苦手意識
帝国暦1585年3月29日
神聖アルヴァレン王国 アレステリア学園
一面に広がる青々しい芝生。
芝生の上に敷き詰められた白い大理石の道。
大理石の道の上に立つ三人の少年少女。
その内の一人が、声を挙げる
「君の名前は―本当にレイド・スラッシュ・ヘイルスウィーズ……なのか?」
流行る胸を抑え。
乱れる息を整え。
しかし、頬を流れる汗は拭わず――
光一郎は目の前の少年に問うた。
黒い髪と眼鏡をかけた青い瞳。
背格好と年齢は光一郎と同じ。
白い肌と中性的な顔立ちのために、どこか女性っぽい印象を受ける―少年。
自らを、レイド・スラッシュ・ヘイルスウィーズ――帝国の元第一皇子と名乗った少年だ。
彼は一瞬だけ、ぽかんとした顔になるが、直後に笑い出す。
「ハハハ、なんだよ、それ? 自己紹介で嘘なんかつかないだろ! 変なこと言うなぁ」
「あ、ハハ……そうだな…悪い」
言われてみればそうだ。
いくら初対面とはいえ、相手が「僕○○です」と言っているのに「君本当に○○なの?」何て聞くのは可笑しい、不自然だ。
不審に思われても仕方ない。
だが、幸いにも目の前の少年は、その発言を冗談―あるいわ発言者である光一郎のことを変わった人間だと判断したようだ。
変人と思われたくはないが、不審に思われるよりは断然ましだ。
「じゃあ、君達の名前を教えてくれよ」
不意に少年―レイドが聞いてくる。
レイドは裏表の無さそうな、爽やかな笑顔を浮かべている。
「光一郎――“中嶋”光一郎だ」
しかし、レイドの笑顔に光一郎は虚実で応える。
偽名を名乗ったのだ。
不自然にならないように気を配りながら、自然を意識して虚言を放った。
そんな光一郎の声にもう一人の少女も続く。
「私は“春先”千代と申します」
もう一人の少女も――千代も当然のように偽名を口にする。
二人の名乗った偽名にレイドは―
「中嶋光一郎君と春先千代さん…うん、了解!」
あっさりと信じる。
……良かった…
その様子に光一郎は、表情を崩さぬままに安堵する。
しかし、同時に多少の罪悪感が胸を過る。
とはいえ、それも仕方のないことだ。
決してレイドを騙すために吐いた嘘ではない。
進治からの言いつけで、本名を名乗ったり身元を明かしてはならないのだ。
少なくとも、現時点では。
「じゃあさ、下の名前で呼んでもいいかい? 俺のことも“レイド”で構わないからさ」
そんな光一郎の気も知らず、レイドが涼やかに尋ねてくる。
光一郎としてはあまり馴れ馴れしいのは好きではない。
だが、レイドとの“これから”のことを考えると、親しくなっておくのもありだろう。
「あぁ、俺は構わない」
「私も構いません。どうぞお好きなように」
光一郎の発言に習うように千代も後に続く。
「そっか! じゃあよろしくな、光一郎、千代さん」
……俺は呼び捨てなのね…
馴れ馴れしさを通り越してちょっと失礼じゃないかとも思うが、光一郎も礼節をおもじる方ではないので無礼なのは構わない。
ただ、距離感がどうも慣れない。
「よろしくお願いいたします、ヘイルスウィーズ殿」
「………よろしくな」
今度は、千代が言うのに続いて光一郎も挨拶する。
するとレイドは、
「おう!」
と、笑顔で返してくる。
……無駄に明るいやつだな…
やはり、こういった親しげな輩は慣れない。
……逃げるか…
なので光一郎は、さっさと別れてしまうことにした。
「…じゃあ、俺たちは――」
そう言うと、目の前の道をそそくさと歩いていこうとした。
しかし。
「あ。そういえば二人とも制服じゃないじゃん!」
「……………」
レイドが光一郎の声を遮り、新たな話を切り出してきた。
出来れば今すぐにでも“おさらば”したいが、全く相手にしないのも悪いかと思い、立ち止まってしまう。
