主人公にはなれない
昔から「普通」と言われ続けて生きてきた。
そして私はそれが真実だということも自覚できている。非凡な能力なんて持ち合わせたことも今まで無く、非現実的な経験なんてしたこともない。
きっと、それを言っている人たちに悪気は無いのだろう。悪気の無い人間に対して、些細なことで起こるのは普通ではない。だから私は彼らを咎めることはしない。
「なんだそれ、怒りゃーいいじゃねえか。気に入らなかったんだろう?」
私の最近できた知り合いは、学校の屋上の鉄柵に背を持たれながらそんなことを言った。表情にはあたかも当たり前のことを言ったはずだ、という意思が滲んでいる。
そんな態度に呆れて、ため息を挟んでから口を開く。
「あなた、本当にわかってないね。そんなことを言ったらどうなると思う?」
「どうなるんだ?」
「『えっ、なんでキレてんの?』ってなっちゃうの」
彼らの言葉は薄っぺらく、すぐにでも破り捨てられるものなのだ。だから、その言葉を本気で受け止められるとどうしようもなくなってしまう。
「別に……怒るくらい構わねえだろ」
そのとおりだと思う。怒るということはいつも悪いとはいえない。むしろ怒の感情を押しとどめる人間のほうが怖いともいえると思う。けれども、だから何時だって自由に怒っても良いというわけではないのだ。
「時と場所によるよ。女子高校生において、怒るっていうのはそういうこと」
無難に普通に、私はそう返しておく。本当のことを最近合ったばかりの人に言う必要なんてない。喉の奥で本音を食いとどめた。相手のほうはそんな私の心情を読み取ったかのように言葉を返してくる。
「じゃあさ、正義の味方にアンタがなったなら。自由に怒れるようになるんだよな?」
いきなり何を、と思った。しかしそれを言葉にする前に彼は新たな衝撃を運んできていた。彼を中心にして激しい光が発生して、視界が十分でなくなってしまう。
これは何、とも言おうとした。けれどもその言葉は驚きで防がれてしまう。彼は鉄柵のフレームの天辺。風に背中を押されれば屋上から落下してしまうような危険な場所にいたのだ。
それなのに彼は一片の恐れも感じさせない笑顔でこちらを見つめている。そして私に向かって別れの挨拶を告げてきた。
「正義の味方、いつでも新入生を歓迎してるぜ!」
それを告げて直ぐ、鉄柵のフレームを強く踏み切って、策の向こう側の町へと飛んでいった。どういった理屈かは分からないが落下しているわけではない。自由に空を駆けている。手には棒状の形容しがたい物体がある。
まるで夢でも見ているようだ。そう単純に思っていた。なにより理解がまったく追いつかないのだ。
それでも、一つだけ心に残っていることが確かにあった。心に深く刻まれたその言葉は喉から漏れる私の本音となっていた。
「正義の味方、か」
それに私がなれば、普通という枠組みから外れることができるのだろうか。一番に、そう思っていた。
それから数日後の屋上。私は再びその知り合いと話していた。数日前と変わらぬ姿勢で彼は鉄柵にもたれかかり、私も数日前を投影したかのように、同じ姿勢で彼との会話に講じていた。
あのような無茶を起こしたというのに、彼の姿は数日前となんら変わりない。怪我をしたようにも、怪我を治療したようにさえ見えていなかった。相変わらずの無造作に伸びた黒髪が目立つ、長身の男がそこにいた。
「いやあ、あの日の戦いは辛かったな。聞きたいか?」
そんな大男が乙女的ウインクをしながら、いかにも語りたい話があるということを見せ付けてくるのだ。それが本当に合った話なのか否かを今の私には確かめるすべが無く。全てを受け入れることはできないけれど、暇つぶしと思って話を聞くことにする。
「どんな戦いだったの?」
「えっ、聞くか? 聞きたいか?」
笑顔をより確かなものにしながら彼はそう聞き返してくる。
「……聞きたいよ」
「そうか! ならば話してやろう。誰にも言うなよっ」
私の言葉が引き金になったかのように、彼の口からはあの日有ったとされている武勇伝がダムが決壊したようにあふれ出してきた。その様子は大変疎ましいものではあったけれども、話の節々からは非日常の香りがしていて、ついつい先を聞きたくなっていた。
「四谷トンネルを抜けた後に工場有るのは知ってるだろう? でもそこが稼動しているのは見たことないはずだ。そこには怪しい輸入品を密輸するグループが仮拠点にしててなぁ」
その場所は知っている。そしてその工場の煙突からは煙を見たことはなかった。それだけで稼動していないと決め付けられはしないが、好奇心はその曖昧さを有耶無耶にしてくれる。その話を聞いてからあ工場には密輸グループの仮拠点となった。
