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 帆船は無風下で身動きできなかった。


 風が吹かなければ巨大な木造の浮き輪だ。気まぐれな海流に乗せられて漂流するしかないが、そんな迂闊なことすれば航路から外れる危険もあるし、目的地に向かうどころか遠ざかる危険もある。だから、こういう場合は錨を降ろして素直に立ち往生する。


 投鉛台で水深を測る計測係、船楼で海原の異常を告げる見張係、砂時計を逆さにして時刻を告げる鐘楼係などは通常業務に励んでいたが、帆を操作するために索(縄)を引っ張る係の大勢の水夫たちは、指揮官の号笛を待ちつつ、気まぐれ海風を待ってぼんやりと待機している。


 同僚たちの“運の良さ”を横目で羨ましく思いつつ、非当直だった一等水兵フォルンは船尾甲板(コーターデッキ)であぐらをかき、針を唇で挟んで縫い物に取りかかった。


 手持ちぶさたになると、リネン生地のハンカチに刺繍を施すのが彼の甲板暮らしで唯一の手慰めだった。


 航海時代において、縫い物に男が夢中になることはちっとも恥ではない。


 フォルンの他にも支給品のラッパズボンを縫っている者もいるし、破れた帆布を継ぎ合わせ、帽子を作ろうと挑んでいる強者までいる。洒落者はこだわりたがる。フォルンも負けじと針を動かした。


「ネコがイライラしてるぜ」


 誰かがやっかみながら呟いたので、フォルンは顔を上げた。


 上甲板(アッパーデッキ)に出現したネコ――手足が短く、毛深いのでそんなあだ名がついた艦長は船員たちの荒探しに躍起になっている。ターゲットになるのは士官や下士官の連中であったが、何もすることがない水兵たちも、何かしらの仕事をしているふりをしなければならなかった。


「なぜ偵察部隊を結成しないのかね?」

「ハッ!」


 現時刻の航行責任者である一等海尉は敬礼して身を固くし、沈黙した。どこへ? という質問は許されていない。意地悪な艦長の意図を配下はわかっていなければならないが、陸影は七つほど見えている。現在地は群島地帯だ。直近の小島に(はしけ)を差し向けるのはたやすいことではあるが、哨戒任務は機敏さが命だ。万が一、敵船に発見されたら迅速に行動しなければならない。


 本艦はスループ船だ。砲門は十二門。


 敵地でフリーゲート級と遭遇すれば、派遣した部隊はそのまま損失して計上されるだろう。危険を承知で鉄砲玉として送らなければならない。


「ただちに上陸の準備を致します」

「ただちに? 冗談を言っているのかね? ここは敵の領海だぞ。そのジャガイモしか詰まっていない頭を少しは働かせようと思わないのか? 士官学校での教育はまったく無駄だったわけになるな」


 面と向かっての侮辱に一等海尉は耐え忍んだ。狼狽を顔に出して同情を求めたりせず、必死に頭を回転させた。婉曲な言い回しで部下をいじめたがる艦長との海上暮らしは最低でもあと一年は続く。決して弱味を見せてはならない。ことあるごとにストレス解消の道具にされるはめになる。そうなれば日常は地獄と化す。


「夜間の上陸に備えて志願者を募ります」

「よろしい。君が指揮したまえ」

「サー、イエッサー」


 話がまとまるのは甲板中の人間が聞いていた。


 八十八名の乗組員のうち、上陸の志願者は八割を越えた。

 誰もが酢の臭いがする濁った樽水にはうんざりしているし、新鮮な野菜や果物は一ヵ月近く口にしていない。ぽつぽつと点在する小島には敵が哨戒基地を作っている可能性があるが、そんな気配はなかった。


 敵船はおろか、漁師の小舟や現地住民の釣り船すらいない。

 恐らくは両軍が睨み合うことでできた空間――無人地帯なのだ。


 これは真水や新鮮な食糧を補給できるチャンスだ。

 そう誰もが思っていた。



※ ※


 フォルンの食卓仲間の一人であるオルドは知的な男だった。


 夜になると舷側のハンモックを陣取り、月光を頼りに本を読んでばかりいるせいで荒くれ者ばかりの船乗りの間では孤立していたが、不親切ではなかった。


 文字を綺麗に書くことに卓越しており、皆が大事な人への手紙を書くときに代書してくれたし、文面が思いつかないときに洗練された言葉を提供してくれた。


 その行動が敬意を勝ち取った。船乗りたちは一定の距離を置きつつも彼に文句をつけたり、仲間内から排除しようともくろんだりしない。

 フォルンも最初はオルドに冷たい印象を受けていたが、ハンモックが隣だったので自然と友達になった。


「オルド、君は志願しないのかい?」

「上陸作戦か。気が進まないね。君もよした方がいい」

「なぜ?」

「風が吹いてないんだ。この時期は北方から絶え間なく季節風(モンスーン)が吹くはずなのに、もう八時間も無風下にある。これは極めて異常なことだよ。こういうときは嵐が収まるまでジッとしておいた方が無難なのさ」