「あぁ、まぁな…だから今から制服を取りに行くんだ……」
「あ、じゃあ本校舎に行くのか?」
制服の受け取りが出来る“事務室”は本校舎の一階にしかない。
レイドの発言は、それを理解しての発言なのだろう。
そして光一郎もそれは理解している。
「……あぁ、だから悪いけど俺たちは――」
これで失礼するよ。
そう、切り出そうとした光一郎の言葉は再び遮られた。
「丁度いいや! 俺も本校舎に行くから、一緒に行こうぜ!」
「……………」
レイドの屈託のない笑顔から放たれたその言葉に、光一郎は一瞬固まる。
「……おう……そうか……」
「あぁ、ついでに学園の案内もするよ! まだ分かんないこともあるだろ?」
光一郎はひきつった口元を、笑顔のレイドは全く気にせず楽しげにに語る。
「………じゃあ……頼む」
酷くひきつった―というよりも、明らかに嫌そうな顔で光一郎は苦々しく呟いた。
××× ××× ×××
アレステリア魔導学園は広大な敷地を有している。
具体的な数字で表すと――
縦1キロメトル。
横1キロメトル。
敷地面積1平方キロメトル。
正方形の敷地だ。
魔導士育成機関は世界に一つのみ。
故に、他の施設と比べることは出来ない。
しかし、神聖アルヴァレン王国の象徴である王城と比べると、その敷地面積は二倍の大きさだ。
この広さ、大きさは世界でも有数―
否、近代の建築物としては世界最大だろう。
そんな世界最大の面積を有する魔導学園の敷地は、白く背の高い壁に囲われている。
煉瓦を三メトルの高さに積み上げ、白い塗料を塗った壁は、ただの飾りではない。
将来的に魔導士となり、各国の主要機関で活躍することとなる生徒たち。
現在の社会を根底から支えている、世界最先端の魔導技術。
それら重要な“財産”を、安全に守る目的で壁は存在する。
外敵の侵入を防ぎ、壁より内側が『王国正規軍』の縄張りであることを示しているのだ。
そんな壁にも入り口は存在する。
正門だ。
学園に唯一存在する入り口であり出口でもある金色の門。
大きさといい、その見た目といい、城門と称するに相応しい代物だ。
もっとも実際に、希少金属である“金”で出来ているのではなく、鉄に金の塗料を塗ったに過ぎない。
しかし、門としての―すなわち、入り口としての機能を果たすには充分だ。
その門は、『王国正規軍』の門番が入校を許可した者しか、潜ることを許されない。
そんな厳重な警備が敷かれた門を潜ると、真っ先に在るの建物こそが――
本校舎。
世界唯一の魔導士育成機関の中で、世界最先端の魔導技術の粋が結集された場所だ。
高さ30メトル。
縦幅300メトル。
横幅600メトル。
一般的な建造物とは比較にならない大きさだ。
現にアレステリア学園の中でも、最大の大きさを誇っている。
「やっぱり、でかいよな」
レイドが、歩きながらそう言った。
レイド、光一郎、千代の三人は今、アレステリア学園の“本校舎”という建物の中に入っていた。
本校舎への入り口は、三十メトルの幅と五メトルの高さを取り、十メトル間隔で柱が四本設置された吹き抜けだ。
光一郎達はその吹き抜けの下を通っていた。
本校舎には、全く同じ吹き抜けが東西南北に別けて、四つ配置されている。
四つの出入り口は全て同じだ。
ただ一つ。
南の入り口を除いて。
南の入り口の壁には、学園全体を真上から描いた“敷地図”が掛けられている。
光一郎は立ち止まって、それを一瞥する。
……確かに、でかいな…
敷地図に描いてある学園の建造物を見ながら、光一郎はそう思った。
敷地図は、本物同様に正方形をしている。
正方形の四方の辺は、壁を表して白く塗られている。