「三上通りの道の石畳を見たことは有るか? あそこには不規則に水玉と星型の別色の石畳が敷いてあるんだけどな、あれはモールス信号に置き換えることができるんだ。それはある廃屋座標を示していてさぁ。そこには……おっと、これは見てからのお楽しみだ」
あのタイルは私の中では有名だった。道端や看板などに刻まれているマークや記号はなんらかのアルゴリズムを持っていることが多いけれど、あのタイルは不規則な並び方だった。高校二年の現在知っている全ての数列などを当てはめようとしたけれど、何もかみ合っていなかったのだ。
その話を聞いてから私の中ではあの通路は一種の暗号となっていた。
「五福山……「六畳」駅から良く見える山のことなんだけどな。あの山には昔から噂があった。一箇所だけぽっかりと草が枯れている円状の土地が山にあって、そこには古代より一対一の決戦場……西洋のコロッセオみたいに扱われている、という噂。今でもそこは運営されていて、だからこそ一般人は侵入できねえーっていう」
駅の名前も、山のことも知っていた。毎朝電車を使っている私にとって窓の外の光景は見知っているものだった。そして、不自然に草木の生えていない十円禿げのような場所も見知っている。
その時から私は――――。
夕焼けが屋上を橙色に染め上げる。眼下に広がる繁華街も、この普通に満ちた学校も、私のまだ知らぬ場所も平等に夕焼けは一色に染めてしまっていた。それは私や、鉄柵にもたれかかっている彼も同じようだ。
彼の体はいつもそこにあった。あたかも地蔵のようだとも思う。私は今まで、あの空中落下意外で彼が底から動いたのを見たことが無い。
そんな彼は話題を探したのか、それともタイミングを見計らっていただけなのか。不意に話すことを始めた。
「お前、嫌いなものはあるか? いや、好きなものでも構わない」
嫌いなものと好きなもの。簡単に言えば好みの話だろう。しかし、質問が何の脈絡も無いと思う。こういう質問は普通、友人間で交わす暇つぶしのようなものではないだろうか。
それでも会話を拒否はせず、普通に返す。
「好きなものは、えっと……読書? だと思う。特に純文学かな」
嘘ではない。人間の醜さや素晴らしさ、奥が深く底なし沼のようなその本質を。愛情や情欲、いろいろな方面から探る。そんな小説を私は好んでいる。普通に。
「へえ、ほほう……」
そう呟き、彼は一人頷いている。その様子がなんとも人をバカにしているように見えてしまう。会話の途中で自分だけの世界に入り込むのは失礼だろう。それが常識的な善悪であるはずだ。
「何か文句でも?」
「文句、別にねえな。人様の趣味に口を突っ込むほど野暮な人間じゃない」
返ってきた答えは何か、含みのあるモノだった。それが私の精神を憤らせる。
「文句じゃなくても、言いたいこととがあるなら言ったらどう?」
「いや、なんというか、さ」
彼の言葉は私の気にしているところを、心においての弱点とも言える核心に近づいているものであった。「普通」の人々相手ならばこうは成らないのかもしれない。「異端」な彼から言われたからこそ気にしてしまう。
そんな私の言葉の背後に浮かぶ悪意にも何の動揺を見せることは無く、いつもどおりに、のらりくらりと彼は言葉を生み出す。
「普通だな、と」
その言葉は私の核心を刺激する。私の心の真ん中にある「普通」への執着心を的確にあおってくるように私には聞こえていた。
言葉にできない何か。そして、確かに黒いと分かる螺旋が私の心に発生していた。不満はある。言ってやりたい言葉も、しかしそれらは私の言葉となることは無く、表情に滲ませることが限界だった。
その表情をあまり見られたくない、そうと気づいたときには彼に見られていた。彼は私を見ると、言葉を選び間違えたな、とでも思っているような表情になる。
気まずい雰囲気が二人の間に流れる。
彼にしてはいつもどおり行動していただけで、彼が悪いなんて私には大して思うことができない。結局、私が未熟なだけなのだ。
「今日は、帰る」
普通に言われた言葉を、重大に受け止めてしまって、その上で理由も言おうとした自分はさぞ理不尽なはずだ。そして、そんな自分は私は好きに離れない。
そんなプライドに突き動かされて、私は夕焼けの屋上を後にした。
昔から「普通」といわれて生きてきていた。その言葉を吐いている人たちに悪感情があったとは思っていないけれど、それを言われることは私にとって「普通」であり――――「最悪」だった。
何をやってもそつなくこなす――中途半端にこなす。そして、決して一流になることはできないのだ。
