから僕はもっぱらホラーをメインに書く一方、コメディーにも挑戦するのだ(素養があるかどうかは別の話だが)。
なにはともあれ、付き合ってくれた心の広い読者に感謝します。ありがとうございます。