しかし敷地図の下の一辺、正方形の底辺に、一ヶ所だけ金色の部分があり、それは正門を表している。
その正門のすぐ上には、横長の長方形をした白い建物が描かれている。
それが、今いる本校舎だ。
本校舎のすぐ上には、白色の円形が描かれており、それは“庭園”と説明書きがされていた。
その庭園を挟んで、右に男子寮、左に女子寮が描かれている。
どちらも白い縦長の長方形で、大きさは本校舎の半分程度。
そして、男子寮、庭園、女子寮の三つの図の上。
敷地図の上辺となる壁に隣接した建物がある。
大きさは男子寮と女子寮よりもなお小さく、他の建物との共通点は白い色をしていることぐらいだろう。
それが“特別棟”。
アレステリア学園、最後の建造物だ。
門を入ってすぐの、本校舎。
中間部の、男子寮、庭園、女子寮。
学園最奥部の、特別棟。
以上の全てが、アレステリア学園に存在する建物だった。
……で、ここが本校舎なんだよな…
光一郎は敷地図上の本校舎を見て、現在地の確認をすると、再び歩き出す。
「光一郎殿? どうかなさいましたか?」
そんな光一郎に、隣から千代が小声で話し掛けてきた。
少し前を歩くレイドには聞こえない声だ。
「いや……別に何でもない……だが」
千代の小声に、光一郎も声を小さくする。
「だが? なんですか?」
歩きながらにも関わらず、千代は光一郎の顔を除き込むように近付いてくる。
その近さに思わず、どきり、とするが声を抑えているので、離れる訳にもいかない。
「や、やつのことだ……」
「やつ?」
光一郎が顎で示した人物を見て、千代も得心がいったような顔になる。
「ヘイルスウィーズ殿…ですか」
「……あぁ」
千代の発した人名に、光一郎は首肯する。
「……奴は…レイド・スラッシュ・ヘイルスウィーズは俺たちの監視対象であり、護衛対象だ」
今回の光一郎と千代の任務の中で、レイド―帝国の元皇子の存在は大きなものだ。
光一郎はそう考えている。
「だから、早く会うに越したことはない―しかし」
しかし、問題が一つ。
「それには、もう少し進治さん達も交えた、入念な打ち合わせが必要だった……」
だから、正直なことを言うと光一郎は、さっき偽名を名乗ったことが適切なことなのかも、分からないでいた。
「確かに……そうですね」
千代も同じ気持ちなのか、頷くと、元々真剣な顔を、更に厳しくして、光一郎に尋ねてくる。
「では、どうしますか?」
千代の目線と声音は、光一郎に訴えかけていた。
どうすればいいのか?、と。
それもそうだろう。
なんせ、初めての“任務”にも関わらず、指示されていない不足の事態が起きたのだ。
誰かに、どうするべきか教わりたいという気持ちは分かる。
だが、それは光一郎も同じことだ。
聞かれても困る。
光一郎もどうするべきか分からないのだ。
そんな混乱だらけの頭に、声が飛んできた。
「おーい、なに、二人で話してんだよ」
レイドだった。
もっと前の方を歩いていると思ったレイドが、目の前に立っていた。
『!?』
……話を――聞かれた!?…
と、一瞬思うが。
「人前でこそこそ話なんて…なんの話なんだよ?」
と、レイドが尋ねてきた。
どうやら、監視対象がうんぬんかんぬんの話は、聞かれていないようだ。
「…いや、何でもない」
「はい、大した話はしていません」
ひと安心した二人は、なんとか誤魔化そうと適当なことを言う。
しかし、逆にそれが不味かった。
「……なんだよ……ひょっとしてなにか、隠して――」
半眼で疑うような態度のレイド。
しかし、次の瞬間。
「―――――ハッ!?」
いきなりレイドが目を見開き、何かに気づいたようにのけ反る。
「そうか……そうだったのか……」
そして驚愕した面持ちで、姿勢を戻す。