頑張りや、だ――――才能がないので努力しかできない。もちろん別格となることはできない。
悪気がない、それがどうしたのだ。その度に私の心は好き勝手に切り裂かれてゆく。悪気ないことは、つまるところ無意識に触れられやすいということ。今回の彼だってそうなのだ。
わかっている。この思考は思春期にありがちな、恥ずべきものということは知っているのだ。それでも、恥ずかしく思うべきだからといって気にしてはいけないなんて納得することができない。
そして、私はそれを気にしながら「普通」に生きていくしかないのだろう。現代において凡人は「異端」にはなれない。「異端」とは、そぅ。彼のような人間がふさわしいのだろう。
何となく後ろめたい。そんなことは辛い人生という道の上を歩くならば、何度も経験する気持ちだろう。自分が悪いならば謝ればすむ、しかしそれが軽度のものであったり、あるいは互いに負い目があったりするなら後ろめたくなるはずだ。
彼の言葉は何の変哲もないものだし、私がたまたま気にしていたから気分を乱しただけだ。加害者といえるのは彼だ。しかし、私がその後、事を収めることができずに逃げ出したことも一員に違いない。
たまらなく厄介だ。そう思う。
そんなことを思っているうちに、次の日の屋上には行けなかった。足が妙に重く感じられたのだ。そしてそれが肉体的な問題ではないのを知っている。
後ろめたさが悪い。
そう呟いていると、屋上と構内を隔てる扉が眼に入る。私がこれを見るのも二日ぶりのことである。冷却期間がひつようだったのだ。
そうこうすると扉が目前にある。手もドアノブをしっかりと握りこんでいる。鍵はかかっていなかった。まあ、いつものことではあったけれども。
しかし扉は開かない。
「………………」
何か細工でもされたのだろうか? 棒状のものを立てかけることによって擬似的に鍵をかけることは可能だ。もしかしたらその類のものかもしれない。
「……うん、ならしかたない」
世の中というのは案外上手くいかないのだ。一足す一は二どころか一と三分の一程度になるのが落ち。説明書通りに行っても上手くいかないことも多い。何も妨げのない扉がなぜか開かないことだってあるのだ。
つまりこの扉に何の細工もされていないわけだけれども。一度帰ると決めたのなら帰るべきだ。仁義は通そう。
そう考え切り、私がドアノブから手を離そうとする。その瞬間、ドアノブが屋上の方向へ遠ざかってゆく。気を抜いていた私の体はその運動につれられて私の体屋上へ倒れこまされてしまう。
私の体は屋上の地べたに倒れる。
「…………何やってんだ。お前」
おそらく彼が扉を開けたのだろう。良く考えれば扉に張られている板ガラスからは姿が見えるのだ。
「…………あはっ」
恥をかき、それは私の心の引き金となってくれたらしい。弁明、とは言わないだろうけれど後ろめたさをなくしたいとは思ったのだった。
ふと彼を見ると、いつもどおりの定位置に彼は佇んでいた。語る様子は見えず、おそらく私が話すのを待っているのだろう。彼の手のひらで踊っているようだ、そう考える。しかし、道化のような今日の有様はそれに相応のものだろう。
「私ね。普通が嫌いなの」
彼は返答しない。聞いているのだろうけれど、それに異論を挟む気はないらしい。
「私自身が「普通」だっていうことは知ってる。けれども、嫌いなの」
思春期に、いや時期なんて問わず。自分のことを十分に愛せる人間などいるのだろうか? むしろ嫌う人間のほうが多いだろう。私の場合も類に漏れなったということだ。
「周りからずっと言われてきた。悪気はなくとも、「普通だ」「平凡だ」って。いやだったけど、言わなかった。向こうは困るだろうから」
「「普通」を止められたら……、そう思ったことも何回だってある。けれども、なれなかった。漫画のキャラじゃないんだから、そうそう変われなかった」
不思議と言葉が進んだ。ストッパーが故障していて、終わらないと錯覚するように私の主張は放たれていった。彼という人間がそうさせているのかもしれない。「異端」だと、そういう雰囲気を感じさせている彼が。
「私はあなたみたいな、さ。「異端」になりたい」
いるだけで他人にの心に影響を与えるような。そんな人間に私はなりたかった。他人に普通、の一言で表現されてしまうような薄い人間を辞めてしまいたかった。
「…………」
彼は、聞き終わってから少し間をおいていた。言うべき言葉を、今度は間違えないようにと、精錬させているのかもしれない。
1歩踏み出して、彼がこちらへと近づいてきた。
眼は何時になく真剣だ。
「お前さ」
「う、うん」
