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 最下層甲板で長いこと息を吸っていると病気なるとフォルンは信じていた。

 実際、病人や怪我人が発生すると下層の医務室に運ばれる。

 船が沈没したら真っ先に死ぬ場所でもある。喫水線よりも下に位置しており、日光が射しこまず、昼間でも真っ暗闇で死に近い場所だ。


 垢水とカビが織り成す湿っぽい臭いに慣れたはずの鼻も、むせるほど瘴気が漂っている。


 火薬庫の横にある捕虜室にフォルンは足を運んでいた。

 気の毒な敵国人が足枷をはめられて格子の向こう側に座っている。ヒゲもじゃな青年は小舟で航海しているところを拿捕され、牢屋入りした。


 拾った敵国の旗を鍋敷きに使っていただけなので、民間人ではないか、とオルドが推理して語っていたがフォルンも同様の考えではあった。青年は軍人らしくないし、認識票も所持していなかったし、世の情勢にもまるで無頓着だったからだ。


「やあ、ジョン」

「やあ」


 カンテラを片手にパンと水を運んで差し出し口に入れると、ジョンは緩慢な動きで食事を摂った。

 欠員が出たことで捕虜の給仕がフォルンの仕事になったが、新顔が現れてもジョンは待遇が変わることを恐れたり、改善を求めたりはしなかった。


 暗闇の牢獄は心細くないはずがないのに。


「ジョン、運動する許可を求めた方がいい。日の光に浴びることで、リフレッシュできる」


 フォルンは急に親切心が湧いて来て、コクゾウムシのわいたパンをもそもそと食べる青年のために何かしてやろうという気分になった。物静かな態度がオルドと似通っていたし、藍色の瞳には理性の光がきらめていたからだ。


「いや、結構だ」

「真っ暗闇で生活することが怖くないのかい?」

「俺には守護妖精がいるんだ」

「へえ、見せてくれよ」

「可愛い彼女はシャイでね……それに嵐の最中はジッとしていた方がいいんだ」


 妄想の中の女と話しているのか。船乗りの中には頭をおかしくする者もいる。正常な目つきをしていても、どこかが狂っているのかもしれない。


 フォルンは舷窓から見た天候を思い出し、笑いかけた。


「外は青天だ。嵐じゃないよ。揺れていないからわかるはずだけど……」

「嵐だ。もう八人、死んだ」


 オルドと似たことを口にする。ざわざわとした得体もしれない恐怖、それに既視感を覚えてフォルンは押し黙った。八人、その数字は船外に出た人数とぴったり合わさる。ジョンが知っているはずがない。五人の探検隊は別として、朝の発表は半刻前だ。知るよしがない。


 琥珀のペンダントを握りしめた。魔除けの力がある。古木をルーツとする樹液の塊だからそうに違いない。少なくともフォルンはそう信仰していた。強く。硬く。握り締めて愛しのレイラを想った。永遠に一緒にいると約束した癖に、幼馴染の彼女を農場に置いていった。


 祖国のために戦うと決めたときは誇りが全身に満ちていた。

 今では些細な自尊心よりも大事なものがあるのだとわかってしまっている。


 金貨袋さえあれば夫婦生活は順風満帆に迎えられる。向かいの家に住む農夫は貧困のために自分の子供さえも売ってしまった。ああはなりたくはない。そうだ。自分が志願したのは何も間違っていない。


「誰かが死んだとするなら……密偵がいるって……ことかな?」

「いるのはモンスターだ」

「モンスター? どんな?」

「シーサーペントだ」

「……海蛇のデカい奴かい? ああ……だとしたら、俺たちは船に穴を空けられてむしゃむしゃと食べられてしまうだろうね」


 ようやくジョンが冗談を言っているとフォルンは理解してホッと安心した。おとぎ話の怪物の名前は船乗りの間では知れ渡っている。

 ほとんどは海牛の見間違いか、クジラの奇形種だ。


「面白い話だったよジョン。それで……仮にシーサーペントに出くわしたらどうしたらいいんだい?」

「そうだな。逃れるには生贄が必要だ。テレピン油をたっぷりまぶした人間を食わせる必要がある。それで奴は胃もたれするはずだ。美食家だからな」

「君のユーモアは面白いけど、ちょっとしつこいかな。それじゃあ、俺は行くよ」


 フォルンは食器を片づけて捕虜室をあとにした。長居しすぎても仕事に差し支えるし、風の音が聞こえたからだ。無音の嵐は去ったのだ。




 順風が吹いてきたというのに、上陸した一等海尉は戻ってこなかった。期限の二日間は過ぎて三日が経ち、四日目になると艦長は小島に限界まで船を近づける作戦に出た。島の周りを一周しつつ、ボートを見つけようとしたのだが、どこにも見当たらなかった。


 敵の目を欺くためにボートを茂みの中に隠したのだと結論付け、またも有志が募られることになった。今度は船縁からジャンプし、海に飛び込んで泳いで小島に渡るわけではある。接岸し、船底のフジツボをこそぎ落とすために停泊させる案も出たが、艦長は頑として受け入れなかった。


 もしも島に乗り上げて船を固定してしまえば、敵影が現れたときに出足が遅れるし、手足が縛られた状態で格闘戦を挑むことと同義だからだ。何よりもカノン砲で威嚇されながら拿捕されたあと、無様なことに軍船を無傷のまま敵に提供することになる。それは艦長にとって己の死よりもつらい罪科だ。


「君は島に行くのかい?」

「ああ、どうにも船内は辛気臭い雰囲気だからね」

「僕もいくよ」


 パタンと本を閉じてオルドはハンモックから滑り降りた。黒光りする瞳は好奇心に駆られていた。フォルンはちょっと驚いた。能動的なオルドは珍しい。弁髪を揺らしながら支度を整える。褐色の肌に覆われた牡鹿のようにしなやかな筋肉は読書好きとは思えないほど張りつめている。


「海水に入ることになるから、ナイフは防水布でしっかりくるんだ方がいい。靴下も脱ぐんだ。探索班に入りたいなら、自分がしっかりできるってことを上官に見せないとね」

「ああ……しかし、どうして急に乗る気になったんだい?」

「昨日も二人、脱走した。もっとも、僕は脱走とは思っていない。各人の共通点としては夜間の任務で、測深係やオイル補給係といった露天甲板で働く者たちばかりだ。そして、脱走のように大それた真似をするときは、何か兆候があるもさ……冷や汗をかいていたり、緊張していたり、悩んでいたり、思いつめた暗い表情だったりね。でも、昨日消えた人間にはそんなところは皆無だった」

「殺されたとでも?」

「セイレーンの歌声を聞いたのでなければ、その可能性は高い」

「〝船底のジョン〟はシーサーペントって言ってたけどね」

「シーサーペントか。うん。その可能性もあるかもしれないね。全長十メートルを越す大蛇なら、暗闇に紛れ、音も立てず人をさらうことが可能かもしれない」

「巨大海獣を信じてるのか?」

「世の中は不思議な方がいい。何もかもわかってくるときっとつまらなくなる」


 オルドは手提げバッグを担ぐと、フォルンもそれにならった。

 指揮官となる航海士補は十名の捜索隊を結成したが、アピールのおかげか運よく二人は選ばれた。



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