ラクド
その男は走っていた。
何を求め、何を追いかけているのか?
風体は、薄汚れた白シャツの上にグレーのヨレヨレの上下、黒いボロボロのコートを羽織り、鍔広の帽子を被っている。無精髭を生やしたその顔には、腐った魚のような瞳があった。
表情のない彼の顔からは、急いでいるのか、急を要していないのかさえ分からなかった。
ただ、男の尋常では無い速力と俊敏さが、彼が特別な存在である事を物語っていた。
男の名は虫取り屋。彼の目指すところは、『楽園の番人』──朽木楽土の潜んでいる場所である。
彼が『黒い球体』から得た技術と知識で、何をしでかすのか見当もつかない。彼が行動を起こす前に止める必要がある。虫取り屋は、無表情の顔の裏側で、焦りを感じていた。
最悪なのは、ラクドが球体の正体と、アカシアの実態を知ってしまった事である。神工知能アカシア──アカシックレコード上に構築された超次元演算知性体の制御方法をマスターしてしまったら、世界の全ては彼の手中に落ちてしまう。アカシアのホロメモリでもあるアカシックレコードを自由に書き換えられると言う事である。
その存在は、神を超えた『超神』とでも云う存在だろうか。アカシアのデバッグ・システムである虫取り屋の存在すら、消してしまえるのだ。
──事態は急を要していた
虫取り屋は『情報屋』で得た記憶を反芻していた。情報が間違いないなら、ラクドのアジトは、この近くの筈であった。
とその時、虫取り屋は異様な気配を感じて立ち止まった。左手を前方に伸ばして、空中をまさぐる。
「特製の迷宮回廊か。……いつも以上に厄介な事をしてくれる」
虫取り屋が呟いた。いつもの如く独り言のようであった。
「さて、この数十層に織り込まれた空間を、どう突破するかだな」
『黒い球体』の力を使ったのだろう。ラクドは自分のアジトの防御のために、空間をも支配したというのか。何十層にも折りたたまれた空間は、入り組んだ迷路となり、侵入者を阻んでいた。
「アカシックレコードを適当に書き換えれば簡単なんだがなぁ。ま、そうもいくまい。一枚ずつ剥がすのも面倒だし、どうしたものか……」
虫取り屋は、特に難儀をしているようにも見えなかった。しかし、実際にこの『迷宮回廊』を突破するには、正攻法では何年もかかってしまう。
果たして虫取り屋は、いつもの草刈り鎌を取り出すと、迷宮回廊と通常空間との境目に近付いた。そこで右手の鎌を天高く振りかぶると、そのまま多層空間へと振り下ろしたのである。
その効果は如何なるものであったのか。幾層もの空間が玉ネギのような断面を見せると、剥がれて砕け散ったのである。しかし、迷宮回廊は数秒もすると、剥がれ落ちた空間を自己補修して、鉄壁の防御空間を再生してしまった。
「やはりな。一気に砕くしか方法は無いか」
虫取り屋は、何でもないように呟いたが、果たしてそんな事が可能なのだろうか?
彼は、両腕の鎌を胸の辺りまで持ち上げると、なんと、自身の胸に二丁の鎌を突き立てたのである。傷口から赤黒い血潮が吹き出し、鎌を濡らしていった。その行為に、どのような意味があるのだろうか?
虫取り屋は、しばらくの間、そうやって鎌を自分の血で濡らしていた。そして、充分に鎌の刃が血潮で濡れたのを確認すると、一気に刃を抜き去った。更に多くの血が胸から吹き出し、地面を濡らしていた。しかし、それも十数秒の間だけで、出血はすぐに止まり、何事もなかったかのように虫取り屋は顔を上げた。出血の為か、その顔は若干白んでいるように見える。
彼は、血に濡れた鎌を大きく振りかぶると、再び多層空間に向けて振り下ろした。
人ならぬ血の効果がどれほどのものか、迷宮回廊の壁は一気に切り裂かれて、粉々に砕け散ってしまった。
空中に開いた入り口は、人がやっと通れるような小さなものではあった。だが、突破口を作るのにどれほどのエネルギーを費やしたのか、虫取り屋の足元は、若干ふらついているように見えた。それでも、彼は自らが作り出した空間の穴を通り抜けて行った。
虫取り屋が多層空間の奥に消えると、穴は数分ほどで修復され、鉄壁の『迷宮回廊』を再生していた。後には、地面に飛び散った血の跡だけが残っていた。
その頃、楽園の番人──ラクドは『黒い球体』の扱いに思案していた。
「さて、せっかく手に入れた球体だが、……どうしたものか。単に、技術や知識の断片を引き出すのなら簡単そうだが。黒い球体の情報を意のままに扱うには、イタコの婆さんみたいに、憑依させるしか無いのだろうか。しかし、それでは僕の肉体への負荷が大き過ぎる。何か良い方法がある筈だが……」