彼の言葉は下手すればこの先の人生の道しるべとなるものだ。その言葉に不安を覚えない人なんていない、そう私は思うのだ。
彼は言葉を続けるために息を吸う。その音すらこの時間には聴こえそうだった。緊張は私の感覚を機敏にしている。
「きっと――――」
そう言い始めた途端。彼の服のポケットから電子音が鳴り出した。会話を途切れさせる、最悪の形であった。そして、彼はポケットから携帯端末を取り出す。
私にとって大切だった会話は終わってしまったらしい。彼を見ると先ほどまでと同じように真剣そうな表情を保って、通話相手と話している。
蚊帳の外だ。それは「異端」と「普通」ではすむ世界が違うのだと言われているようだった。
しばらく私は放置されていた。そこから動く気が起きなかったのは何故だろう? おそらく急の用事であることは彼から見て取れるのに。
少しの時間が経った。
「すまん。仕事だ」
いつもと違う、真剣な表情はその「仕事」がどれだけ重大なものかを教えてくれていた。 そして、私の中で生まれた疑問を聞いてしまう。
「それは、「正義の味方」の仕事?」
我ながらありえない質問だと思った。けれども、以前に聞いたそのキーワードを笑って流せ
るようなものでなかったから聞いていた。
「ああ、その通りだ。悪い奴を改心させてくる」
そう言うと彼はあの時と同じように、鉄柵を上りフレームに立ち上がる。彼の眼に映っているのは「普通」の世界ではないのだ。きっと、「異端」のそれを見つめていた。
待って、そう言いたかった。その背中を見ると、このような日常が崩れ去りそうな予感がしたから。
さあ飛ぼう。そう踏み切る姿勢を彼がとったときだ。
「「普通」だって悪いことだけじゃねえ。「異端」だって、同じだ」
え? といおうとするも、待たれず。彼は宙へ飛び出した。
その日から、彼を屋上で見ることはなかった。
私が屋上に行かなかった、あの後ろめたかった日。彼はあの屋上にいたのだろうか?
それの是非はわからなかった。しかし、私は彼が来なくなった次の日もあの屋上を訪れていた。行くたびに彼の姿が鉄柵の近くにないことを確認して、少しだけ待って帰宅する生活を送っていた。
あの日の会話が悪かったのだろうか。私が「普通」は嫌いだと、そう言わないでいれば、バタフライエフェクトてき現象によって彼に「仕事」が入ることはなかったのではないだろうか。
そんな非現実的な妄想に沈み込んでいる。
それほど私は彼に会いたかったのだ。彼が言いきれなかったその答えを聞きたかった。自分にとって何かを変えてくれるものかもしれないから。
そんな思いを込めて、彼と会えなくなってから三日目。私は屋上の扉の前へ立った。数日の間これが続くと、期待の念も減ってしまうもので、あまり期待はしていない。
私はそうして、扉を開け放った。
視界には――――一人の女性が立っていた。
長い茶髪を腰まで伸ばし、底まで冷えているような瞳を携えている。おそらく数歳上だと思われる。彼女からはまったく違い印象ながらも彼と同じ「異端」の気配を感じていた。
「君が、例の女子か?」
ああ、これが彼の、「正義の味方」の仲間なのだと。直感から理解できてしまった。
「そうか。例の、といっても分からないよな。数日前まで連日、ここでだらしない男と話していた女子は君か?」
「は、はい」
彼女は私のことを探していたらしい。私を例の女子とやらと同一人物と見ると、方からかけていた小さめのバッグを漁りだす。少し経つと、お目当ての品を見つけ出したのか腕を上げようとする。
が、手首より下だけをバッグの中へ入れ続けていた。奇妙な行為だと思う。使うために取り出したのならその状態では使いにくい。そんな私の様子を彼女はどう思ったのか。ただ言葉を続ける。
「君は彼のことをどこまで知っている?」
「どこまで、とは?」
「全般的な話だ。名前でも、趣味でも、何でも」
一体何故そんなことを聞くのだろうか。おそら」くこのようなことを聞く以上、この彼女がこの場へ来たことは彼が関連しているはずだ。
「彼から頼まれたことがある。それを行うのは気権が苫なう。だから」
――――君が彼にとってし尿で切る人間なのかが知りたい。
その問いに、私は十分に答えられない。彼との間に名前を交わしたこともなければ、趣味の話だって一方的に聞かれただけだ。私が彼についていえることは性別と、それと――――。
「彼は、屋上から飛び降りても無事なんですよ」
「は」
その顔を見たくない。私がすごい恥ずかしいことを言っているみたいじゃないか。まあ、きっと言っているんだろうけれども。