……なんだ、こいつ…
大きすぎる独り言に、大きすぎるリアクション。
どっからどう見ても、ヤバイ。
更にヤバイ事に、そんなヤバイ奴がこっちを見てきた。
「……………ど、どうした…………?」
恐る恐る光一郎が聞くと、レイドは眼鏡を人差し指でくいっと上げる。
そして何故か得意気に語る。
「いや、俺としたことが…気付くのが遅かった……悪いな」
「………………なにが?」
急にこちらに対して気を配る素振りを見せてくる。
そんな態度が意味不明で、ついでにちょっと腹立つので光一郎は聞き返した。
「いや、悪い悪い、気が利かなくて本当に悪かったな」
「……いや…………だから、なにが?」
なんか「はいはい、言わなくても分かってますよ」って感じを出しているのが、癪に障る。
「なんだよ、直接言わせたいのかよ~……だから、さ」
レイドが半眼でにじりよってくる。
しかも、ちょっと笑顔だ。
レイドは口元に手を当て、秘め事のように語る。
「お前ら――恋人なんだろ?」
『―――――――は?』
光一郎と千代は文字通り、言葉を失った。
……こいつ、何を言ってるんだ…
何をどう誤解したら、そんな結論に至るのか全く分からない。
「………なんで、そうなるんだ?」
光一郎はそんな思いをレイドに尋ねた。
「えぇ~、だってお前ら仲良いじゃん」
確かに光一郎と千代は十年来の長い付き合いだ。
互いの気心もよく知れている。
だが、それは式島進治という同一の師を仰いでいるというだけのことで、関係性も同輩や弟子仲間と呼ぶのが相応しい。
決して男女のそれではない。
光一郎はその旨を伝えるため、ひとまずレイドの誤解を解く。
「なんだか、誤解してるみたいだが…俺と千代はそんな関係じゃない」
「そうです。私と光一郎殿は、ヘイルスウィーズ殿の考えるような仲ではありません」
光一郎の言葉に併せて、千代も否定の意を示してくれる。
しかし、レイドは――
「いやいや、そんなに必死に否定しなくても良いって♪」
全く納得していない。
「分かるぜ、恥ずかしいもんな、そういうのって」
「いや…ちょっと待て」
うんうん、と一人で頷くレイドに、光一郎はなんとか誤解を解こうとする。
「本当に、俺たちはお前が思っているような関係じゃない」
「分かってるって、光一郎。誰にも言ったりしねぇよ♪」
「だから―違うって言ってんだろ!」
光一郎が、怒気を含んだ声を出すと、流石にレイドも一瞬止まった。
そして驚いたように目をぱちくりさせながら、ほんの少しだけ弱々しい声で話す。
「――なんだよ……怒るなって」
「……あんたがしつこいからだろ」
「分かったって…お前らは恋人じゃない……ってことにしとくよ♪」
渋々といった具合でレイドが折れた。
しかし、反省の色は見られない。
……こいつ…………めんどくせぇ…
光一郎は自分の立場を弁えながらも、辟易とせずにはいられなかった。
光一郎にとってレイドは、監視対象であると同時に護衛対象だ。
光一郎が専門としているのは、護衛でもなければ監視でもない。
だが、護衛の対象となる者と、信頼関係を築くことが重要なのだということは知っている。
だから、レイドとの関係が荒れることを光一郎は好まない。
とはいえ、光一郎個人としては、レイドの無遠慮で自分勝手な性格は、非常に苦手だ。
「それより、二人は制服もらって来なきゃ」
「…………あぁ」
本当にマイペースな護衛対象の言葉に、腹立たしさを抑えて返事する。
光一郎は改めて、辺りを見回す。
やはり、広い。
外から見ても巨大であったが、内観も外観に負けず劣らず、壮大だ。
高い天井と壁、広い床と空間。
その全てが純白に彩られ、あちらこちらに金の装飾品がちりばめられた大理石造りの部屋。
