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10.「あるものを納めていただきたい」

 盛田 衛の顔は墨を塗りたくったように真っ黒で、なにがどうなっているのか識別できない。

 ただ頬が濡れているのがわかった。縷々(るる)と涙を流しているようだった。

 懐中電灯の光を顔に当てるのは悪いと思い、彼の足もとに向けていた。裸足だった。バレリーナよろしく器用に爪先立ちになって、バランスをとっているのが見えた。

 盛田の告白を聞き、しばらく絶句していた柴野だったが、ようやく、


「そんなこととは知らなかった。気持ちをんでやれず、すまなかった」と言い、頭をさげた。「だが今となっては、立花を糾弾したところで、おまえが生き返るわけでもなかろう。おまえは悪くない。おまえは『いぬい』で誠実に働いてくれた。だからもう怒るな。自尊心を傷つけてしまったのは、おれが代表して謝る。――このとおりだ」


「店長の優しさに、どれほど救われたか」と、盛田は上を向き、声をつまらせた。「ですが、僕はなにも立花チーフに復讐してやれ、と言いたいわけではありません。たしかに、僕のなかのちっぽけな自尊心は踏みにじられた」


「立花は然るべき処置をとらせる。そしておまえの名誉を守る。明日にでもだ。――だから盛田、もう五番レジに立つのはよせ。心穏やかに、ゆっくり眠れ。おまえはよく頑張った」


 盛田は泣きながらもじもじと身じろぎし、口を開いた。


「僕のなかの自尊心は傷つけられたと言いました。だから、身の潔白を証明するためにあえて死を選んだ。僕はもう働けなくなった。あなたとともに……」


「気持ちだけで充分だ。おまえは卒業したんだ」


「僕が無念に思ってるのはそこです。その一点だけです」と、盛田は力強く言った。「柴野店長、お願いがあるんです。心の広いあなただからこそ頼めることです。どうか聞いてください」


 柴野は眼をうるませて、一歩まえに進み出た。なんだか盛田 衛がいとおしくなり、抱きしめたくなった。


「なんだ、言ってみろ。遠慮するな」


「柴野店長、お願いです。僕をずっと雇い続けてほしいのです。なんだかんだ言って、『いぬい』で働くのが生き甲斐だった。大なり小なり人間関係もあったけれど、仕事人間の僕にとって、ここにいられることがいちばんの幸せだったんです。なにより、お客さまから褒められることが励みになった。こんな不器用な僕でも、必要とされるときがあったのです。――ですから、ずっとこの場に居続けたい。死してそう思うのは罪なことでしょうか?」


 柴野は五番レジの作荷台に両手をついた。


「……わかった。いさせてやろう。おれが許可する」


「ありがとうございます。柴野店長、ありがとうございます」


 盛田は何度も頭を、水飲み鳥のおもちゃのように頭をたれた。




 その夜を境に、盛田は現れなくなるのではと柴野は考えていた。

 おたがいの気持ちは晴れ、盛田が電気を消灯したように見えなくなったのだから、彼は鬱屈した感情を浄化させたのかと思ったのだ。

 翌日、立花レジチーフを呼び付け、盛田に理不尽な叱り方をした件について問いただした。


 違算、マイナス五〇〇〇円に関しては、当日、盛田の昼食時に交代したパート従業員の、単純な入力ミスが明らかとなっていた。それを柴野まで報告する義務を怠ったこともあり、立花に厳重注意を与えた。立花のなかにも、盛田を死に追いやった罪の意識があったのかもしれない。ほどなく彼は自主退職していった。


 ところが盛田の亡霊は深夜の五番レジに、またしても現れるようになった。前回と同じように、見えざる五〇〇〇円札を数え、一枚足りないとうめいているという。


 柴野は、ふたたび閉店後の店内に入り、現代版番町皿屋敷のお菊と化した盛田と向かいあった。


「盛田……どうしてほしいんだ? どうやったら消えてくれる? おまえの身の潔白は証明されたんだぞ。いつまでも金を勘定するのはよせ」


「どうせ、他に行くところがないのです。僕はここにいたい」


「この際だから、ハッキリ言おう。つまりな――」と、柴野店長はてのひらをかざした。もはや否応もない。相手が死んでいようがいまいが、今も上司と部下の間柄だった。「スタッフのあいだで、いらぬ噂が立っている。いずれ、お客の間にも広がってしまうだろう。このままでは来客数が激減するのは眼に見えてる。いちど客足が途絶えると、それを取り戻すのは並大抵のことではないのは、おまえだってわからんわけではあるまい? 最悪、売り上げの低迷が続いてみろ。この支店を閉めなくちゃならない。そうなるのは、おまえだって本意ではなかろう。『いぬい』を愛してくれる気持ちはよくわかった。愛するがこそ、時には身を引くことも考えてくれ」


「僕のせいで閉店される事態は、あってはならないことです」と、シフトレバーのような首の盛田は胸の前で手を組んで懇願した。「安らかに眠りたくても眠れないんです。寝付けない夜があるように、心穏やかになれないのです。柴野店長に慰められ、いっときは気持ちの整理がつき、落ち着くんですが、すぐに元の木阿弥もくあみになってしまう」


 柴野は唸った。


「ここにいられると迷惑なんだ。いいか、盛田――おまえは亡くなった。この世の者じゃない。以前のように『いぬい』で活躍できない。第一、その首はなんだ。そんな姿をお客さまにさらしてみろ。『ご意見用紙』に山ほどクレームを書き込まれ、おれは対応に大わらわ(、、、、)だ。すぐにでも和尚おしょうか神主を呼んで、ねんごろにとむらってやるから、早いとこ成仏してくれ。じゃないと、この店は立ちいかなくなる」


「でしたら、こんな妥協案はどうでしょう」と、盛田は暗い声でしぼり出した。「この店――贅沢を言わせてもらえば、五番レジの前――に、僕の供養塔を設置して、弔ってください。僕はせめて、そこでお客さまがレジを通過するとき、感謝の気持ちを伝える役をしたい。それだけでいいんです。戦力になりたいんです」


健気けなげな奴だな、おまえは」柴野の眼から涙がこぼれた。声が震えた。「よかろう。おまえがそれで納得するのなら、さっそく工事にかかろう。だからそれで満足してくれ」


 盛田は頭をさげた。


「さらに贅沢を言えば、供養塔を建立こんりゅうしたあかつきには、ちょっと細工してほしいのです」


「世話の焼ける男だな。言ってみろ」


「そこに僕の私物が入るだけのスペースを作って欲しい。そしてあるものを納めていただきたい。私物というのは語弊があるかもしれない。言ってみれば、僕の存在意義です」


「……わかった。『いぬい』に奉公してくれたおまえの最後の願いだ。特別にかなえてやる」


 盛田はあるもの(、、、、)を具体的に告げると、霧が晴れるようにいなくなった。

 消え去る瞬間、笑みを浮かべたように見えた。

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