そんな風に、そっぽのほうを向くように私がしていると、彼女のいるほうから笑い声が聞こえた。振り向くと、冷徹そうな彼女が愉快そうに笑っている。第一印象からは考えられない様子だ。
「あ、あのえっと」
「あははははっ。あいつ、名前も教えなかったのに、そんなとこだけっ、見せたのかよ!」
一人、笑っていた。言われてみれば、名前すら知らないのにあれは変かもしれない。いや、間違いなくおかしい話だろう。
笑いが収まるまで、私は彼女のことを見続けていた。最穂見たときより穏やかに、いうなれば親しみやすそうに見えるのはきっと気のせいではないのだろう。
ふぅ、と。笑いにピリオドを打つように落ち着いた息を彼女がはいて、私に用件を切り出してきた。
瞳には再び冷淡な何かが宿っていた。切り出される言葉は真剣なものと、嫌が応にも感じられずにはいられない。
「君と話していたその男が、捕まった。警察とかではなく、悪の組織というヤツにだ」
ニオイがする。彼や目の前の彼女と同じ「異端」のニオイが。
「彼から託されたものがある。これを使って――「正義の味方」になるつもりはないか?」
普通の道を私はどこかで踏み外していたらしい。目の前には既に「異端」の扉があった。鍵は彼が開いていて、後は開けるだけだ。
七光港、そこにはいつも海へ出ずに停泊し続ける船がある。豪華ではないがいやに巨大なその船にはいろいろな噂があった。
幽霊が住み着いている、富豪が愛人との逢瀬に使っている、麻薬を栽培している。
それらは軽い気持ちで作られた妄想であり、本気で取り合う必要もない。しかし、そう思わせるだけの怪しい雰囲気を持っていたのだ。
「数日前の戦い。私たちの見立てでは大して手間もかからずに制圧できると思っていたんだ。何をって? そこを住処にしている悪い奴等さ」
彼が語っていたように、この町にある怪しげな噂の一つは真実だったらしい。彼女の語る七光港の船は有名な話だ。
そこに、小規模ながらも違法に重火器を持っている者たちがいるらしい。そして彼女たちはそれを解決するために、彼と彼女と他数人で乗り込んだというのだ。
恐ろしい話だ。船の中身の話もそうだが、彼らの戦力も異常すぎる。
「そんな武装勢力相手に、どうやって戦おうとしたんですか? 重火器をあなたたちも持っているとか?」
「持ってないさ。持っていたら易々と正義なんて名乗れないよ」
そんなものはいらないんだ、と言いながら彼女は自分の右手の指を見せてくる。細く、滑らかなその指は大昔の彫刻を連想させるような美しさを持っていた。そして、その中指には藍色の指輪が嵌っていた。
「指輪ですか?」
「ああ、これはね……」
超高温の熱にさらされた金属のように、指輪がどろりと彼女の中指から溶けだす。すると、その解けた物体が何倍もの体積を持って、光ながらあるものを形とった。
輝きを放ちながら変形したそのあるものは、銃だった。
「こうやって使うんだ」
そう言っていると、船の内部の部屋。その部屋を支える幾多もの柱の一つからナイフを持った男が現れた。武装勢力というだけに移動速度は速く、アスリートと遜色ない速度で走ってくる。それも曲線的に動いて弾丸を交わそうという意図まで含んでいた。
「女二人か? 案外、芋づる式に御用。とはいかないらしいなぁ!」
「別に、まとまって探すよりも分かれたほうが探しやすいだろう?」
下がってろ、私にそういうと彼女は自らナイフを持った男へ走り近づいていく。しかし、これは自ら攻撃を受けるためではないのだろう。彼女は全てを見切っていたように見える。
ついに距離が迫り、ナイフの凶刃が彼女へ襲い掛かろうとする。が、それを見る前から大きく横へ跳んだ。相手が動作をとめることのできないぎりぎりのタイミングでそれを行う。そして、宙に体が浮いている中正確な射撃を男の頭へと――――。
眼をつぶる。人が死ぬ瞬間なんて見ていられない。
が、暗闇に視界を捧げて数秒経っても、射撃音は聞こえてこなかった。
「……え?」
「最初に会ったときいっただろう? この銃は「銃の形をとっただけ」だって。使いやすい形にしているだけ」
そういえばそうだ。ただ、銃という形は私にそれらを忘れさせるインパクトを持っていた。
「この指輪は「正義の味方」共通の道具だ。これらは各々の適する形をとって、これで攻撃すると、どんな悪人だってたちまち改心してしまうのさ」
殺してはいない。ただ、碌でもない人格とはいえ強制的に構成させるんだから、殺しとも
いえるかもしれない、そう彼女は言っていた。
今思えば、彼が飛び降りたあの日。彼が握っていた棒状の物もその類なのだろうか。
「あいつはそれを捕まる前になんとか渡してきた。屋上にいるあの子へ渡してくれ、ってね」