部屋と言うには広すぎる部屋だ。
そんな部屋の真ん中に“事務”がある。
湾曲した四つの台を繋げて、丸い円形を作ってある受付机。
そこに一人の女性が座っている。
鋭い縁の眼鏡をかけた理知的な雰囲気の妙齢な女性だ。
光一郎達が近づくとその女性が話しかけてきた。
「新入生の方ですか?」
抑揚のない声音だった。
良く言えば理性的。
悪く言えば無愛想。
「はい、制服を受け取りたいのですが」
光一郎ではなく千代が受け答えた。
「では、お二人とも学生証を見せてください」
「はい」
「………」
受付の女性の言葉に、千代は頷き光一郎は無言で学生証を見せる。
それを受付の女性も無言で受けとる。
「天道光一郎さんと藤名瀬千代さんですね」
『――――ッ!』
女性の言葉に光一郎と千代は思わず息を呑む。
女性が口にしたのは、学生証に記してある光一郎と千代の本名だ。
偽名を使っていたことが、レイドにばれた。
二人はそう思い、レイドの方を振り向くが――
「……ん? どうかした?」
レイドはなにも気づいていない。
どうやら聞いていなかったようだ。
こいつが馬鹿で良かった。
光一郎はそう思った。
女性の方に向き直ると、女性が折り畳まれた二種類の制服を用意していた。
ブレザー、シャツ、スラックスを光一郎に、ブレザー、シャツ、スカートを千代に渡してくる。
「では、こちらが制服です。学生寮以外では学内学外を問わず基本的に制服を着用してください。それと制服の大きさが合わない場合は、可能限り早く申し出てください」
「承知しました」
「…分かった」
女性から順に制服を受け取り、荷物の袋の中にしまいながら、光一郎と千代は返答した。
そこで光一郎が、ふと思った。
「これは、どこで着替えれば…?」
「お着替えはそれぞれの寮でお願いします。寮の部屋は寮官に聞いてください……それと、寮官からも注意があると思いますが、学生証をしっかり読み校則を遵守するように気を付けてください」
光一郎の質問に答えながら、更に補足を付け足してくれる。
女性の打てば響くような返しは、優秀さの証だと光一郎は考える。
こういう人間は素直に好感を持つ。
「はい、ありがとうございました」
「どうも、ありがとう」
千代と光一郎は女性に感謝を告げると互いに向き合う。
「じゃ、千代。寮に行くか」
「はい……ですが、ヘイルスウィーズ殿は…」
そう言いながら、千代はレイドに視線を向ける。
「……あ?」
千代の視線に沿うように、光一郎もレイドに視線を向ける。
すると。
「なぁー、マーサさん」
と、受付の女性に話し掛けている。
マーサとは受付の女性の名前なのだろう。
「なんです? ヘイルスウィーズくん」
反応してはいるが、マーサは目を伏せている。
まともに話を聞く気はないようだ。
だが案の定、レイドはそんなことは気にしていないようだ。
「いやさー、エレン見なかった? 探してるんだけどいないんだよね~」
「知りませんよ」
レイドの言葉に、マーサはピシャリと言い放つ。
「え~本当に?」
「本当ですよ」
「えぇ~、そうなの~」
『…………』
レイドとマーサのやり取りを、光一郎と千代は黙って見ていた。
なんだか良く分からないが、レイドはレイドで用件があるようだ。
「光一郎殿、どうしますか?」
千代が光一郎に判断を仰いだ。
「よし、放って置こう」
光一郎はその光景を見て即断する。
残念だが仕方ない。
レイドにも用事があるのだ。
同行を強制することは出来ない。
……というか、もう着いてきて欲しくない…
そんな本音はもちろん口には出さない。
「よし、じゃあ行くぞ、千代」
「……はぁ、分かりました」
千代は光一郎の言葉に納得仕切っていないようだが、そんなことは知らない。
