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階段を降りて下層に向かうフォルンの心は沈んでいた。オルドがマラリアを発病し、医務室のベッドで寝たきりになってしまったからだ。キニーネを投与し、ハルクのような非業の死を免れているが弱っていることは確かだ。規則だからといって、病人を地下に押し込めるのも心苦しかった。
「んっ……」
扉から物音がして、フォルンは横を向いた。捕虜室だ。久しぶりにジョンの存在を思い出し、怖々と捕虜室を開けると彼は何事もなかったかのように座っていた。フォルンに気付くと、手まで挙げて挨拶してくる。
「やあ」
「……ジョン、生きていたのか? どうやって?」
「シャイな友達が居てね。小さな相棒のおかげで生きながらえた」
「ネズミでも喰ってのか? そういえば……前も妖精がどうとか、言ってたな」
「それよりも牢屋から出してくれないか。いい加減、運動不足になってきたよ」
「あ、ああ」
錠前を外そうとしたが、フォルンは既に外れていることに気付いた。
そこで、彼はとうに脱獄して船を荒らしまわることで生存していたのだと合点する。やはり、気がおかしくなっているのか。だが、牢屋に戻るほどは律儀だ。
「開いてるじゃないか」
「開けてもらうことが重要なんだ」
フォルンは硬い樫製の牢を開いた。ジョンはうらぶれたチェニックについた埃を手で払い落し、立ち上がって両足で立った。何度かジャンプし、足枷の鎖をじゃらじゃらと鳴らす。
「足は外してくれないのか?」
「それは俺の権限じゃ無理なんだ。多分だけど、副長が知ってると思う」
「頼みに行こう」
「ちょっと待ってくれ。思い出した。君が最初にシーサーペントについて語っていた。そのせいで、この船は酷い状態なんだ。本当に惨憺たる有様さ。どうしたらいい?」
「前にも言ったが」
ジョンは腕を伸ばして柔軟しながら返した。
「オイル漬けの生贄が必要だ」
「生きた人間じゃないとだめなのかい?」
「駄目だ。奴は美食家でな。生きた人間が好物なんだ。食うのをやめさせたければ、おえっ、とするまずい人間を食わせるしかない」
「今の話は本当かな?」
廊下から現れたオルド――薄汚れた病人衣で腹部を押さえながら顔を出した。頬はこけ、栄養不足のせいで血管が浮き彫りになっている。ふらふらな足取りで捕虜室に入ってきて、力なく壁に寄り掛かかった。
「オイル漬けの人間を食わせれば皆は怪物から助かるのかい?」
「確実なことは言えないが、奴は食欲で行動している。俺たちがおいしいエサだから固執してるのさ。クジラやイルカじゃなくて、俺たちが喰いたいんだ。《鮮度》が落ちるから船を沈めないように気をつけてるし、マストもへし折って動けなくしてる」
「生贄を渡さない場合はこのままなのか?」
「生贄がなしなら、この船を火薬で吹っ飛ばして燃やしたらいい。奴はびっくりするし、その隙に大樽に乗って逃げられるかもしれない。それは賭けになる。全員が散り散りになれば、あるいはと言ったところか」
オルドはしばらく考えたあと、静かに覚悟を決めた。
「僕が生贄になろう。マラリアに感染してるし、船の厄介者だ」
「馬鹿な!」
「フォルン。皆が助かるためだ。一か八かは、次の手にしよう」
馬鹿な――フォルンは心の中でもう一度叫んだ。ありえない。わざわざ怪物の生贄になるなんて馬鹿げている。それならば、賭けに出た方がよっぽどましだ。
友達の考えが変わるように説得の言葉を次々に繰りだしたが、オルドは頑なに考えを変えなかった。口論せず、口をきつく縛って意志を固めている。とんだ頑固者だ。病気だからと理由だけで自己犠牲なんて最悪だ。なんとか思い直してもらわなければ。
砲列甲板では食料を巡って喧嘩が始まっていた。毎度のように起きる日常の出来事と化している。
「配分を変えて頂きたいだけです! 我々は平等に生きる権利がある!」
「士官とメニューが違うことは当然のことだ! 反逆罪で処刑されてもおかしくないのだぞ!」
副長はカットラスを鞘から抜こうとしていた。その度に火薬庫長補は苛立ちながら口をつぐむのだが、今日だけは事情が変わっていた。ストレスでおかしくなっていたのか、階段を昇りハッチを開いた。そこは地獄の釜を開く場所とわかっていて、わざとやっている。
「俺がこうして甲板の残骸を集め、薪にしているのです! いいですか、何もしないで命令だけをするあなたの食事を作っているのは誰ですか!」
「やめろ! ハッチを閉めろ!」
ぬらっと現れたシーサーペントはよだれを垂らして待ち構えていた。紫色の体表にはてかてかの油分にまみれている。奇形の海蛇はハッチが狭さのせいで巨頭を突っ込むことができなかったが、代わりに甲板に頭を打ち付けて破壊した。轟音が響き、細切れになった木板が水兵たちに降り注ぐ。頭突きは連続した。水兵たちの身を護ってくれていた天板が崩れていく。
驚いて座り込んだ火薬庫長補の身体は全身で日の光を浴びるほどあらわになった。