母校の屋上とか言ってくれれば探し終わるのも少し早かったのに、とも彼女は言う。
なにもかもが非現実的な話だ。しかし、実際に私は見てしまっている。そして、触れてしまっているのだ。信じないわけにはいられない。
「それ、どんな形にするかくらいは決めておいてくれ」
「わ、わかりました」
そういいながらも、私にとっての形がどんなものかは想像もついていなかった。右手の人差し指に嵌った真紅の指輪を見ながらそう思った。
「武装勢力は私たちを圧倒していたわけじゃあないんだ。運というか、偶然が重なってあいつは捕らわれた。それなのにこのゴロツキは人質程度で私たちを倒せると思っている」
武装勢力といってもそんな驕りがあるんじゃあ三流以下だね、と彼女は言う。そういった考えは「普通」の枠組みから出られない私には到底できないものだった。それだけの慣れ、があるからこそ私を連れてここへこれたのだろうけれど。
「だから君の戦力がプラスであろうとマイナスであろうと構わない。指輪もあることだしね」
そんなことを言っていた。それこそ彼らと同じような「驕り」ではないのだろうか。その考えが彼女にあるのかはわからない。しかし、それをうなづけるだけの強さをこの数時間で見てきていた。
鍵は特別な器具で外し、敵は何人いようとも銃で射撃して改心させていた。敵の数は他にこの船に潜入している味方が減らしているらしい。
敵が問題ないというなら、彼を探すだけだ。人質を隠すのなら地下なのではないかとう思惑から階段を下へ下へ向かっていった。
人質奪還は結論から言えば失敗した。
監禁されていた部屋に突入していた瞬間、開いた扉の陰に待ち伏せていた男に先導した彼女が攻撃された。人質を増やそうとしていたのか、殺すのではなく気絶させただけですんだのわ不幸中の幸いだろう。
先にあったナイフ男は殺しにかかっていたが、あれも殺しきるわけではなく、しばらくは生き延びられる状態にしようとしていたのだろうか。
ここで私には二つの選択肢があるわけだ。一つは抵抗せずに気絶させられて、人質三人目となること。もう一つは指輪の力を使って、奮闘してみることだ。
このときの私の頭の中には、本能にもと図く問いが浮かんでいた。「普通」ならばどうすればいい。それだけだ。
これはここまできて私が「普通」である。ということなのだろう。だから私は安全をとっておとなしく――――指輪を開放させる。
スタングレネードのように真紅の指輪が激しい光を放つ。扉から襲ってきた男も、おそらく中にいる彼や、見張りの者たちも、私にも降り注ぎ、一時的に視界を奪う。
その光の中で、私の掌の中に何かが創造されていくのがわかる。あやふやだったそれは段々と一つの形をとって武器としての形をとる。
その形を視認する必要はない。私が望んでいる形なのだから、握って驚くことも、振るって戸惑うことはない。
扉を突き穿つ槍。
ずっしりと手にかかる重さは妙にちょうどいいと感じられていた。自分の一部なのだろう。望む形というのはそういうものだ。
光が収まる前に、彼女を襲った男の位置を闇雲に突く。重さも、この槍を動かすのに障害になるほどのものではない。何度か攻撃するうちに、ゴムの塊を蹴り飛ばそうとして失敗したような官職が腕を包む。きっと、攻撃が当たったのだろう。
光が失せ、部屋の中が見渡せる。障害物は特になく。私が今貫いた男を除いて二人の男がいた。手には銃器があるも、突然真紅の棘棘しい槍が現れたことに驚いている。
好都合だ、そう思った。
銃器がなぜか怖いものには見えなかった。槍を持っているからだろうか? それとも正義の味方に慣れそうな場所にいるからだろうか。
多分両方なのだろうと思った。私は私が思っているほど理論的な人間ではない。もっと、単純で――だから走っていいのだ。
居を突いている状態ならば銃器も特に問題ではなかった。指輪がそうさせているのか私の体は強風に吹かれる灰のように高速で二人の敵に迫る。
その接近息づいた一人の男が銃を構えた。迎え撃つ、そう思った。だから私はその構えた男の下へ低い姿勢で駆け込んだ。
「う、うわあああ!?」
怯えるはずなのはこちらのはずだ。それでも私の気迫は相手を動揺させることができていたらしい。明らかに何拍も遅れた射撃がこちらを襲う。しかし、私の腕は意識せずとも迎え撃つために動いていた。槍の細い胴体は銃弾を体から逸らしてくれるように構えられている。射撃音の跡に送れてやってきた、金属音はそれが成功したことを教えてくれた。
それが聞こえることにはもう男にとっては遅い。板も傷も与えない突撃が、彼の胴体を貫いていた。