さっさと逃げてしまおう。
事務の受付を離れ、入り口とは反対の出口へと向かう。
「あれ? おーい、光一郎? 千代さん?」
おいてけぼりにされたレイドがこちらに呼び掛けてくる。
「おーい、待てよぉー」
「光一郎殿…ヘイルスウィーズ殿が呼んでいますが、よろしいのですか?」
千代が光一郎に尋ねてくるが、それに光一郎はすました顔で答える。
「そうか? なにも聞こえないぞ? 」
「……そうなのですか?」
「あぁ、お前の勘違いじゃないか?」
「そう…なのですか?」
「あぁ、そうだろ」
「そうですか」
一体今のやり取りでどう納得できたのか知らないが、千代は納得したようだ。
千代が天然で良かった。
光一郎は初めてそう思った。
××× ××× ×××
千代とは庭園で別れた。
光一郎は男子寮に、千代は女子寮に行くからだ。
色とりどりの草花が植えられた花壇が数多く配置されていた、円形の庭園。
たくさんの生徒で賑わっていたが、光一郎は誰とも関わることなく男子寮にやって来た。
……ここが男子寮か…
目の前に聳える建築物は、純白の壁に金の装飾品が配されている。
アレステリア学園の建造物は、全てこのような作りなのだろう。
本校舎と比べても全体の大きさは三分の一程度だが、高さ自体は変わらない。
……さっさと済ませよう…
早く制服に着替えて、千代と合流して“やること”をやらなければならない。
光一郎は男子寮の入り口に足を踏み入れる。
中に入ると、白やはり壁や天井は白い大理石だった。
しかし床には、青い生地に金の刺繍が施された大きな絨毯が敷かれていた。
光一郎はその絨毯に足を乗せ、毛糸の形状を変化させる。
「お? おめぇ誰だ?」
不意に右から声がした。
反応して振り向く。
そこには上半身だけの男がいた。
とはいえ、本当に上半身だけではない。
壁に受付のように四角い穴がくり貫かれ、向こう側が小部屋になっている。
そこに男が上半身だけ見えるようにして立っている。
「なんだ? おい名乗れよぉ?」
よれよれのシャツを着た茶髪の男。
年のころは四十代。
全体的にやる気の無さそうな印象を受ける。
「…すみません、俺は新入生です」
光一郎は男に促されて学生証を提示する。
「おお、そうかー。で、名前は?」
「……天道光一郎です」
一瞬、偽名を名乗ろうか迷ったが、学生証には本名が書いてある。
それに事務局のマーサにももう知られている。
ここは偽らない方が良いと、光一郎は判断した。
「天道光一郎…か、部屋は206号室…二階にあがってすぐだ。もうすでに入居者が居るから、仲良くしろよ」
「はい」
……まぁ、そいつによるけどな…
男から部屋の鍵を受け取りながら、光一郎は内心で呟いた。
「俺の名前はジェームス・プルーフだ、別に覚えなくても良いぞぉ。ただの寮官だからなぁ。……あ、だがな、学生証読んで校則を頭にいれとけよ? 問題起こしたら殺すからなぁー」
なんともやる気が無さげに寮官の男、ジェームスは言ってきた。
「……あいよ」
どうやらあまり気を使わなくて良い相手だと判断した光一郎は、敬語を使わないことにして歩き出す。
すぐ近くにある階段を登り出す。
床だけでなく、その延長線上である階段にも青い絨毯が敷かれてある。
二階に上がると、部屋は本当にすぐだった。
扉をノックするが中から返事は返ってこない。
扉には鍵もかかっている。
どうやら、入居者は部屋にはいないようだ。
鍵穴に鍵を挿し込み、鍵を開け、扉を開ける。
入ると部屋は予想以上に豪勢だった。
右手前には台所。
反対側の左手前には二つの扉があり、開けてみると、一つはトイレ、もう一つは洗面所と浴室だった。
それらの奥に行くと、またしても右と左に別れていた。