ラクドが、部屋の中をウロウロと徘徊していた時、涼やかな鈴の鳴る音が響いた。侵入者の警報である。
「誰だ、いったい。ここの周辺には、迷宮回廊を張っていた筈だが」
苛立つラクドが、部屋の隅のテーブルに近付いた。そこには、小さな水盤が置かれていた。彼は澄んだ水を覗き込むと、左手を水面を舐めるように滑らせた。すると、波立つ水面に、疾走する虫取り屋の映像が現れた。
「またアイツか。しつこい奴だな。こっちも、悠長に相手をしているだけの余裕がない。さて、どうしたものか」
思案するラクドの目は、狂気に彩られていた。
その頃、虫取り屋は、もう数本目の無限回廊を突破したところだった。
「未だ、あるのか。念入りなヤツだな。……急がねば」
これだけの防御である。突破する方の疲れも大きいが、施術者の疲労も半端ではない。事実上の根比べであった。
ふと前を見ると、知った顔があった。朽木楽土──楽園の番人その人である。
「やぁや、虫取り屋さん。こんなところまでご苦労さん。でも、もう遅いよ。『黒い球体』は、もう僕の手の内だ。早々に諦めて帰るんだね」
そう嘯くラクドに、虫取り屋は、
「たかが式神の分際で、偉そうな事を云うな。こんなモノを使ってでも足止めすると言う事は、そっちも随分切羽詰まっているようだな。ここは通らせてもらうぞ」
と、言い放った。一方、ラクドの姿をした式神は、
「待った待った。ここで、スルーされる訳にはいかないんだよ。ちょっとだけでも、相手をしてくれないかな?」
と、困ったように言うと、例の長刀を構えた。一方の虫取り屋の両手には、いつもの草刈り鎌。
偽りのラクドが長刀を大上段に振りかぶった瞬間、式神はその胴体を両断されていた。
「式神など、はなから相手になどなるものか」
虫取り屋は、そう吐き捨てるように呟くと、再び無限回廊を疾走し始めた。
目前には、それをあざ笑うかの如く、二人目、三人目のラクドが現れては、虫取り屋の鎌の餌食となっていった。
──何本の無限回廊を突破し、何十人の式神を倒したのだろうか?
虫取り屋の無表情の顔にも、疲労の影がさしていた。百人目の式神を倒し、一際頑丈な無限回廊を突破した時、彼はこれまでとは違う感覚にとらわれた。
「ここが終点か?」
帽子の下の唇が、独り言のような声を発した。
「せぇいかぁい。ご苦労だったね、虫取り屋さん」
満面の笑顔で出迎えたのは、今度こそ本物の楽園の番人であろう。
「ラクド、今度は本物のようだな」
「その通り。久し振りだねぇ。随分と疲れているようだけど、大丈夫? スタミナドリンク、あるよ」
そう言って青年が差し出した手に握られていたのは、どこの薬局でも売っている栄養ドリンクの瓶だった。
「いらん」
青年の申し出に、貧相な男は、無下もなく断った。
「そう? 結構いけるんだけど」
彼はそう言うと、茶褐色の瓶の蓋を開け、中身を一気に飲み干した。
「ぷっはぁ。生き返るねぇ。みなぎる、ぱわぁ」
虫取り屋は、そんなラクドの行動を無言で見つめていた。どこにも焦点を結ぶことのない腐った魚のようなその眼差しは、さらに淀んでいるように見えた。
「で、単刀直入に言うが、『黒い球体』を返してもらおうか」
虫取り屋は、ラクドにそう問うた。
「うーん、どうしようかなぁ。僕には、もう無用の物なんだけど……。記念に取っておきたい気もするしねぇ」
ラクドの応えに、虫取り屋は緊張した声を漏らした。
「もう無用だと。球体の内容は解析済みという事か?」
虫取り屋の言葉に、彼はニッと笑うと、こう言ったのである。
「全てを解析する必要なんて無かったんですよ。要は、神工知能アカシアへのアクセスとROOT権限の奪取が出来れば、オッケイだったんです。アクセス用のターミナルは、『黒い球体』の情報から既に構築しました。アクセス権限の問題も、球体を調べる事で分かった脆弱性を突くことで、解決します。実際その方法で、限定的ながら、この付近を記録したアカシックレコードは、僕の思いのままとなった。虫取り屋さん。アナタは間に合わなかった。残念でしたね」
それを聞かされた虫取り屋は、いつの間に出したのであろうか、二丁の草刈り鎌を手に、そこに立っていた。両手はダラリと垂らした自然体。いつでも戦闘に入れる。
一方のラクドも、人の背丈ほどもある長剣を取り出すと大上段に構えた。
「今日の僕は、いつもとは違いますよ。言ったでしょう。この周辺の空間は、僕の自由自在だって」
青年は勝ち誇ったようにそう言うと、虫取り屋に向けて、その剛剣を振り下ろした。虫取り屋は、二丁の鎌をクロスさせて、その剣戟を受け止めた。だが、ここに来て不思議な現象が起こった。煌めく刀身が、鎌をすり抜けて、虫取り屋の左肩から胸までをも引き裂いていたのだ。