「なっ……」
自分になる、というのは嬉しいことだ。少なくとも「普通」の枠組みにいてはそうそう自分をさらけ出すことなどできない。
私は初めて、この鉄火場において自分になることができたのだ。
もう一人の男も銃を構える。瞬く間に仲間の二人がやられて戸惑っているのか、投げられた槍を交わすこともなく頭部を正面から貫いて気絶されてしまう。
呆気がない。そう思う。
たった数十秒もあったか定かでないその体験は、私になんとも形容しがたい興奮を与えていた。「異端」に触れている人間というのはいつもこうなのだろうか? 私がずっと求めていたのはこういうものだったのだと、心が叫んでいる。
生まれてきて一番楽しいかもしれない。
三人の男たちは気絶していた。例の彼女も気絶したままだ。余程腕っ節の強い男だったのだろう。
部屋の奥のほうにぐるぐる巻きにされた誰かが見える。おそらく彼だろう。
先ほどまでとそう程度とはいわないが、駆け足で彼の元へと向かう。鎖で体を縛られ、壁の取っ掛かりと手錠を結んで口元をガムテープで覆われている。
彼の様子は全身に傷が多く、けれども致命傷のようなものは入っていない。その様子見安心して、口元のガムテープを思い切りはがす。そうとうの痛みが走るだろうけれど、気付けには十分だろう。
べりっ、と。
「痛っ」
「大丈夫? 助けに来たよ」
声はいつものようにしっかりとしてはいない。どこか掠れているのは埃っぽい空間に放置されていたからだろう。
槍は手に持っていないから、彼の眼に映るのは屋上のときとなんら変わりない私の姿だ。しかし、内面はこの経験で大きく変わっている。あえて危険な道を選ぶ度胸だって、今の私にはあるのだ。
そんな自信を胸に秘めて、彼と会話をしつつ拘束を解こうと私はしていた。このときのことは正に「驕り」というやつだろう。私はこんなところに来てまだ鉄火場というのを理解していなかったらしい。
彼が掠れた声で何かを伝えようとしていた。
「…………し、ろ」
「えっ?」
そう聞き返しながら、私は彼の手錠を解除しようと手で弄んでいた。後ろのほうをまったく見ずに、ここにいた三人が最期の敵だと思い込んで。
「後ろにいるっ!」
彼は掠れた声を強引に吐き出し、私の頭を床へと打ち付ける。ある程度の高速を解除していたからできたことだ。
そして、その私の頭上数センチの箇所を銃弾が掠めた。
悪寒が私を支配する。数瞬の判断の違いが私を亡き者に将としていたのだから。そして、それは終わっていない。発砲した敵はおそらく、今まで気づかなかったことから扉の外、ここと直線状に何の障害物もない場所にいるはずだ。
弾切れになっていたとしても、私たちに残された時間は数秒。銃を持っていた彼女は気絶しているし、そうでなくとも扉の外にいるのだから内側から銃で攻撃することはできない。絶体絶命だ。
気づいたら彼の開放された手を握っていた。
私が槍を拾っていればこうは成らなかったかもしれない。所詮、私程度がこの場でいるべきではなかったのだ。
「お、い。頼みがある。」
彼の顔を見る。傷だらけだが、瞳には諦めていない闘志の炎があった。この状況でも彼は諦めていなかった。
「…………何?」
「指輪を元の形に戻せ。アレはお前の一部でもあるんだからできるはずだ」
言うがままに、間に合わなくなる前にそうした。意識せずともそれをする方法は私の脳に刻まれているようだった。
槍を出したときと同様の光が部屋の中央の壁側から発生する。これで、あの棘棘しい武器は姿を失ってただの指輪の形にもどっているはずだ。
すると、直ぐに射撃音が響く。間に合わなかったのだ。数瞬の跡に弾丸は私たちの体を襲うはず……。
「勝手に、諦めるな。それでも正義の、味方、か?」
弾丸は襲ってこない。代わりに金色の一筋の光がこちらへと飛び込んできた。
あれは、指輪だ。
彼女のほうを伺うと、銃を構えた腕を部屋の槍のあった場所へと向けていた。きっと、その弾丸で指輪を弾いてこちらへと運んだのだろう。
むちゃくちゃだ。普通じゃない、そういった思考が私を支配する。
しかし、先ほどの音が彼女のものなら本物の敵からは直ぐに新たな射撃が来るはず。槍をここから向こうへと私には投擲することはできないだろう。
ならば、指輪も全て無駄ということに。
「任せろ、ここそ、と言うときはよぉ。俺が決めてやる」
彼が私の手首を振りほどいて、指輪を握り締める。途端、槍とはまったく違った造詣が彼の手の元へと生まれていく。
彼はその手に収めたものを確認もしなかった。ただ、相手に向けて放るのみ。敵を襲うのは紅い長剣。槍よりもおそらく投擲に向かない武器で、相手へと弾丸を弾きつつ正確に投げ、相手に命中させた。