「無風なのに嵐かい? 君のユーモアはあまり面白くはないな」

「愉快にはしてないからね」


 ハンモックに寝っ転がったオルドはその気がないのが見て取れたので、フォルンは居住区から階段をのぼり、カンテラの明かりで薄く照らされた主甲板に詰めかけている人垣に加わった。夜の海は墨汁で塗り潰したようにひらすらに暗い。波の音が静かな分、不気味さが増している。


 ただ、甲板上には人間が放つ熱気がむんむんに満ち溢れていた。


 何十人もの志願兵たちは黙って一際高い場所、船首楼に立つ指揮官を見上げた。


 一等海尉は詰襟を正し、鬼のように目を凝らしている。

 乗組員の面構えを一人一人確認し、猥雑な欲望を抱えた――金属製のスプーンを渡すことで原住民の女を買おうとする馬鹿がいないかしっかり確かめるのだ。命令に不服従で、持ち帰る品をつまみ食いするような意地汚いふるまいも許さない。

 

 お眼鏡に叶うようにフォルンは顔をひきしめた。定員は五名だ。そのうちの三人は内定している。選ぶふりをしているが、一等海尉のお気に入りの下士官。士官候補生。ミズンマストのトップ長の三人は日頃の忠節のために決して外されない。


 残りの二枠に滑り込むためにフォルンはわざと背筋を跳ねさせる敬礼をしたが、それはすぐに横の誰かに真似されて意味がなくなった。結局、フォルンが選ばれることはなく、五名の定員は埋まり、悔しい思いをしながら艀を降ろすためにキャプスタン(クレーンを上げ下げする人力動力のようなもの)に押す作業に従事した。


 唯一の救いがあるとすれば、一等海尉は悲しそうな顔をする全員の前で可能ならばイノシシを撃ってきてやると宣言したことだ。血の滴るステーキが百グラム、いや、五十グラムでも口の中に入れることができれば至福だ。イノシシじゃなくてアザラシでもいい。あれはあれでうまいのだから。








 翌朝、総員呼集の鐘が鳴らされた。少年兵たちが小太鼓を叩き、朝駆けの不意打ちに驚いた水兵たちは駆け足で身支度を整えて甲板に整列した。船首楼に立ち、ネコとあだ名のついた艦長にもしも尻尾がついていたら逆立てていただろう。それくらい、不機嫌なオーラを発散していた。


 海事法で定められた艦内規則の条文を副長が読み上げ終ると、その言葉を口に出すのが汚らわしいと言わんばかりに苦々しく発表した。


「昨夜、三名の者が脱走した」


 ゆるやかにどよめきが広がった。

 船乗りたちは自分の友達に欠けがないが確認し合い、何人かが下を向いて腕組みしながら考え込んだ。静粛にするように副長が怒鳴りつけると、ひそひそ声がぴたりとやむ。


「脱走者の名前はリストに記録されている。たとえ本国に帰ったとしてもお尋ね者だ。敵国に保護を求めたとしたならば、自分の母親を刺すことと同じだ」


 副長の生真面目な脅しは乗組員にとってはそこまで脅威ではなかった。正直に自分の本名を海軍に告げるようなことはしないものだし、彼らのほとんどは軍隊に強制的に組み込まれた者だったから、元々がお尋ね者という輩までいる。


 それでも免罪と俸給の機会をみすみす手放して脱走するのは昨晩、陸の臭いを嗅いでしまったからだと共通認識が広がった。志願者になりたくて、なれなかったから泳いで小島に向かったのだ。風がなく、波立ってもいない海を五キロ泳ぐことは心得のある者ならそう難しいことではない。


 三人は自由の身となり、今頃はたらふくフルーツを食べて獣肉に齧りついているかもしれない。そう考えるとフォルンはちょっぴりと羨ましくなった。しかし、敵艦を拿捕して褒賞金を故郷に持ち帰る夢も忘れられない。目先の欲望よりも後々のことを考えるべきなのだ。







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