右半分は食事用のテーブル一つと四つのチェアが置かれていた。
壁で仕切られた左半分は、広い空間に二つのベッドと二つのクローゼットがある。
よく見ると、ベッドは二つの内の一つはシーツにしわが出来ている。
使われた形跡がある。
クローゼットも片方には服が入っているみたいだ。
どうやら入居者がいるのは確からしい。
どんな奴なんだろう。
そんなことを思いながら、光一郎は荷物の袋を開けて制服を取り出す。
荷物をしわが出来ていない―つまり未使用のベッドの上に投げる。
次にジャケットも乱暴に脱いでベッドに放る。
更に、シャツ、スラックスと続いて脱ぎ捨てる。
履いていた革製の靴だけは、その場で脱ぐだけにとどめる。
光一郎の無駄な贅肉の無い、引き締まった身体が外気に晒される。
光一郎は軽く伸びをすると、思わず欠伸がでた。
ふぅー。
と、吐息をして気分を入れ替え着替え始める。
制服である白いシャツを手に取り腕を通し身に付ける。
スラックスとブレザーも、順に身に纏い身なりを正す。
……さて…
これで準備万端だ。
後は千代と合流して、“やること”をやるだけだ。
さっさと行こう。
そう思い脱ぎ捨てたスラックスから、部屋の鍵と学生証を取りだし、ブレザーのうちポケットにしまう。
……あ、そうだ…
そういえば、この部屋にはもう一人の入居者がいる。
それならば光一郎の私物はちゃんとしまっておこう。
そう思い直し、光一郎は衣服と荷物を乱雑に纏めると、使われていないクローゼットに投げ込んだ。
……これでよし…
と、光一郎は扉に向かって歩き出した。
しかし、光一郎が、扉に着く前に―
扉が開いた。
「あれ? 光一郎?」
そしてそこに一人の生徒――レイドが立っていた。
「……え?」
光一郎は疑問の声をあげる。
何故、こいつが居るのか?
そんな疑問だ。
しかし、その答えはもう出ていた。
「やっぱり! 新しい入居者って光一郎のことだったのかぁー」
レイドはそう言うと、部屋の中に入ってきて、光一郎が使っていない、もう一人の入居者のベッドに腰かけた。
……やっぱり、そうなるのか…
この部屋の元々の入居者は、どうやらレイドだ。
……うわぁぁ、まじかぁ……
任務を遂行する上では、帝国の元皇子と同室というのは、望ましいのかもしれない。
だが、光一郎個人としてはこの無駄に馴れ馴れしい男と同居というのは、絶望的な気持ちになる事実だった。
「いやさ、ジェームスさんに『新しい入居者が居るって』聞いたときは、もしかして、って思ったけどやっぱり光一郎かぁ」
「はは……………よろしく」
「おう! よろしく!」
光一郎の重々しい表情に気付かないのか、レイドは心底嬉しそうにしている。
その顔がまた面倒くさそうで、光一郎は嫌になる。
「じゃあ……俺ちょっと用があって出てくるから」
光一郎はそう言い残すと、レイドに背を向け、部屋の外に出ようとした。
だが、その時レイドが突如、大声を出した。
「…ああっ!? 待てよ光一郎!」
「………なんだよ?」
背後からの声にも辟易としたが、何よりもレイドに話し掛けられたことに光一郎は嫌悪感を隠せずにいた。
光一郎が振り向くと、光一郎に反してレイドは、至極深刻そうな顔をしている。
「お前……まさか、用事って……」
そこまで言って、レイドは生唾を呑み込む。
額に汗を滲ませ、まるで命の危機でもあるかの如く――
「………デートか………!?」
と、言った。
深刻そうな顔が、そういう芝居だと遅れて気付いた。
「…………………はぁ……………」
光一郎は、もう溜め息を吐くことしかできなかった。
怒りや嫌悪を通り越して、呆れしか抱かない。
「お前、今から……千代さんと王都で遊びまくるんだろ!?」