向こうにいる彼女も体を起こし、万全とは言わないまでも不意打ちを警戒するには十分な状態になっている。頑丈さも尋常じゃないということか。
追いつけないなぁ、そう思う。
「異端」という扉を開ける鍵は私の手の中に確かにあった。そして、それを使ったのも私だ。しかし、その咲にいることを私は許されてはいなかったらしい。
どこまで近づこうと頑張っても、確かな溝が私と彼らの間にはあった。どこまでも強固で、超えることも砕くこともできないようなものが。
私が「異端」になる資格を失ったのは、きっと「普通」を嫌ってしまったときだ。代わろうと思うものにはきっと彼らと同じ領域へは到達できない。
彼らにとっての「異端」は「普通」の延長線上にある。
私には、切り替えるしかない私ではダメなのだ。
「お前、泣いてるのか?」
「え? う、嘘っ」
泣いていた。私は、止まることのないように泣いていたのだ。自覚なんてしていない、気づいたら――泣いていた。
「怖かったのか? いや、悪いな。もともとお前を連れてきてもらいたかったのはスカウトするためで――」
怖かったわけではない。ただ、情けなくて。「異端」を心から望んでいたはずなのに、そしてその願いが叶ったのに。それとなることが絶対にできないとしって、情けなかったのだ・
そして、悲しかった。
私は一生先に進む資格なんてないのだと。わかってしまったから。
「お断りし、ます。私、は」
言うべきだ。自分の素質を分かりきってまでこんな領域にいようとするわけには行かない。未練がましく、なにより諦める私にとって彼らはまぶしすぎるだろう。
溝があるなら、嵌らないように離れるべきだ。
「正義の味方になんて、なれない」
非日常を垣間見て、あろうことか足を踏み入れて、自分を知る。いい経験になるのは数年後のことなのだろう。今の私にとっては悲しむべき挫折の一ページでしかない。
あんなことが有った次の日から、私は屋上へ向かうことを編めていた。彼が来なくなったという理由ではない。そもそも彼が屋上から離れたのかさえ知らない。
彼と始めてあった日を思い出す。
最後に屋上で彼と会ったときと同じように、手策にもたれかかり。私に「見込みがありそうだ。良かったら話し相手になってくれ」なんていってきたのだ。
そう、話し相手だった。そこから進展して、仲間となることは結局できなかった。
私には、「普通」の人間にはできなかったのだ。
なんとなく、夕焼けを見て屋上へと向かいたくなった。あの出来事から一ヶ月はたって、少し私にも落ち着きが出てきていたのだ。
未練がましいことは嫌いだけど、なんとなく夕焼けというのは私を感傷的にさせている。
一ヶ月前まで当たり前のようにあった有明けの屋上。特別な空間、そこに私は足を踏み入れる。
これで最後にしよう。とは思っていた。
階段を駆け上がり、扉を勢い良く開け放つ。いつかと同じ夕焼けが私の体を橙に染め、少し懐かしい光景が私の瞳に飛び込んでくる。
そこに彼はいなかった。
「…………ああ」
期待をしていなかったといえば嘘になる。いつも変わらぬ彼の姿を、夕焼けに満ちるこの空間でもう一度見ていたかった。
あの時私が言った言葉は、決別の印だったのだ。彼はそれを読み取って、あの事件から一度もここを訪れていないに違いない。
なんとなく、私は彼の気に入っていた鉄柵の場所へと向かう。
すると、
「手紙?」
鉄柵に乱暴に、神社のおみくじを棒にくくりつけるようにして一枚の紙片があった。それを見つけて直ぐその紙片を手に取ろうとする。
風で吹き飛ばされないように、と考えたのか型結びされたその紙片。その高速をほどこうとすると、その紙片が角ばっていて、どうも神を折りたたんだときに何かを包んでいるのだと気づく。
解いて、それが手の中へと入る。碧玉の色をした指輪だった。
紙片には彼から私への文章がつづられている。
『―――ー――』
あの時と同じように、止まりようのない涙が溢れ出した。
それでも、あの時とはまったく違う理由だ。あの時は悲しかった。でも、今の私が感じているのは……。
ああもう、何で彼はこうも私の道を乱し、歪めてくるのだ。「普通」の道を歩むことにした私に、どうして、こうも諦められないようなことを言ってくるのだ。
でも、そんな期待に私は答えられない。きっと、その道を選べばいつか公開し続けることになるだろうから。
ああもう、わかっている。彼の言いたいことも、私自身のことも。
だから。私はこれから先、普通に行き続けていくのだろう。けれど、
今、この時だけは、諦めないことにしよう。