傷口は大きく割れ、赤黒い血潮が止めどもなく吹き出しては、床を濡らしていた。
「驚きましたか? 事象を書き換えておいたのです。『鎌による防御は無効』とね」
「くっ」
虫取り屋は苦鳴を挙げると、右手で左肩を引き戻して復元を試みた。しかし、肉体の再生が始まらない。いつもなら十数秒で傷は癒着し、回復するのに……。
「無駄ですよ。アナタの再生能力も、無効にしておきました。どうです、苦しいですか? さぁ、そろそろ止めをさして上げましょう。アナタの永きに渡るお仕事も、今日が最後だ。本当に、ご苦労様でした」
ラクドはそう言って、長刀を振り回した。虫取り屋の左手が飛び、右足が切断された。それでも未だ立っている虫取り屋の姿に、ラクドは少しばかり苛ついていた。
「往生際が悪いなぁ。死ぬ時くらい、楽に殺されればいいのに。……おっと、アナタには、確か、生命が無いのでしたね。では、これで終わりにしましょう」
そう言うと、彼は長剣を水平に薙いだ。遂に虫取り屋の首が飛んだ。辺りには、血の海に浮かぶ、虫取り屋だったモノの残骸が散らばっていた。
「ふ、く、くふふふふふっふ。遂にやったぞ。あの虫取り屋を、僕が倒したんだ。アカシアを使えば、虫取り屋さんの存在そのものを無かった事にも出来ますが……。そこは武士の情け。闇の歴史に、アナタの名前を刻んでおきましょう。僕が倒したという事実と一緒にね。はっはっはっはぁ」
ラクドはアカシアを手にし、虫取り屋を倒した事で、有頂天になっていた。そのため、この部屋に奇妙な現象が起きていることに、しばらく気が付かなかった。
いつの間にか、虫取り屋の死体が消えていたのである。大量に吹き出した血とともに。
──一体、何が起こっているのだろう?
「おい、ラクド。上機嫌じゃないかい」
その声は、青年の背中の方から聞こえた。驚いて振り向くと、そこに立っていたのは、ついさっきバラバラにして殺した筈の虫取り屋だった。
「む、虫取り屋さん? な、何故だ。何故、生きている。アナタは、さっきバラバラにして殺した筈だろうに。これは、僕がこの手でアカシックレコードに記した事実だ。どうして現実世界に繁栄しない」
狼狽えるラクドに、虫取り屋は、こう語って聞かせた。
「残念だったな、楽園のぉ。ここは既にオレのサンドボックスの中だ。今のお前は、安全に隔離されたダミー空間で、エミュレートされている存在に過ぎない」
それを聞いたラクドは、顔を真っ赤にすると、虫取り屋に反論した。
「嘘だ! 僕は、確かにアカシア・システムの脆弱性を利用して、管理者権限を奪取した筈だ。全てこの世は、無限の過去から無限の未来まで、僕の思い通りの筈だ。それがどうして……」
全能者になった筈の楽園の番人は、事象が自分の思い通りにならない事に苛立っていた。
「済まないなぁ、ラクド。その脆弱性は、既に修正済みのモノだ。お前の方法では、権限昇格はできなくなっていたんだ」
淡々と述べる貧相な帽子の男の言葉でに、ラクドの顔が憎しみで覆われた。
「おのれぇ、虫取り屋。お前だけでも地獄の道連れにしてやる!」
青年はそう叫ぶと、長剣を振り上げ、虫取り屋に切りかかった。
しかし、どうしたことだろう。彼の剛剣は、虫取り屋の頭の上で停止し、微動だにしなくなったのである。
「な、何だ。動けない。虫取り屋ぁ、何をした!」
長刀どころか、両の手足さえ思い通りに動かせなくなって、青年の端正だった顔は、憤怒で醜く歪んでいた。
「ブレーク・ポイント。プログラムの開発では、よくお世話になる仕組みだ。……ふむん。こう言った暴力性の中に、人が道を踏み外す原因があるのだろうな……」
動けなくなったラクドの顔を見て、虫取り屋は、そう呟いた。
そして、手にした鎌の刃を、容赦なく彼に振り下ろした。頭頂部から股間までを一刀のもとに両断され、遂にラクドは息絶えた。
「デバッグ終了。バックアップ・アーカイブの回収完了。これより後処理に入る」
虫取り屋の言葉は、いつもの如く、冷淡なモノであった。
数日後、一人の大学院生が自宅で首を吊っているのが発見された。
特に遺書などは残されていなかったが、知人達の証言では、彼はここ一ヶ月程の間、学業に随分悩んでいたという。
警察や報道陣に混じって、多くの野次馬が集まり、現場は混乱を極めていた。
その中には、ボロボロの黒いコートを着た帽子の男が混じっていたように思えたが、それも、何処ともなく人並みの中に紛れ、消えてしまった。