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 丸太に乗った四人は規則正しくオールを漕ぎながら自船へと向かっていた。糸のように細く、淡い三日月のだけを頼りに船を目指していたが、船尾灯の輝きがないことで水兵たちの身に宿っていた昂揚と戦意は失われた。


 それは船乗りにとって遭難を意味するしるしなのだから。


 拿捕されている可能性は急激に薄まった。暗闇に紛れてこっそり行く意味もなくなったので一度、引き返すことにした。手作りの樽に真水を詰め込み、船に持ち帰ることで手土産しようと考えたのだ。真水の樽は海上では浮くので、縄で結んで曳航する。


「おーい!」


 船体に近づくと全員で大声を上げたが、しきたりに従った誰何の声は戻ってこない。

 やむなく三叉の鉤爪付きロープを投げ、舷門にひっかけた。舷側の踏み板(ステップ)を足場にし、火薬庫長補が先陣を切って昇った。


 フォルンはその背中に続き、真っ暗闇の主甲板に降り立つとその静けさに面を食らった。続いて甲板を見回し、ぎょっとした。舷側が崩れ、木っ端にまみれた露天甲板。毎日、床をピカピカに磨くのが水兵の日課だ。滞っているのはありえない。


「おい、おい……」


 潜めた声がした。闇夜の甲板には誰もいない。幽霊の類かと思ったが、違った。靴が誰かに掴まれている。見下ろすと中央に位置し、木板が格子状になっている砲列(ガンルーム)甲板用天板(スカイライト)の下から毛むくじゃらの男が見上げていた。不審に思いながらフォルンは顔を近づけた。


「これはどういうことなんだ?」

「シィー、奴に気付かれる。早く降りて来い」

「奴?」

「フォルン!」


 赤い火が光った。火薬が炸裂する銃声が響いた。オルドが腰を落として発砲していた。フォルンは振り向き、横から迫ってきた巨大なムチを咄嗟にしゃがみこんで躱した。その代わり、打線上に立ち、舷側の水兵が殴られて海へと墜落する。あっ、と声をあげる間もなく姿は消える。


 起こるべき水面との衝突音はしない。


 闇夜に現れた人の背を越えるゴムホースはなんだったのか。黒い影が姿を現したのは一瞬だったが、残された三人は恐るべき何かの存在に気付き、泡を食って船尾ハッチを開けて階段を駆け下りた。


 外側からの強襲から身を護るためには船内がもぐりこむしかなかった。


「こ、これは、なんなんだ!」

「静かにしろ」


 火薬庫長補の叫びに応える人影は暗闇からぬっと顔を出した。船の最高指揮官の次席、副長だ。その後ろにも五名の男たちが佇んでいた。副長は着崩れていない糊の利いた軍服姿だが、焦燥感と苛立ちで顔は強張っていた。


 火薬庫長補は即座に敬礼して背筋を伸ばした。


「サー、帰還いたしました」

「わかっている。お前らは外から来たのか?」

「ハッ」


 副長は広々とした砲列甲板を見回し、誰かの衣服箱に腰掛けた。暗闇であったが、天井に吊り下げられていた大砲が戒めから解かれて発射された形跡があった。水兵たちの私物は倉庫に叩き込まれ、戦闘準備が整えられている。


 いや、戦闘が終わったままの姿なのだ。整頓されておらず、索やハンモックはもみくちゃになっている。かろうじて大砲だけは縄で固定されているが、飾り結びをする洒落っ気もなく、急ごしらえだ。


 残りの三名の男たちは戦いの痕跡を知り、手を組んだ副長が口火を切るのを静かに待った。


「我々は……人食い水棲生物から攻撃を受けている。艦内艇は船員たちの脱出に使った。私は責務からここに残った」

「お一人で、ですか?」


 オルドが信じられない、という風に瞠目した。

 艦内艇は四艇ほどあるが、残らず使い切ってしまうのは異例のことだ。


「いや、十名ほどいたが……ここにいる者以外は食われた」

「戦わなかったのですか?」

「戦ったとも。逃げられなかったからな。相手はすばしっこく、手こずったが……艦載砲で胴部に三発ほど着弾させた。しかし、ぬめり気のある体表のせいか致命傷には至らなかった。絵が得意な奴がいて、怪物の絵もあるぞ。新聞に載せるって息を巻いていたが、死んだよ」


 作画紙に鉛筆書きされた絵が差しだされる。描かれていたのは蛇の怪物だった。顎はなく、黒い線に沿って目が三対ほどついている。丸い口だけが花びらのように開き、口腔には吸盤の突起が無尽蔵に並んでいる。人間を吸い込むような形だ。


 フォルンは冗談のような話をどう受け取っていいかわからなくなった。


「円口類ですね。ウナギの一種です」


 オルドがピントの外れた答えを出した。

 副長は一瞬、頬を緩ませてつまらないジョークを笑おうとしたが、絶望感のせいで笑うことはできなかった。


「体長三十メートルを越すウナギだ。人食いのな。シーサーペントと呼んでる奴もいたが、誰かが“ミスル”と呼んでいた」

「ミスル?」

「スラングになってしまったが、宿り木という意味らしい。しつこく我々にくっつき、全滅するまで離れないことから名付けられた。誰が最初に言ったかわからんが、怪物と呼び続けるよりはマシだったか」

「ヤツメウナギは中型の魚類に寄生しますからね」


 オルドの分析は何の足しにもならなかった。四人は黙ったまま船が揺れるに任せた。副長の話では甲板上に出なければ狙われることはないらしい。敵は忍耐強く、執拗で、船が沈まない程度に攻撃を仕掛けてくるという。腹が減ると『揺さぶり』も激しくなるとのことだ。


 死体は食わず、アリの巣にベロを突っ込むアリクイのごとく生きた人間をさらっていく。


 夜通し、シーサーペントの対策会議が行われた。

 戦う案も出たが、却下された。捕食されて死ぬというのは砲弾で死ぬよりも恐ろしい。次に、生き残るにはどうしたらいいかという議論も終始低調だった。


 食料は九名で少しずつ食べたとしてもあと一ヵ月近くは持つ。空の大樽もあるし、それに乗って島に引き返すのも可能だ。現在では標的になっているが、別の船が通りかかれば変化が起きるかもしれない。


「救助が来る可能性もある。艦長艇はラテンセールが張られた快速艇だ」


 怪物に狙われているというのは最悪な状況ではあったが、幾つかの希望的観測が彼らの心を支えた。だが、舷窓から釣り糸を垂らすのもためらいがちになり、空が明るくなると海面に見える禍々しい背びれと蒼波の下をうねる巨体が偏執的な捕食者の存在を否応なしにわからせる。


 フォルンはもっと確かめてから帰還するべきだったと後悔したが、あのときはどうしようもなかったと諦めた。


 島暮らしが船倉暮らしに移り変わり、転機が訪れるのを待つはずだったが、窮乏がチームワークに軋轢を生んだ。副長が他の水兵よりも多く食糧を食べることが大きな不満の種だったのだ。それに帰還した聡い水兵たちは砲列甲板に沁みている硫黄酢の臭いにも気付いていた。


 それは人間の死体を洗い流すために用いるもので、船内に人間同士の殺し合いがあったことを示す痕跡だった。

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