しゅるりと海蛇はうねる。
無防備な男は乱喰歯で噛みつかれ、足をバタバタさせながら胴体から上を怪物の口の中に収められた。捕食は数秒ほど垣間見ることができたが、最後は天空へと舞い上がってかき消えた。
砲列甲板に居た残りの船員、ジョンを含む九名は艦長室まで後退して扉を閉じた。
「どうなってるんだ! くそっ! あの馬鹿が大声を出したせいだ!」
「副長、提案が」
「なんだ! 全員で戦うとでも!?」
「いえ、彼がシーサーペントについて詳しいそうで……」
オルドの促しにより、ジョンは同じ説明を全員の前でした。オイル漬けの生贄。志願するオルド。自殺行為ではあるが、副長は止めようとはしなかった。うまくいっても儲けものだし、失敗しても食い扶持が減り、病人の厄介払いもできるからだ。
残酷な裁定にフォルンは身震いした。皆、気が違ってしまっている。生贄? シャーマリズムが間違いだなんてことはもう判明している。文明社会にいる人間の考えることではない。
「それで、油はあるのか?」
「三本ほど持ってきました。その、僕で“足りない”可能性も考慮しまして」
「だが、順当に考えて……最初は発案者である貴様にすべきだな」
副長はジョンを憎々しげに睨み、他の水兵もつられて、まばたきしない目で彼を見つめた。
自分たちの仲間を食わせるよりも、スパイを食わせた方がよっぽど心情的に楽だったからだ。フォルンも口に出さなかったが、そうすべきだと考えていた。
無論、気の毒な話であり、残酷な手段でもある。
ジョンは無言で水兵たちを見据えたあと、両手を上に挙げた。
「言っておくが、俺を生贄にするなら、全力で抵抗する」
「ほう? 一人でどうにかできるとでも」
「止めてください。僕が生贄になると言ってるんです! もう、誰も死んで欲しくないんです!」
叫んだオルドの決心は固く、フォルンはいたたまれなくなった。オルドは油瓶の封を解き払い、頭からかぶり、集団に考える時間を与えないようにした。フォルンは密かにテーブルに置いた一瓶を掴み取った。オルドを生贄にすることは反対だ。どんなことが起こったとしても、絶対にあり得てはいけない。
友達を見殺しにはできないのだ。
ああ、自分勝手だ。
それでも、心からの願いなのだ。
オルドは艦長室の扉を開けた。深呼吸し、勇気を振り絞って心を鎮めようとしていた。怪物に食べられる自分の運命のためか足をガクガクと震わせている。心が決まっていても、身体は反応してしまうのか目尻に涙が溜まっていた。オルドはそれでも歩いていく。
一歩、二歩、三歩、と。
陽光の当たるようになったむき出しの砲列甲板へ死の行進。
そこで、フォルンはシーサーペントの巨体をまざまざと見せつけられた。空の上で身体を巻いてうねりながらも、黒目で獲物たちを見定めている。
無感動な黒瞳はサメのようだ。狡猾さを備えているとは思えないが、人を捕食するための知性はある。のっそりと首が伸びる。無抵抗な生贄に向けて。
オルドは両膝を折って祈っていた。何を信仰していたか今となってはわからないが、自分が食われる前に神に祈りたかったのだ。
もう限界だ。
フォルンはコルク瓶を開き、横に居た男――ジョンにふりかけた。固唾を飲んでいたところで不意打ちを食らい、顔に浴びせられたせいか目を閉じ、足枷のこともあってよろけた。その隙に誰かがジョンをドンッと砲列甲板に押し出した。オルドの前へ。仲間の水兵たちもフォルンの意図を察して協力したのだ。
「すまない」
ジョンに向けて、フォルンは謝罪の言葉を口にした。
本当に心から申し訳ないと思っていた。
自分は死ぬことはできない。農場に残した恋人もいる。親友も見捨てられない。これ以上、仲間には死んで欲しくない。苦肉の選択なのだ。
ジョンは限りなく無実だろうが、敵であると容疑がかかっていて、まったくの見知らぬ他人だ。
殺されたとしてもそこまで心を痛めることはないし、生贄を提案したのも彼自身だ。彼にこんなことになった。責任を取ってもらうべきなのだ。
シーサーペントも物音に敏感に察知した。新たに転がった獲物の方に飛びついた。ジョンは頭から怪物に噛みつかれ、しゃっくりをするかのように徐々に反動をつけ、怪物の胃袋へと嚥下されていく。怪物に対して、抵抗することなどできない。
「フォルン! 君は何てことを!」
「医務室に戻るんだよオルド。君は助かるんだ。キニーネはまだある。安静にしていれば治るんだよ」
「しかし」
駆け寄ってオルドを助け起こした。腕を取り、肩に乗せて安全なところまで運ぶ。
「いいから、俺たちは助かるんだ。助かるためなんだ」
「……僕は君のことを見損なったよ。誰かを犠牲にしていいなんて、いいはずがない」
「誰だって死にたくないさ。だけど、しょうがないじゃないか。俺たちは祖国のためにもこの先、働かなきゃいけないんだ。義務を放棄する気かい?」
生贄を捧げた。
これでうまくいくかまだわからないが、少なくともまだ生きることができるのだ。生きてさえいれば、希望はあるはずだ。