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  作者: 松明
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○ 竹下希望 2日目の昼


 深夜の運命的な出会いから、一日を挟む。今は、つまらない共通教育の講義中だ。

 『分子は世界』。よくわからない講義名だった。自分たちの学科の先生の講義だったから取ったものの、予想以上につまらなかった。友人とはいえないまでも、わりと学科の中でも仲のいい人間は、すでに来なくなってしまっていた。

 教室を見渡しても、生徒は一回目の講義の半分もいなかった。寝ている者も目立つ中、先生はクーロン力がどうたらと板書していた。一応、ノートはまじめに取っておく。

 気に入らないやつが一人この教室にいるのも、僕をこの教室から遠ざけたくさせる、一因だ。生徒が少なくなっている中、あの不真面目なやつが残っているとは、どういうことだろう。

 ――あいつと顔を合わせるのなんて、サークルだけで十分だ。

 僕は横の鞄に視線を移し、抜け出そうか、なんてことを考えた。


 あの日から、二日だ。

 あの夜は日が昇るまで彼女を眺めて、いつの間にか彼女を握ったまま眠ってしまった。

 起きた時は、当たり前に驚いた。なんせ横向きに寝ていた僕の目の前には腕があり、僕の顔に触れようと、小指の折れた手を向けていたのだ。正直、背筋が凍った。

 しかしすぐに怖がってしまったことを恥じた。彼女の美しさを十分に知っておきながら、彼女と向き合ったまま彼女を怖がってしまったのだ。

「ごめんね」

 僕は彼女に謝り、手の甲にキスをした。

 彼女の『端』はもうほとんど血液が凝固しており、血は滴っていない。しかし、寝ている間に強く握ってしまったのか、中身が昨日よりほんの少し出ていた。僕はまだ固まりきっていない端を少し舐め、机の上に置いた。

 鉄の味がした。なんて思いながら顔を洗って歯を磨き、フローリングの彼女の血を拭き取った。時間が経っているせいか、なかなか落ちなかった。

 苦労して拭き取ったときには、もう午後の二時を過ぎていた。

 それから、愛用のデジタル一眼で、彼女の写真を撮ることにした。

 テーブルの上。ベッドの上。ベッドの下。僕の手のひらの上。ベランダ。冷蔵庫の上。シンクの中。家のあらゆるところで彼女に横たわってもらい、撮った。

 光の量にも角度にも、凝りに凝って撮りに撮った。玄関の前に佇む彼女、シンクの中からこちらを見返す彼女の写真は、僕のお気に入りとなった。

 満足したというか力尽きたところで切り上げた時には、六時を過ぎていた。

日曜の夜だ。さすがにお腹が空いたのでご飯を食べたかったけれど、食材が尽きていたので、買い物に行くことにした。彼女を連れて行くのも不安だったが、誰に見つからないとも限らない。

 バッグに入ってもらい、一緒に行くことにした。温暖化の影響でレジ袋も有料となったので、バッグを持っていても不自然ではない。いつもは使っていないが、まぁ怪しまれもしないだろう。

 拍子抜けするほど簡単に買い物は終わり、少し安心したので帰りの車内で彼女には、裸で助手席にいてもらった。ドキドキした。

 カレーを作った。料理をしているときは、彼女にはすぐ横の冷蔵庫の上にいてもらった。他人がずっと横にいる状況で料理するのは初めてで、少し緊張した。肉を出刃包丁でブロックの形に切る際に、指を、少し切った。舐めてみたが、彼女の血との味の違いはわからなかった。

 僕の作るカレーは美味い。料理ができる男はモテるらしい。彼女はどう思っているのだろうか。

 一緒にテレビを見ながら、完成したカレーを食べた。

おいしかった。

 この日は、ほとんど彼女と過ごした。一緒にテレビを見てネットサーフィンをし、料理をして食べた。眠るときは、彼女に毛布にくるまってもらい、冷蔵庫に入ってもらった。

 冷蔵庫に、一本の腕。

 もう彼女には栄養の摂取も不要な物の排出も出来ない。それが腐敗の原因になるのかは知らないが、まぁとにかく腐敗を防ぐためだ。毛布にくるんだのも急に低温から常温にやると、腐敗が早まりそうな気がしたからだ。両方とも素人考えではあったけれど、何もやらないよりはマシだろうと思った。冷蔵庫に入った彼女も、撮らせてもらった。これも、お気に入りの一枚になった。

 不思議に(不気味に?)思ったかもしれないが、僕はあの腕を彼女と呼ぶことにした。

 一応断っておくが、彼氏彼女という意味の(つまりは恋人という意味の)彼女ではない。

 テレビやパソコンの前で、僕は彼女に話しかけた。部屋にいるときはだいたい一人だったので、家で他人と何をするのも久しぶりだったのだ。

 彼女が座る場所は、僕の右であったり左であったり、膝の上であったりした。

 動画サイトやテレビを見て、

「こい、すごくおもしっかね」と笑いかける。

「・・・・・・」と彼女は沈黙で返す。

「久しぶりに見たけどワイドショーってさー、見よったら殺意のわいてこん?」と言うと、

「・・・・・・」という風に沈黙で返してくる。

 僕は話しかける度に彼女に向き直って話しかけたが、彼女から言葉が返ってくることはない。

 しかし、彼女を見ていると何かを感じているように思えるときがあるのだ。それは僕が話しかけて彼女を見たときにあったし、時には僕が画面を見ているときに、何かを主張しているような雰囲気を発しているときもあった。それは言葉にできるようなものではない。けれど、無理やり説明してみるなら、何も感じていないであろう時の彼女と、何かを感じているらしい彼女とは、微かにだが確かに、何かが違う気がするのだ。

 要するに、僕は彼女に人格を認めているのだ。もしかしたら、農業をする人や陶芸家が『土に話しかけると返事が返ってくる』と言うようなものかもしれない。しかし、彼女は自分から発することもあるし――。

 まぁ、正直そんなことは僕にはどうでもよかった。大切なのは、彼女といるときに僕が他の誰といる時よりも喜びを感じていることなのだから。


 相変わらず、先生はつまらない授業をしていた。

 クーロン力と分子間力は、違うらしい。

「それにしても、退屈な授業やね」椅子のほとんどが埋まらない授業でつぶやく。

「・・・・・・」

 鞄の中の彼女が、沈黙で答えた。

 そうだ。今夜はドライブに行こう。そう、決めた。


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