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熱帯性暴風雨が浜辺のヤシをもぎ取ろうとしていた。衣服や髪をはためかせる豪風は島に吹き荒れている。空を駆ける雷槍が轟音を鳴らして樹木に襲い掛かった。撃たれた幹がみしみしとひび割れ、湯気立つ白煙が舞う。
厚みのある雲は日光を遮り、森は昼間なのに夜のように暗黒だった。
枝葉はしなり、ぶつかり合い、人の叫びのような風音は絶え間なく聞こえてくる。
フォルンは穴倉暮らしをする上で極力、獣脂のロウソクを灯さないことにしていた。そもそも脂身を灯の燃料に使うのに否定的だったし、ブタの脂身を塩漬けにして食べる故郷の料理が大好物だったからだ。
イボイノシシの脂肪を大事に香草漬けにしている。海水から抽出した粗塩をたっぷりまぶした。食べ物がなくなったときのための自分だけの保存食だが、オルドに自慢しつつ分け与えてやろうという気になってきた。
彼は病人の治療にあたっている。
自分は医師の息子だと正体を明かした。薄々と出自が優れていることには気づいていた。
水兵のほとんどは、文字が読めない。
本も読めなければ教養を得ることもない。下士官になれても、士官にはなれない。兵役の義務をこなし、拿捕船褒賞金を貰い、適当なところで海軍生活を切り上げて実家に帰るのが賢い選択なのだ。
ゆくゆくはオルドは狭き門を通り抜け――水兵の隠語で言うところの、投錨口を潜り抜け、士官になれるかもしれない。嫉妬心はあるが、住む世界そのものが違うのだ。納得するしかない。今の間だけでも友情を楽しむのだ。人は役目なしには交流を続けることが難しいのだから。
「持ってってやるかな」
葉に包んだ保存食を片手に洞穴を這い出る。吹き荒れる風雨が出迎えた。全身を雨粒で打たれたせいで戻ろうかと考えたが、フォルンは寂しさに負けた。闇の中にジッと孤独でいるのは彼は耐えられないのだ。濡れ鼠になりながらオルドの住む洞穴を目指すことにした。
かがり火の温かい光が放射された大きな洞窟の中に入ると、すえた異臭が鼻についた。マラリアを発病し、竹のベッドに寝かされたハルクは断続的な下痢と嘔吐に悩まされていた。ベッドには穴が空けられており、臀部の下には桶があり、排泄物を受け取る仕組みになっていた。
「ひどい熱だったから、解熱剤を投与したよ。幻覚のせいか指で体中を掻いて血だらけにするから、暴れないように手足を縛った。窒息する危険のある吐しゃ物は胃袋に残っちゃいないさ」
壁際でうずくまったオルドは疲労感に包まれ、顔つきは死人のようだった。汗まみれのハルクの顔には黄疸が出ている。内臓が蝕まれ、高熱にうなされ、地獄の苦しみを味わいながら悲痛なうめき声をあげていた。
「助かるのかい?」
「キニーネが船にある。おっと、彼に近づかないでくれ。死にたくなければだが」
様子を見ようとハルクに近づこうとしたところで、ストップがかかった。フォルンはもどかしさでたまらなくなって両手をあげさげした。船にあるマラリア治療薬は到底、手に入らない。
「俺に何かすることは?」
「できればだが……ヤシの実を持ってきてくれ。脱水症状にいいんだ」
「わかった。君もこれを食べるといい。元気が出るものだよ」
塩漬けの脂肪の塊を渡すと、葉に包まれた白っぽいものにオルドは視線を落とした。
「サーロか。戦時食だな」
「俺は好きだよ」
「顔がテカテカになるから僕は苦手だが、うん、好意は受け取るよ。栄養価は高いしね」
水兵仲間のためにフォルンは嵐の浜辺に向けて走った。気流は激しくなり、身体を打ちのめす暴風はますます強まっていた。常夏の楽園は雷鳴ひしめく冥界に変化している。大空の暗雲から落ちてくる雨は痛いくらいだ。逆風を受けながら草むらを進むと、日焼けした茶髪がべちゃりと顔にかかった。散髪と髭剃りをしばらく忘れていたのを悔やんだが、強靭な足腰は動き続けた。
風雨と薄暗闇で視界はろくに利かないが、ヤシの実は落ちて草むらに転がっていた。
拾い上げてラクビ―ボールのような球体に穴がないか確かめる。この分では島中の果物が落果してしまっているだろう。食糧不足になるかもしれないが、心配しても仕方がない。
ヤシの実を二つ洞窟に持ち帰り、水気たっぷりのシャツとズボンを脱いで絞った。壁と壁の間にこしらえた縄の衣服架けに吊るし、焚き火の傍に寄る。