おふざけとはいえ、そんな馬鹿げたことを真面目な顔で言っているレイドに、光一郎はまた呆れの気持ちが募ってきた。
「……だから、俺と千代はそんなんじゃない………無駄話をしてる暇は無いんだ、俺はもう行く」
これ以上付き合いきれない。
光一郎はその一心で、外に出ようとする。
「あ、待てって! ごめん、今のはなし! 今度は真面目に聞くからさ! お前が出掛けるのってさ――」
レイドが何か言っているが、どうせ下らないことだ。
おふざけや冗談に付き合っている時間は無い。
故に、光一郎は反応せずに、扉のを開けた。
――――しかし。
「お前が偽名使ってるのと関係あんの?」
ガチャ。
ドアノブの音が綺麗に響いた。
それくらい部屋が静かになった。
「………………………え?」
そんな静寂の中に光一郎の声が通った。
光一郎は開きかけていた扉を閉めて、後ろに振り向いた。
しかし。
そこには知らない男がいた。
否、見た目は知っている。
黒い髪。
眼鏡をかけた青い瞳。
中性的な顔立ち。
間違うことなく、“レイド・スラッシュ・ヘイルスウィーズ”。
しかし、その男からは先程までのレイドのおちゃらけた雰囲気は無い。
真剣な眼差しと表情が、真っ直ぐに光一郎を捉えている。
全く知らない男だった
そんなレイドの口が開いた。
「おいおい、そんな顔すんなよ。天道光一郎」
光一郎は今、自分がどん顔なのか分からない。
驚愕と衝撃に歪んでいることは確かだろう。
だが、それよりも重要なことがある。
「なんで……知っている」
光一郎の震える声音が示すのは、名前だ。
何故、レイドが光一郎の本名を知っているのか。
「なんでって、マーサさんが言ってたじゃないか」
平然と答えたレイドに、光一郎は何も言えなくなる。
あの時、既に聞かれていたのだ。
あの時、レイドは既に光一郎と千代の本名を知っていた。
それをレイドはおくびにも出さず、今の今まで何事もないかのように振る舞っていた。
その事実に光一郎は言葉を失う。
この男は。
目の前の男は。
ただの馬鹿ではない。
ただ失礼で無遠慮なだけの人間ではない。
もっと、もっと深く、人には悟られない考えの元に行動している。
光一郎はレイドに対して、迂闊な行動は取れない、と悟った。
「で? なんで偽名なんか名乗ってんの?」
レイドの問いに、光一郎は答えない。
否、答えられない。
こんな不足の事態にどうすべきか分からないのだ。
正直に答えた方が良いような気もする。
しかし、進治に判断を仰ぎたい。
そこで、光一郎は―
「今は…言えない」
不安ながら戸惑いながら、そう言った。
あるいわ、この返答次第で、レイドの機嫌を損ね監視も護衛も行えなくる可能性もある。
だから、光一郎は死ぬほど緊張して、レイドの反応を見るが―
「そうか、分かった」
と、レイドはあっさりと了承した。
「……え?」
思わず聞き返す。
「いや、ちょっと気になっただけなんだ……訳ありなら俺に言えないようなこともあるだろう? それを無理に聞いたりはしないよ」
拍子抜けというか、なんというか。
光一郎の予想に反して、レイドはなんとも爽やかに微笑んで見せる。
「……そうか、すまん」
「謝らなくていいよ、俺こそ済まない」
返す言葉が見つからず、謝るしかできない光一郎に、レイドは更に優しさを施す。
なんだか、こいつのことを誤解していた自分が恥ずかしくなってきた。
「……じゃあ」
光一郎はそう言うと逃げるように、外に出る。
「いってらっしゃい」
後ろから掛けられたその言葉。
いってきます、と返すのが正しいと分かりながらも――
光一郎には“抵抗”があり、その言葉が出てこなかった。
まるで友人のように振る舞う。
その事への“抵抗”が拭えなかった。