「オルド、俺たちは助かるのか?」
「どうだろうね。僕らの頼もしい戦艦であるアン・ルート号の乗組員たちも今頃は敵の砲撃で死んでいるかもしれないから、もしかすると僕らは運が良い方かもしれない」
「また君は悲観的に考えるんだね」
「ああ、どうあっても僕はマイナスに物事を考えている癖があるんだ。父に出会った人がことごとく死んでいったからね。医者としては末端で、終末期の患者の担当だったのさ。人の死を見つめ続けると、気がおかしくなってしまうものだよ」
「どうして海軍に入隊したんだい?」
「家業を継ぐことが決まっていたから、若いうちに危険な冒険を楽しみたかったのさ。医師は尊敬される仕事だけど、お金をたくさん払ってくれる患者におべっかを使わなければならないからね。船乗り生活は新鮮だったよ。友情と厳しい訓練と連帯感があった。自由は少なかったけど、僕の人生における幸福の一つに数えることができる」
「俺は窮屈をお金のために我慢してるだけだよ」
「だが、君は病人のために嵐の中に飛び込んだ。それに病人を労わる心がある。人間の勇敢さを目撃できて嬉しいよ」
照れ臭くなってフォルンは黙り込んだ。二人は沸騰した水を布に浸し、冷ましてからハルクの身体を献身的に拭き、病の感染に怯えながらも少しでも楽にしようとしていた。もがき苦しむ症状が落ち着いてくると縄を緩めた。小康状態に変化したハルクはうわ言を繰り返している。
連日連夜の高熱は収まりかけ、おぼろげな意識で母親の名を呼び、牧草地での仕事を思い出しているのか、ヤギの上手な囲い方を説明するハルクの声が洞窟内に静かに反響する。
二人は睡眠欲に負けて眠りこけた。
朝が来ると、嵐は去っていた。
輝かしい青天と小鳥の鳴き声で目を覚ましたフォルンは出入り口に足を運び、すがすがしい空気を肺一杯に吸い込んだ。
「フォルン、薪を集めてくれないかい?」
「ああ、でも、落ちた果物を集めた方がいいんじゃないかな。潰して酒にすれば少しはマシになるよ」
「いや、食糧よりも薪が先かな。彼の葬儀をしなければならない」
「えっ……」
病床のハルクは死んだ。
介抱のかいもなく、息を引き取った。
残された四名は水兵の伝統様式にのっとり水葬にしようとしたが、浜辺に病原体が散布されるのが恐ろしいのと、遺骸を包む帆布がなかったため、墓を掘ることにした。頭髪と骨の一部を保管し、ハルクが生前に書き溜めた両親への手紙を小包に同封した。
葬儀を終えると島への恐怖と悲しみが四人に暗い影を落とした。視線を交錯させ、顔色を確かめ合う。次に誰がマラリアにかかるかわからないからだ。
「船だ」
それは誰のつぶやきだったか。海上にぽつんと船影が見えた。一か月近い島暮らしで初めて発見した船に男たちは沸き立った。しかも、よく見ると自船だ。自分たちを見捨てなかったのだ。
喜びあいながらも岸部で待ち続けていたが、どうにも様子がおかしいことに気付いた。男たちは冷静に船を観察した。
「前部帆柱が折れてる。まともに張ってるのも大横帆だけだ」
「敵が背後にいるんじゃないか」
「だったらあんな悠長な張り方をするもんか。しかし、どちらにせよマストは立て直す必要があるな。重労働だぞ。俺も五年で一度しかやったことない大仕事になるな」
一時間が経ち、半日が経ち、夜になってもアン・ルート号は接岸する気配を見せなかった。敵を翻弄するために島影に身を潜めるのはテクニックの一つだが、そういった素振りもない。島の男たちは仲間たちがトラブルに見舞われているのだと判断した。
例えば船体に幾つかの穴が空き、船員たちはポンプ作業と穴埋めにかかりっきりになり、余力がない。
例えば疫病が蔓延し、航行能力を失っている――まとも動けるのが六名以下になっている非常に危険な状態だ。
もっとも最悪なので敵に拿捕され、拿捕船員によって航行している可能性だ。それならば最低限の人数しか配備されていないし、操作できる帆の数も限られる。敵領海に戻ってきたのも納得できる。
「どうする?」
「奪われたのなら、取り返すべきだ。病気になぶり殺されるよりも、敵と戦って死んだ方がマシだ。一日だけ様子を見て、丸太に乗って夜襲をかけようぜ」
ベテランの火薬庫長補の提案は誰も反対しなかった。
勇壮な決意を固めた男たちはカットラスやナイフを丁寧に研ぎ、重い革当ての鎧に身を包み、マスケット銃を背中に吊って明日の夜に備えることにした。